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聖岩 Holy Rock10

时间: 2020-02-21    进入日语论坛
核心提示:古都     4 絹織物工場が市街のどのあたりにあったのか、いま杭州市の略地図を眺めても全く思い浮かばないどころか、その
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古都
     4
 絹織物工場が市街のどのあたりにあったのか、いま杭州市の略地図を眺めても全く思い浮かばないどころか、そのあと車で通ったはずの市街の一部のイメージさえもないのは、工場での体験が衝撃的で、かつ工場を出てからあとも様々な思いが濃く強く私の、心を領していたからだろう。
翁という名の元捺染工とその無残な犠牲者たち、劉少奇国家主席をさえ獄死させるほどの権力を振いながらいまは刑務所につながれている「四人組」たち、死後は彼らとのかかわりを公式にはタブーとされている毛沢東。そんな影濃いあるいは巨大な人物たちの姿が、心の中を影絵芝居のように転変しながら絡み合い……そして想像以上に深い奥行と陰影を秘めているらしいこの杭州という古都。
車で西湖岸の、近代的な高層鉄筋コンクリート建てだが伝統的な中国風に装飾された壮麗なホテルに入り、湖面を眺め渡しながらの昼食の間も、私はそんなことを茫々と考えていた。動乱と秩序と、暴力と優雅と、そのどちらが光で影なのか、一時は未来からの光とも見えた「文化大革命」も、いまや黒い陰謀と権力争いの「犯罪」であり、そのように反転しながら縺れうねって流れる「歴史」とはいったい何だろう、と。
陽は燦々と明るかったが、湖面から立ち昇る水蒸気で、対岸もまわりの低い山々も白く煙ってよく見えない。ふと杭州駅に着く直前に車窓から何気なく目についた小さな光景を思い出した。ちょうど工場の出勤時で線路沿いの道路の柵のすぐそばを、青い人民服姿の工場労働者らしい若い女性が腕に抱いた幼児をかわいくてたまらないという表情で、歩きながら幾度も幾度も頬※[#底本では「來+頁」、第3水準1-93-90]ずりしている姿だった。工場に着いたら託児所に預けるのだろう。特別の意味もない通りがかりの日常の風景だったが、その偶然の短い記憶が射し始めた朝日の光の感蝕とともに、何かとても貴重なことだったように、改めて感じられた。
食後、割り当てられた部屋で、私は着換えをした。夜には肌寒いこともあった黄河流域での長袖の厚地の上着と下着を脱いで、細かな白い斑点模様の入った褐色のカッターシャツの上に、べージュ色の半袖のサファリジャケットを着た。その褐色のシャツもサファリジャケットもいまも夏に東京で時々着るが、その度に西湖岸のホテルの部屋の明るさと、午前中の重苦しい気分を思い切って脱ぎ捨てる気持ちでそれに着換えたことを思い出す。
午後は「文化大革命」の取材もなく、西湖を見物することになっていた。西湖はその歴史的な有名さほど大きくはない。周囲約十五キロといい、元は杭州湾の奥の入江のひとつだったのだが、川が運んだ土砂が入江の口をふさいでできたいわば小さな陸封湖である。地方官吏としてこの地に勤めたふたりの詩人、唐代の白楽天と北宋の蘇東坡が作らせたと伝えられる「白堤」と「蘇堤」という二本の堤が湖中の北側と西側に伸びている。風はほとんどなく湖面は穏やかに明るかった。すっかり新葉が出そろった胡岸の樹々が青々と映っている。湖岸からエンジン付きボートで、まず湖中の水上公園「湖心亭」に着く。
私はいま虚心に思うのだが、その日そこで見た風景ほど、単純に純粋に美しいと感じた風景は少ない。その後に世界も国内の幾つもの場所で見た風景も含めて。豪壮とか荒寥とか憂愁とか悠久とか幽邃とか枯淡とか華麗とか霊的とか宇宙的とか、何らかの形容詞つきならば、心をうたれ魂を奪われた場所は幾つもある。だがそこは一切の形容、一切の連想なしに、ただ美しかった。
五月初めのよく晴れた昼過ぎの光、という偶然の条件も大きく働いていたに違いない。とろりと澄むともなく濁るともなく仄暗い鏡面のように半透明の水面に、睡蓮が花開いていた。どぎつくない赤と白の、あるいは花芯が赤くて花弁は白い、そこはかとなく華やかできりっと端正な小柄な花が、水中に建てられた堂宇を囲んで、そこにもここにも開きかけ、開ききっていた。
かたまって浮かんだその緑の葉の群の間から、悠々と水中をゆく黒っぽい魚の影が透けて見え、動かない水面には精妙に飾られた窓のある白壁、軒の端が心もち反り返った灰色の瓦屋根、燃えるような朱塗りの細い柱の堂宇が、背後の樹々の緑とともに、ひっそりと鮮やかに逆さまに映っている。光は水上の白い壁も水面の白い壁も、同じように燦々と照らし出す。
|寂静《じゃくじょう》として鮮明だった。
水光|瀲艶《れんえん》※[#底本では「さんずい+艶」、第4水準2-79-53] 晴も|方《まさ》に好し
と蘇東坡が西湖を詠んだのは、この季節のこの光のなかだったろう、と即座に実感できたほど九百年という時の経過がここでは消えているのか、それとも凝縮されていた。この永遠にも等しい一瞬の風景は死ぬまで、いやこのイメージの残像だけは最後の息を引き取ったあとまで、少なくとも数秒間は宙に残るだろうと思った。
さらにボートは湖面を南に進んで、人工の小島「三潭印月」に着いた。この妙な名前の由来を聞いた気もするが覚えていないし、小島の中そのものの記憶も、「湖心亭」のそれに比べてひどくぼやけてあいまいである。灰色の古い石の橋を渡った。竹の茂みの蔭の小道を辿った。廃園風の白い土塀が曲りくねっていて、不意に門の前に出るが、その門をくぐり抜けながら、自分が小島の内に入っているのか外に出ているのかわからない。
「湖心亭」にはこちらの時間感覚を気化させる光と色の幻術があったとすれば、この小島の古い庭園は空間の魔術だった。何百年の時間の塵が降り積もっているような敷石の小道が、さり気なく曲り上がっては下り、ボートの上から眺めたときはほんの小さな島だったはずなのに、いつまでも歩き続けている。竹の茂みも木立も常に初めてのように見える。
そのうちこの迷路は明らかに人間が仕組んだものだと気付くが、その意図も手も全く感じられない自然さ。島そのものが外から土と石と木を舟で運んで造られたはずなのに、これを設計し構築した人間たちは、自然の中に見事に隠れ紛れて消えている。自然を装ったあるいは縮小した庭園は多い。だがこれほどまでに自然を手懐けて自然そのものに成りきった小天地を、少なくとも私はこれまで見たことがなかった。これこそ最高の人工性てはあるまいか。精妙に考え抜かれ感じ尽くされ、しかも人間の行動とその歴史に対する深い絶望の冷笑的な気配もある……。
これが杭州の感性なのだ、と酔うように不気味でもあった。光の中の白壁と朱の柱と睡蓮の花々が陽画だとすれば、音もたてずに揺れる竹の茂みの蔭の灰色の迷路はその陰画なのだろう。睡蓮の花々の下には黒い魚影が見え隠れしていたように、小道の敷石の下には忍び笑う遠い声のようなものが聞こえた。
南宋の宰相秦檜は怒涛のように南下する「金」の軍団から首郡臨安(杭州)を守ろうとして、主戦論の武将岳飛を獄死させその首を送って、からくも「金」と和平協定を結んだのだが、いま西湖畔の岳飛廟では秦檜夫妻の像は後手に縛られて岳飛の前に脆かされているという。その他も南宋の政治指導者たちが賄賂と追従と酒色を好んだ無能な「悪者」だったことを『清富記』は繰り返し述べている。
八百年前もこの地の歴史的現実は凄絶だったのだ。
いつのまにか、私たちは瀟洒なガラス張りの温室風の建物の中にいた。ガラスの器に盛った半透明の白っぽい食べものが、テーブルの上に置かれている。
「この湖の蓮の実を粉にして練ったものです」
とずっと私たちを案内してくれている杭州市の当局者が言った。
香ばしい葛湯のようなその半固体状の食べものの微妙な風味を、私たちは口々に賞讃しながらひと口ずつ味わった。温室の中には色とりどりの様々な草花が咲き乱れている。
そのとき不意に強い視線を横顔に感じた。温室のガラス壁に折り重なって張りつくようにして何十人もの青い人民服姿の人たちが、私たちを覗き見ているのだ。湖面には遊覧船風の幌掛けの舟があったし、「湖心亭」でもこの小島の庭園でも見物人らしい人民服の人影を見かけてはいたが、とくに意識してはいなかった。
ところが気がつかぬうちにその人たちが集まっていた。「文化大革命」が終ってまだ間もないこの時期、外国人の入国はまだ異例で、外国人の観光客などはいない。私たちはそれぞれに明るい色のラフな服装をし、手に手に高級カメラを持っている。カメラマンはひとりで幾つもカメラを頸からぶら下げている。
それに対して中国人は全員が詰襟の(女性は折襟の)青い人民服、カメラを持っているものはいない。人民服も北京の高官たちはウールが入っているらしい上質の生地を体に合わせて仕立てさせたものだが、一般民衆のそれは固い木綿地の体に合わない既製服で、少し気温が高いと上着のボタンをだらしなくはずしている。
そんな着古した人民服の前をはだけた人たちが、自分たちは入ることのできない瀟洒な温室内の特別ルームで、高価そうなものを饗応されている私たちを黙って見つめているのだった。老人も若者も女性も全員が同じ洗い晒しの人民服で、同じように貧しそうだった。ただし羨望と恨みをこめて私たちをにらみつけている、というわけではない。中国の民衆は物見高いのだ。
黄河流域の農村を訪れたとき、村の幹部たちとともに集落の中の狭い道を、ひと気のない村だなと思いながら歩いていて、ふと後を振り返ると、泥壁の家々の小さな窓、幾つもの路地の蔭から何百という顔が私たちを背後から見つめていた。私たちが振り向いたと気付くと、忽ちその顔はすべて引っこむ。しばらく歩いてまた振り返ると、顔また顔だった。好奇心が旺盛なのだろう、と考えられるけれど、単純にそれだけとは思えない不気味さもあった。
この古都の民衆たちも同じようだ。視線は異常に強いのに、どの顔も何を考えているのか推察し難く無表情である。ガラス張りの濫の中の珍奇な動物を見物しているようでもあり、役人たちと一緒に(彼らから見れば)立派な身なりで特権を享受している現場を見咎めているようでもあり、蓮の実の香ばしさも消え、軽装に着換えて湖上に出てから忘れたつもりになっていた歴史的現実の重さが、じわりと気持ちの中に蘇ってくる。
彼らからみれば、唐が宋になり宋が元になり元が明になり明が清になり清が「中華民国」になり「中華民国」が「中華人民共和国」に変っても、食ってゆくだけがやっとの自分たちの生活は変らず、「上の者たち」の特権もまた変らない、と見えるのではあるまいか。
重なり合う人民服の顔の中に、捺染工時代の翁という名の若者の顔がまじっているような気がした。工場幹部の説明者は、全盛時代の翁が着服した工場の金で手下どもと、しばしば「三潭印月」で遊興した、と言っていた。きびしい労働の捺染工のとき彼は激しい目つきで、このガラス張りの温室内の特別ルームで談笑する人たちを見、どうしておれたちは中に入れないのか、と暗い怒りに燃えた日があったに違いない。なぜ中に入れないのか。権力がないからだ(「権力」という言葉が彼は異常に好きだった、と説明者は言っていた)。
彼は彼なりの仕方で「権力」を握った。その仕方も何百年来の「権力者たち」に習ったとも言える。「奪権闘争」「造反有理」と公然と激励してくれたのは、毛沢東だ。ついに浙江省革命委員会常務委員にまでなったとき、最初に彼はここに来て、この蓮の実のプリンを傲然とこの特別ルームで食べたであろう。その香ばしい風味は「権力の甘い香り」であったろう……。
そう想像し続けていると、午前中に工場の会議室で、彼の暴力的支配の無残な肉体的証拠を次々と見せられながら思い描いた黒々とした彼の像が、西湖という背景の中で少しずつ微妙に変ってゆく。彼の暗さの奥行がぼんやりと見えてくるような気がした。
私設監獄まで作った全盛時代に、彼がよく優雅な「湖心亭」や幽玄な「三潭印月」をぶち壊さなかったものだ。それらは古い権力者たちの及び難い感性の洗練の象徴ではなかったろうか。それとも、人間はぶちのめしても、この地に生まれ育ったひとりとして、西湖とその優美さを彼の血は愛していたのだろうか。全国でも異常に狂暴だったというほどの彼の暴力を生み育てたのが西湖のこの世のものならぬ妖しさだった、少なくとも地上の権力をいかに握ろうとも、動かし難いその絶対の美しさへの苛立ちが、彼の狂おしさをいっそう増幅した……。
その温室をどのようにして出たか、見物人たちがどのように離れていったか、「三潭印月」のどこから帰りのボートに乗ったか、そのすべての記憶がないのも、そんなことをまた私がしきりに考えていたからに違いない。
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