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二十二年間も主治医を勤めた李志綏博士の『毛沢東の私生活』(日本語訳一九九四年刊)という回想録によると、毛沢東は北京市中南海の公邸にじっとしてはいなかった。地方での会議とか地方視察というやむをえぬ場合以外も、専用列車で地方諸都市に滞在していたことが多い。ただし西安のような北方の都市の名前は李博士の回想録に一度も出てこない。私の目に最もついたのが、武漢と杭州である。
「文化大革命」が始まった一九六六年五月にも、毛沢東は杭州にいた。それまで文化関係の小さな政府機関だった「文革小組」を、党政治局直属の強力な政治指導組織「中央文革小組」に変え、新たに江青、張春橋、姚文元ら、のちに「四人組」と呼ばれる人物たちを加える重大措置を、毛沢東はその地でとった。つまり杭州は「文化大革命」発端の地だったことを、私は私の杭州訪問の二十年後に知る。
「ほかの連中にせっせと政治をやらせておけ。われわれは一服することにしよう」と毛沢東は言って杭州に留まり続けた、と李博士は書いている。
「杭州での毛沢東はいたって意気軒昂、滞在を楽しんだ。杭州市当局は主席のためにほとんど毎日のようにダンス・パーティーを催したし、また毛は別荘近くの丁家山によく登ったりした。もっとも、もの思いに沈んで無言の行に入り、思索にふける場合も多かった」
西湖のことも五月なら満開だったはずの睡蓮のことも出てこない。ダンス・パーティーは李博士によると、毛沢東にとって死ぬすぐ前まで絶えることなく続く、若い女性漁りの場である。翁はまだ二十代、色糊まみれになって捺染台で汗を流していた時だ。毛沢東がどのような「もの思いに沈んだ」のかは書かれていない。
この箇所を読みながら、写真で何百回も見ていた長身で肉づきのいい毛沢東の姿を、記憶の西湖の風景の中にはめこんで思い描こうとしてみるが、うまくおきまらない。風景のなかの一点というより、西湖全体を覆う大きな影のように感じられてしまう。
死去の半年余り後だったにもかかわらず、私が杭州を訪れたとき、同行の外務省官吏も市当局者たちも、毛沢東がしばしばこの地に滞在したことも、この地で「文化大革命」の口火が切られたことも一度も口にしなかった。不憫な「文化大革命」の犠牲者たちが次々と現れた工場の会議室にも、額に入った毛沢東の顔写真がかかっていたにもかかわらず。
だがそのときも、私の意識のなかには毛沢東の存在が見え隠れしていた、いや巨大な影のように絶えず感じられていた。翁という男の背後に、その影が常にあった。翁という人物が、工場の幹部が私たちに押しつけようとした「権力亡者の極悪人」というだけの男ではないに違いない以上に(取材チームの記者のひとりも、もしかするとあいつはすごく有能で魅力的な男なのかもしれないな、私にそっと言った)、背後の影は余りにも陰影に富み巨大で不可解であった。
李博士は回想している。
「文革の絶頂期、天安門広場が熱狂的な大群衆であふれ、市街が混乱をきわめていたときでさえ、毛沢東は(天安門広場に面した)人民大会堂のなかでも中南海の城壁の内側でも、女たちを相手に楽しんでいた」
「こんどは千人の人民が死ぬだろうな」と毛沢東は李博士に言った。「何もかもひっくり返りつつある。私は天下の大乱が大好きだ(我喜歓天下大乱)」。
確かに毛沢東はしぶとく冷徹でとりわけ逆境に強く、術策を好み、波瀾はあっても遂に死ぬまで最高権力と威信を保ち続けたが、「皇帝」、最高権力者、傑出した統治者、比類ない革命家といった一般的規定からはみ出る要素が多すぎることを、李博士の医学者らしい冷静で詳細な文章は描き出している。
天安門の楼上から群衆に手を振って演説するのを初めとして儀式的なことがとても嫌いで、生涯不眠症に苦しめられ、女性たちの誰をも本当に愛したことはなく心を許す男の友人もなく、王座に鎮座するより専用列車で故郷に近い長江南岸の諸都市を少数の側近と流浪するのを好み、夜と昼の区別なしに大型ベッドに寝転って歴史書を読み耽り、機嫌がいいと冷笑的なユーモアをとばす……かつてスメドレー女史が初対面のひと目で見抜いたように、彼は「孤独」だった。心の奥に底知れぬ「不吉な」穴があいていた。
中国間題の専門家でも毛沢東の崇拝者でもない私は(その死に当たってはささやかな被害者であった)、長文の李博士の回想録を読みながら勝手にこう思った——これはひとりの人間の記録ではなく、自然観察とでも言うべきものだ、と。
毛沢東個人というより毛沢東現象とでも呼ぶ方がふさわしい規格はずれ桁はずれの、矛盾と謎そのものの生涯をとおして、自然そのものが歴史に露出した、という印象を圧さえ難い。自然は畏るべく恐るべきものなのだ。自然に筋道も規範も目的も意味さえもない。|自《みずか》らそして|自《おのずか》ら然るものは、原理上、本質的に孤独である。
それに外から何らかの枠をはめようとするとき、それは物理的に反発し暴発するだろう。民衆の「生活水準」などほとんど念頭になかった、という李博士の指摘に同感することができる。党と国家の新たな官僚体制に反発した「文化大革命」もマスタープランなどなかった、という指摘も理解することができる。社会主義の将来さえ信じていなかったようだ、とも李博士はそっと書いている。
どういう色合いであろうと形ある世界(コスモス)は、毛沢東という自然には適合しなかったであろう。
「文化大革命」が始まった一九六六年五月にも、毛沢東は杭州にいた。それまで文化関係の小さな政府機関だった「文革小組」を、党政治局直属の強力な政治指導組織「中央文革小組」に変え、新たに江青、張春橋、姚文元ら、のちに「四人組」と呼ばれる人物たちを加える重大措置を、毛沢東はその地でとった。つまり杭州は「文化大革命」発端の地だったことを、私は私の杭州訪問の二十年後に知る。
「ほかの連中にせっせと政治をやらせておけ。われわれは一服することにしよう」と毛沢東は言って杭州に留まり続けた、と李博士は書いている。
「杭州での毛沢東はいたって意気軒昂、滞在を楽しんだ。杭州市当局は主席のためにほとんど毎日のようにダンス・パーティーを催したし、また毛は別荘近くの丁家山によく登ったりした。もっとも、もの思いに沈んで無言の行に入り、思索にふける場合も多かった」
西湖のことも五月なら満開だったはずの睡蓮のことも出てこない。ダンス・パーティーは李博士によると、毛沢東にとって死ぬすぐ前まで絶えることなく続く、若い女性漁りの場である。翁はまだ二十代、色糊まみれになって捺染台で汗を流していた時だ。毛沢東がどのような「もの思いに沈んだ」のかは書かれていない。
この箇所を読みながら、写真で何百回も見ていた長身で肉づきのいい毛沢東の姿を、記憶の西湖の風景の中にはめこんで思い描こうとしてみるが、うまくおきまらない。風景のなかの一点というより、西湖全体を覆う大きな影のように感じられてしまう。
死去の半年余り後だったにもかかわらず、私が杭州を訪れたとき、同行の外務省官吏も市当局者たちも、毛沢東がしばしばこの地に滞在したことも、この地で「文化大革命」の口火が切られたことも一度も口にしなかった。不憫な「文化大革命」の犠牲者たちが次々と現れた工場の会議室にも、額に入った毛沢東の顔写真がかかっていたにもかかわらず。
だがそのときも、私の意識のなかには毛沢東の存在が見え隠れしていた、いや巨大な影のように絶えず感じられていた。翁という男の背後に、その影が常にあった。翁という人物が、工場の幹部が私たちに押しつけようとした「権力亡者の極悪人」というだけの男ではないに違いない以上に(取材チームの記者のひとりも、もしかするとあいつはすごく有能で魅力的な男なのかもしれないな、私にそっと言った)、背後の影は余りにも陰影に富み巨大で不可解であった。
李博士は回想している。
「文革の絶頂期、天安門広場が熱狂的な大群衆であふれ、市街が混乱をきわめていたときでさえ、毛沢東は(天安門広場に面した)人民大会堂のなかでも中南海の城壁の内側でも、女たちを相手に楽しんでいた」
「こんどは千人の人民が死ぬだろうな」と毛沢東は李博士に言った。「何もかもひっくり返りつつある。私は天下の大乱が大好きだ(我喜歓天下大乱)」。
確かに毛沢東はしぶとく冷徹でとりわけ逆境に強く、術策を好み、波瀾はあっても遂に死ぬまで最高権力と威信を保ち続けたが、「皇帝」、最高権力者、傑出した統治者、比類ない革命家といった一般的規定からはみ出る要素が多すぎることを、李博士の医学者らしい冷静で詳細な文章は描き出している。
天安門の楼上から群衆に手を振って演説するのを初めとして儀式的なことがとても嫌いで、生涯不眠症に苦しめられ、女性たちの誰をも本当に愛したことはなく心を許す男の友人もなく、王座に鎮座するより専用列車で故郷に近い長江南岸の諸都市を少数の側近と流浪するのを好み、夜と昼の区別なしに大型ベッドに寝転って歴史書を読み耽り、機嫌がいいと冷笑的なユーモアをとばす……かつてスメドレー女史が初対面のひと目で見抜いたように、彼は「孤独」だった。心の奥に底知れぬ「不吉な」穴があいていた。
中国間題の専門家でも毛沢東の崇拝者でもない私は(その死に当たってはささやかな被害者であった)、長文の李博士の回想録を読みながら勝手にこう思った——これはひとりの人間の記録ではなく、自然観察とでも言うべきものだ、と。
毛沢東個人というより毛沢東現象とでも呼ぶ方がふさわしい規格はずれ桁はずれの、矛盾と謎そのものの生涯をとおして、自然そのものが歴史に露出した、という印象を圧さえ難い。自然は畏るべく恐るべきものなのだ。自然に筋道も規範も目的も意味さえもない。|自《みずか》らそして|自《おのずか》ら然るものは、原理上、本質的に孤独である。
それに外から何らかの枠をはめようとするとき、それは物理的に反発し暴発するだろう。民衆の「生活水準」などほとんど念頭になかった、という李博士の指摘に同感することができる。党と国家の新たな官僚体制に反発した「文化大革命」もマスタープランなどなかった、という指摘も理解することができる。社会主義の将来さえ信じていなかったようだ、とも李博士はそっと書いている。
どういう色合いであろうと形ある世界(コスモス)は、毛沢東という自然には適合しなかったであろう。