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翌朝は朝食後ホテルの玄関前に集まることになっていた。車に分乗して杭州駅に向かい、列車で次の訪問地上海に行くのである。
晴れて爽やかな朝だった。夜の靄は|霽《は》れきって、湖面で、湖岸の新緑の葉並で、光と風がきらめいていた。
背広に着換えて玄関前に下りてゆくと、すでに車が三台並んで待っている。先に来ていた記者のひとりが、写真のアルバムのような紙包みを抱えていた。何だ、ときくと、ホテルのフロントの横で中国の切手のアルバムを買ったのだという。
「フロントに実にかわいい女の子の服務員がいましてね、小柄で玉子型の顔に口紅もつけてない唇が採りたての苺のようで、顔を見つめると、すっと目を伏せるんです。その伏せ方がね、たまらなくいい。むかしは日本にもこんな少女がいたなあ、と懐しくなって、気がついたらこんな物買ってたというわけ」
私はその服務員には気付かなかったが、北方の北京や西安では若い女性でも顔を起こしてこちらの目を見つめ返すのに、ここには慎ましやかな女たちが多いことは私も感じていた。
「おれも切手買ってくる」と言って、若いカメラマンが玄関への階段を駆け上がってゆくのを、私たちは笑い声で見送った。共同取材旅行も二週間を超えると、それぞれに神経も疲れて気分が不安定になりかけていたが、この湖岸の朝は体まで晴れ晴れとしてみな上機嫌だった。
やがて手荷物とともに私たちが分乗し終って車が発車しかけたとき、青い人民服の若い女性が白っぽい自然石の広く長い階段を玄関から急いで駆け下りてくるのが見えた。片手に高く白い布地のものを振りまわして、何か叫んでいる。「忘れ物と言ってますよ」と車のドアを開けながら通訳が言った。
「あの娘だ」と切手の記者が叫んだ。
階段を転び落ちそうになるほど、小柄な娘は真剣に走ってくる。少女といっていいほど若かった。不意に、朝食のあと部屋でトランクを詰めたとき、もうこんなものは荷物になるだけだ、と北方で来ていた長袖の下着を、丸めて屑かごに押しこんできたことを思い出した。
「ぼくのだ」と私は言った。「捨ててきたのに」
車を降りた。部屋の掃除係がフロントに急いで届けたのだろう。全員注視のなかで、幾らか汚れていなくもない自分の肌着を受け取るのは、いささか気恥かしかった。階段下に立った。駆け下りてきた少女は息を切らしている。
「|謝謝《シェシェ》」と中国語で礼を言った。
少女は胸を大きくはずませて両手で下着を手渡しながら、そっと目を伏せた。朝日が|肌理《きめ》細やかな形いい額と眉を照らした。
車の中の連中が拍手した。
彼女に手を振られながら、車はホテルの正門を出る。湖岸の柳の枝がそよいでいる。湖が一面にきらめいている。「湖心亭」の屋根瓦も光っている。私は疎林の中に「西冷印社」の丸い入口を探したが見つからなかった。「孤山」の影が葉隠れに見えた。
その一画の、深く蔦に覆われた朱塗りの窓枠の、書庫風の部屋の異様に濃い印象が浮かんだ。四庫全書は、少なくとも二百巻に及ぶ総目録はあそこにあるのだ、と強く思った。灰色の服に布靴の仙人たちに、ひそかに確かに守られて。
案内者に尋ねてみれば確かめることもできるかもしれなかったが、私は尋ねなかった。
晴れて爽やかな朝だった。夜の靄は|霽《は》れきって、湖面で、湖岸の新緑の葉並で、光と風がきらめいていた。
背広に着換えて玄関前に下りてゆくと、すでに車が三台並んで待っている。先に来ていた記者のひとりが、写真のアルバムのような紙包みを抱えていた。何だ、ときくと、ホテルのフロントの横で中国の切手のアルバムを買ったのだという。
「フロントに実にかわいい女の子の服務員がいましてね、小柄で玉子型の顔に口紅もつけてない唇が採りたての苺のようで、顔を見つめると、すっと目を伏せるんです。その伏せ方がね、たまらなくいい。むかしは日本にもこんな少女がいたなあ、と懐しくなって、気がついたらこんな物買ってたというわけ」
私はその服務員には気付かなかったが、北方の北京や西安では若い女性でも顔を起こしてこちらの目を見つめ返すのに、ここには慎ましやかな女たちが多いことは私も感じていた。
「おれも切手買ってくる」と言って、若いカメラマンが玄関への階段を駆け上がってゆくのを、私たちは笑い声で見送った。共同取材旅行も二週間を超えると、それぞれに神経も疲れて気分が不安定になりかけていたが、この湖岸の朝は体まで晴れ晴れとしてみな上機嫌だった。
やがて手荷物とともに私たちが分乗し終って車が発車しかけたとき、青い人民服の若い女性が白っぽい自然石の広く長い階段を玄関から急いで駆け下りてくるのが見えた。片手に高く白い布地のものを振りまわして、何か叫んでいる。「忘れ物と言ってますよ」と車のドアを開けながら通訳が言った。
「あの娘だ」と切手の記者が叫んだ。
階段を転び落ちそうになるほど、小柄な娘は真剣に走ってくる。少女といっていいほど若かった。不意に、朝食のあと部屋でトランクを詰めたとき、もうこんなものは荷物になるだけだ、と北方で来ていた長袖の下着を、丸めて屑かごに押しこんできたことを思い出した。
「ぼくのだ」と私は言った。「捨ててきたのに」
車を降りた。部屋の掃除係がフロントに急いで届けたのだろう。全員注視のなかで、幾らか汚れていなくもない自分の肌着を受け取るのは、いささか気恥かしかった。階段下に立った。駆け下りてきた少女は息を切らしている。
「|謝謝《シェシェ》」と中国語で礼を言った。
少女は胸を大きくはずませて両手で下着を手渡しながら、そっと目を伏せた。朝日が|肌理《きめ》細やかな形いい額と眉を照らした。
車の中の連中が拍手した。
彼女に手を振られながら、車はホテルの正門を出る。湖岸の柳の枝がそよいでいる。湖が一面にきらめいている。「湖心亭」の屋根瓦も光っている。私は疎林の中に「西冷印社」の丸い入口を探したが見つからなかった。「孤山」の影が葉隠れに見えた。
その一画の、深く蔦に覆われた朱塗りの窓枠の、書庫風の部屋の異様に濃い印象が浮かんだ。四庫全書は、少なくとも二百巻に及ぶ総目録はあそこにあるのだ、と強く思った。灰色の服に布靴の仙人たちに、ひそかに確かに守られて。
案内者に尋ねてみれば確かめることもできるかもしれなかったが、私は尋ねなかった。