6
「三潭印月」を出たあたりから、陽が薄れて湖面から立ちのぼる靄のような水蒸気が濃くなった。
北岸に腫瘍のように湖面に突き出た一画がある。そこの疎林の下、灰色の光の中を私たちは歩いている。瓦を乗せた白壁の塀があり、その一部が少し高くなって人がふたり並んで通れるほどの正確に真丸い入口になっていた。入口の上に「西冷印社」と、その奥の建物の名前らしい横長の小さな額が掛かっているが、その名前からどういうところなのか、私は想像することができない。
案内者はその丸い入口に私たちを導いた。塀の内部は敷石の小道があり、名前を知らない幾つもの種類の老樹があり、瓦屋根の端が反り返ったこぢんまりとした建物があった。人影はなく異様に静かだ。「湖心亭」や「三潭印月」のように、訪れる者の目を意識して造られた場所ではない。何となく足音を控えるような気分で、私たちは小道を連なって歩いた。少し登ったかもしれない。
かなり大きな建物の中に入っている。ガラス窓が多いが、かなり古い木造建築である。入った途端に、旧制中学生のころ住んでいた「京城」(現ソウル)でよく行った古本屋——漢文の本物の古書籍が奥に並んでいる店内によどんでいた、埃っぽくいがらっぽくそしてふしぎに香ばしいようなにおいを思い出した。
広い土間に毛筆や墨や硯や印鑑用の石や拓本や画集を収めた大きなガラスケースが幾つも並び、壁には楷書、行書、草書、篆書、隷書の、地の紙がすっかり褐色に乾ききって隅の方が綻びかけたものから、まだそう古くはなくうっすらと黄色味を帯び始めているものまで、様々の時代の掛字が下がっていた。中二階になっていてその階段わきの壁までそうだった気がする。ガラスケースは丹念に拭きこまれていたが、壁も天井も板の階段も掛軸も室内の空気まで音もなくくすんでそこに夕暮近い翳った灰色の光が浅い水底のように沈みこんでいる。
花鳥山水の古画の掛絵もあったが、書の古書およびその関係の文房具を売るところらしい。だが商店にしては、無遠慮な足音や大声で話すのが自然に憚られる、しんと引き締まった雰囲気があった。他に客らしい人たちはいない。
人民服を着た男女の係員が何人もガラスケースの向こうに立っているが、その人民服は青色ではなく灰色だった。そして布靴をはいているように音もなく床を歩く。
痩せて長身の責任者らしい男が、低い声で「歓迎」の言葉を述べた(この時期それはどこの場所でも行われる決まりだった)。男がもう若くないことはわかるが、顔の傾きによって四十代にも五十代にも六十歳にさえ見える。顔色は沈んで眼窩のくぼみが深かった。
私はタヌキの毛の筆と金色の龍の模様の入った墨を買ってから、壁の掛字を眺めていると、いつのまにかその責任者が傍に立っていた。
「書がお好きですか」
耳もとに囁くようなしゃべり方だ。外務省官吏が来て通訳してくれる。
「いえ全く素人です。ただここの雰囲気が、門を入ってきてからとても気に入っています」
と答えると、男は独り言のように言った。
「日本の書家たちがここに来ます。中国の書家たちと、上の方の部屋で書を書いて交歓したこともあります」
私は横に動いて、花を描いた色紙の前に立った。
「絵がお好きなようですね」
と年齢不詳の男は年齢不詳の声で囁いた。
「これまでホテルや工場や学校や駅で目にしてきた絵、隅の方に必ず紅旗や兵士たちが描きこまれている大きな絵に飽き飽きしてたので、花だけを描いたこの小さな古い絵に初めてホッとしています」
通訳の外務省官吏が少し気になったが、ここは本当のことを言える場所だ、と感じた。
男は声をたてないでひっそりと笑った。
それから足音を立てないで奥に行くと、一本の掛軸を持ってきて、丁寧に壁に下げた。表装は真新しいのに、絵は古くかなり傷んでいた。だが横長のその水墨画を一瞥しただけで、私は息をのんだ。信じ難く自由な溌※[#底本では「さんずい+發」、第3水準1-87-9→78互換包摂 溌]墨の技法で描き出された、靄にかすむ湖の風景だったからだ。うごめく霧のなかに小島が飄然と浮き出している。思わず私は広いガラス窓に視線を向けた。下の老樹の梢が人工の小島を遮っていたが、灰色の湖面の一部が見えた。水烝気が立ちこめ始めている。
私は咄嗟に頭に浮かんだ画家の名前を口にしかけた。
「もしかすると、これは……」
その独自な溌※[#底本では「さんずい+發」、第3水準1-87-9→78互換包摂 溌]墨山水の画法の別の絵の実物を一度、複製写真版なら何度も見たことがある。だが男は静かに首を振った。そして「いい絵です」とだけ呟いた。会話にならぬ会話の通訳に、普段は日本語の達者な若い外務省官吏も緊張している。
そのとき市当局の案内者に導かれてチームの他の記者たちが建物の外に出始め、私は重ねて画家の名を確かめる機会を失った。もう一度、|縹渺《ひょうびょう》としてしかも|勁《つよ》い気韻の漲るその傷みかけた絵を眺めてから、男に深く一礼して、すでにチームの方へと急ぐ通訳のあとを追った。
もし私の咄嗟の直観に誤りなければ、その高名な南宋の画家は、ここ西湖岸の寺に住んだはずである。だが本物だとすれば国宝級のその画家の絵が、こんな奇妙な場所にあるだろうか、いやこんな場所だからそのような絵があってふしぎでないのかもしれない……興奮し混乱しながら、私は建物を出た。
散在する老樹の下、曲がりくねる古い石段を私たちはのぼった。丸瓦が畝のように並んだ瓦屋根の回廊が、小山の中腹をめぐっている。幾らか朱色もまじった暗灰色の瓦には苔がひろがっていた。前を行く中国専門の記者が話している。
「陳毅の書があったな。吊し上げに押しかけた紅衛兵たちを怒鳴り返したあの陳毅外相。剛毅な字だった。文化大革命に反対し続けて、外相の地位も奪われ、憤死するように死んだ。確か七二年の初めだ。もう少し生きのびれば良かったのに」
もうひとりの中国の事情にくわしい記者が言った。
「でも八宝山の革命墓地での追悼式で、毛沢東は、陳毅はすばらしい同志だったと未亡人の手を取って言って、一同声をあげて泣いたという話だから名誉回復されたんだ」
「埋められてから名誉回復されたってしようがないよ」
(そのとき毛沢東は泣くふりをしただけだった、と李志綏博士は書いている)
私は黙って列の一番後から、ゆるやかな石段をのぼった。小高い庭に出た。大きく平たい自然石のテーブルがあり、秋でもないのに紅葉した樹があった。小さな庭の端から西湖が見えた。
昼過ぎには鏡面のようにきらめいていた湖面が一面灰色に変って、対岸も蘇堤も小島も靄の流れに見え隠れしている。南宋の時代も暮れ方の西湖はこう見えたのだろう。まだ眼底にはっきり残っている、先程の異様なほど縹渺とリアルだったふしぎな古画を想った。次第に眼下に西湖を見渡しているのか、絵の中を覗きこんでいるのかわからなくなる。絵のなかでも靄はうごめき、小島は絶えず見え隠れしていた。西湖は絵のなかで何百年も暮れ続け、これからも暮れ続けるだろう。自然そのものより永遠に、だろうか。
「興奮しているようですね」
何年か後輩の親しい記者が、私の傍に立って言った。
「昼間の西湖はすばらしかったけど、暮れてゆく灰色の西湖もいいな。晴れても雨が降っても西湖はよい、と蘇東坡が詩に書いた通りだよ。それにここ、この場所。共産主義中国に、文化大革命が一番荒れたというこの杭州に、こんなところ、こんな人たちが残っていたとは」
「昔から政治や動乱を嫌った文人墨客たちが集まったところだと、案内人が言ってました」
「いかにもそんな感じの場所だよ」
「気がつきませんでしたか。さっき筆や墨を買った建物の奥の方に凄く品のある美人が坐ってた。髪はふさふさと真白なのに、顔は若い娘より美しい。白狐が化けて坐っているような気がして」
「それは気がつかなくて残念だったけど、この場所の気配は何かみたいだ、とさっきから考えていて……そう仙洞だ。仙人仙女たちが住んだという」
「好きなんでしょう、こういうところが」
私は少しだけ笑った。
「好きだよ。だけど気味も悪い」
庭を囲む書院風の部屋部屋の白壁にも、夕の灰色がしみこんでゆく。部屋の窓には斜交する格子が固くはめこまれている。人影は全くないが、その中で影のようなものが対座して静かに語り続けている気がした。時を超えて。
「暗くなります。行きましょう」
と予定の時間に忠実な案内者の声で、私たちはさらに小暗い林の下道を辿った。
林を抜けて少し下ると急に石畳の小さな広場に出た。行手に褐色の石を丹念に積み上げた二層の楼台があり、下層の正面には門のないアーチの入口が黒々と口を開き、上層の書庫風の大きな部屋の壁には蔦がびっしりと絡みついている。
蔦の隙間から覗いている両開きのガラス窓の窓枠の朱色が、なぜかドキリとするほどなまなましかった。窓にはガラス戸を開いて内側から庇の方に押し上げる木製の雨戸がついている。いまはまだ押し上げられた状態のままだが、上の書院風の部屋部屋と違って、ここには雨戸を上げ下ろしする係員が朝と夕暮に出入りする、あるいは昼間部屋の内部で仕事している人間がいる、ということだろう。そんな想像から石積みのトンネルの上のその部屋が、人間くさくて謎めいた一種異様な印象を与えるようだった。
あの部屋には何かある、という気が強くした。トンネルの中はひんやりと暗かった。長さは十メートル以上あったろうか。ということは頭上の書庫風の部屋もかなり大きいということだ。
トンネルを抜けると急に視界が開けて、ホテルが見えた。膨れた腫瘍のように突き出た一画から、ホテルのある湖岸に出たわけだ。下りの石段が自動車道路へと通じていた。異界からの出口のような石のトンネルの黒い口を幾度も振り返りながら一番遅れて私が石段を下りると、下で待っていた案内者がそっと教えてくれた。
「いま下りてきた小山をコ山と言います。孤独の孤という字を書きます」
「孤独」という言葉を口にするのを恥じるような言い方だった。
北岸に腫瘍のように湖面に突き出た一画がある。そこの疎林の下、灰色の光の中を私たちは歩いている。瓦を乗せた白壁の塀があり、その一部が少し高くなって人がふたり並んで通れるほどの正確に真丸い入口になっていた。入口の上に「西冷印社」と、その奥の建物の名前らしい横長の小さな額が掛かっているが、その名前からどういうところなのか、私は想像することができない。
案内者はその丸い入口に私たちを導いた。塀の内部は敷石の小道があり、名前を知らない幾つもの種類の老樹があり、瓦屋根の端が反り返ったこぢんまりとした建物があった。人影はなく異様に静かだ。「湖心亭」や「三潭印月」のように、訪れる者の目を意識して造られた場所ではない。何となく足音を控えるような気分で、私たちは小道を連なって歩いた。少し登ったかもしれない。
かなり大きな建物の中に入っている。ガラス窓が多いが、かなり古い木造建築である。入った途端に、旧制中学生のころ住んでいた「京城」(現ソウル)でよく行った古本屋——漢文の本物の古書籍が奥に並んでいる店内によどんでいた、埃っぽくいがらっぽくそしてふしぎに香ばしいようなにおいを思い出した。
広い土間に毛筆や墨や硯や印鑑用の石や拓本や画集を収めた大きなガラスケースが幾つも並び、壁には楷書、行書、草書、篆書、隷書の、地の紙がすっかり褐色に乾ききって隅の方が綻びかけたものから、まだそう古くはなくうっすらと黄色味を帯び始めているものまで、様々の時代の掛字が下がっていた。中二階になっていてその階段わきの壁までそうだった気がする。ガラスケースは丹念に拭きこまれていたが、壁も天井も板の階段も掛軸も室内の空気まで音もなくくすんでそこに夕暮近い翳った灰色の光が浅い水底のように沈みこんでいる。
花鳥山水の古画の掛絵もあったが、書の古書およびその関係の文房具を売るところらしい。だが商店にしては、無遠慮な足音や大声で話すのが自然に憚られる、しんと引き締まった雰囲気があった。他に客らしい人たちはいない。
人民服を着た男女の係員が何人もガラスケースの向こうに立っているが、その人民服は青色ではなく灰色だった。そして布靴をはいているように音もなく床を歩く。
痩せて長身の責任者らしい男が、低い声で「歓迎」の言葉を述べた(この時期それはどこの場所でも行われる決まりだった)。男がもう若くないことはわかるが、顔の傾きによって四十代にも五十代にも六十歳にさえ見える。顔色は沈んで眼窩のくぼみが深かった。
私はタヌキの毛の筆と金色の龍の模様の入った墨を買ってから、壁の掛字を眺めていると、いつのまにかその責任者が傍に立っていた。
「書がお好きですか」
耳もとに囁くようなしゃべり方だ。外務省官吏が来て通訳してくれる。
「いえ全く素人です。ただここの雰囲気が、門を入ってきてからとても気に入っています」
と答えると、男は独り言のように言った。
「日本の書家たちがここに来ます。中国の書家たちと、上の方の部屋で書を書いて交歓したこともあります」
私は横に動いて、花を描いた色紙の前に立った。
「絵がお好きなようですね」
と年齢不詳の男は年齢不詳の声で囁いた。
「これまでホテルや工場や学校や駅で目にしてきた絵、隅の方に必ず紅旗や兵士たちが描きこまれている大きな絵に飽き飽きしてたので、花だけを描いたこの小さな古い絵に初めてホッとしています」
通訳の外務省官吏が少し気になったが、ここは本当のことを言える場所だ、と感じた。
男は声をたてないでひっそりと笑った。
それから足音を立てないで奥に行くと、一本の掛軸を持ってきて、丁寧に壁に下げた。表装は真新しいのに、絵は古くかなり傷んでいた。だが横長のその水墨画を一瞥しただけで、私は息をのんだ。信じ難く自由な溌※[#底本では「さんずい+發」、第3水準1-87-9→78互換包摂 溌]墨の技法で描き出された、靄にかすむ湖の風景だったからだ。うごめく霧のなかに小島が飄然と浮き出している。思わず私は広いガラス窓に視線を向けた。下の老樹の梢が人工の小島を遮っていたが、灰色の湖面の一部が見えた。水烝気が立ちこめ始めている。
私は咄嗟に頭に浮かんだ画家の名前を口にしかけた。
「もしかすると、これは……」
その独自な溌※[#底本では「さんずい+發」、第3水準1-87-9→78互換包摂 溌]墨山水の画法の別の絵の実物を一度、複製写真版なら何度も見たことがある。だが男は静かに首を振った。そして「いい絵です」とだけ呟いた。会話にならぬ会話の通訳に、普段は日本語の達者な若い外務省官吏も緊張している。
そのとき市当局の案内者に導かれてチームの他の記者たちが建物の外に出始め、私は重ねて画家の名を確かめる機会を失った。もう一度、|縹渺《ひょうびょう》としてしかも|勁《つよ》い気韻の漲るその傷みかけた絵を眺めてから、男に深く一礼して、すでにチームの方へと急ぐ通訳のあとを追った。
もし私の咄嗟の直観に誤りなければ、その高名な南宋の画家は、ここ西湖岸の寺に住んだはずである。だが本物だとすれば国宝級のその画家の絵が、こんな奇妙な場所にあるだろうか、いやこんな場所だからそのような絵があってふしぎでないのかもしれない……興奮し混乱しながら、私は建物を出た。
散在する老樹の下、曲がりくねる古い石段を私たちはのぼった。丸瓦が畝のように並んだ瓦屋根の回廊が、小山の中腹をめぐっている。幾らか朱色もまじった暗灰色の瓦には苔がひろがっていた。前を行く中国専門の記者が話している。
「陳毅の書があったな。吊し上げに押しかけた紅衛兵たちを怒鳴り返したあの陳毅外相。剛毅な字だった。文化大革命に反対し続けて、外相の地位も奪われ、憤死するように死んだ。確か七二年の初めだ。もう少し生きのびれば良かったのに」
もうひとりの中国の事情にくわしい記者が言った。
「でも八宝山の革命墓地での追悼式で、毛沢東は、陳毅はすばらしい同志だったと未亡人の手を取って言って、一同声をあげて泣いたという話だから名誉回復されたんだ」
「埋められてから名誉回復されたってしようがないよ」
(そのとき毛沢東は泣くふりをしただけだった、と李志綏博士は書いている)
私は黙って列の一番後から、ゆるやかな石段をのぼった。小高い庭に出た。大きく平たい自然石のテーブルがあり、秋でもないのに紅葉した樹があった。小さな庭の端から西湖が見えた。
昼過ぎには鏡面のようにきらめいていた湖面が一面灰色に変って、対岸も蘇堤も小島も靄の流れに見え隠れしている。南宋の時代も暮れ方の西湖はこう見えたのだろう。まだ眼底にはっきり残っている、先程の異様なほど縹渺とリアルだったふしぎな古画を想った。次第に眼下に西湖を見渡しているのか、絵の中を覗きこんでいるのかわからなくなる。絵のなかでも靄はうごめき、小島は絶えず見え隠れしていた。西湖は絵のなかで何百年も暮れ続け、これからも暮れ続けるだろう。自然そのものより永遠に、だろうか。
「興奮しているようですね」
何年か後輩の親しい記者が、私の傍に立って言った。
「昼間の西湖はすばらしかったけど、暮れてゆく灰色の西湖もいいな。晴れても雨が降っても西湖はよい、と蘇東坡が詩に書いた通りだよ。それにここ、この場所。共産主義中国に、文化大革命が一番荒れたというこの杭州に、こんなところ、こんな人たちが残っていたとは」
「昔から政治や動乱を嫌った文人墨客たちが集まったところだと、案内人が言ってました」
「いかにもそんな感じの場所だよ」
「気がつきませんでしたか。さっき筆や墨を買った建物の奥の方に凄く品のある美人が坐ってた。髪はふさふさと真白なのに、顔は若い娘より美しい。白狐が化けて坐っているような気がして」
「それは気がつかなくて残念だったけど、この場所の気配は何かみたいだ、とさっきから考えていて……そう仙洞だ。仙人仙女たちが住んだという」
「好きなんでしょう、こういうところが」
私は少しだけ笑った。
「好きだよ。だけど気味も悪い」
庭を囲む書院風の部屋部屋の白壁にも、夕の灰色がしみこんでゆく。部屋の窓には斜交する格子が固くはめこまれている。人影は全くないが、その中で影のようなものが対座して静かに語り続けている気がした。時を超えて。
「暗くなります。行きましょう」
と予定の時間に忠実な案内者の声で、私たちはさらに小暗い林の下道を辿った。
林を抜けて少し下ると急に石畳の小さな広場に出た。行手に褐色の石を丹念に積み上げた二層の楼台があり、下層の正面には門のないアーチの入口が黒々と口を開き、上層の書庫風の大きな部屋の壁には蔦がびっしりと絡みついている。
蔦の隙間から覗いている両開きのガラス窓の窓枠の朱色が、なぜかドキリとするほどなまなましかった。窓にはガラス戸を開いて内側から庇の方に押し上げる木製の雨戸がついている。いまはまだ押し上げられた状態のままだが、上の書院風の部屋部屋と違って、ここには雨戸を上げ下ろしする係員が朝と夕暮に出入りする、あるいは昼間部屋の内部で仕事している人間がいる、ということだろう。そんな想像から石積みのトンネルの上のその部屋が、人間くさくて謎めいた一種異様な印象を与えるようだった。
あの部屋には何かある、という気が強くした。トンネルの中はひんやりと暗かった。長さは十メートル以上あったろうか。ということは頭上の書庫風の部屋もかなり大きいということだ。
トンネルを抜けると急に視界が開けて、ホテルが見えた。膨れた腫瘍のように突き出た一画から、ホテルのある湖岸に出たわけだ。下りの石段が自動車道路へと通じていた。異界からの出口のような石のトンネルの黒い口を幾度も振り返りながら一番遅れて私が石段を下りると、下で待っていた案内者がそっと教えてくれた。
「いま下りてきた小山をコ山と言います。孤独の孤という字を書きます」
「孤独」という言葉を口にするのを恥じるような言い方だった。