午前七時、目覚まし時計で起きたが、眠りも覚めきってなく夜も明けきっていない。こんな辺境の地まで北京標準時を使っているので、夜明けは遅く暮れるのも遅い。
下着をもう一枚余分に着こんでも寒く、着換えてからもベッドに腰かけて、おもむろに明けてゆく青っぽい朝を、二重ガラスの窓越しにぼんやり眺めていた。昨夜眺めたときよりポプラは背が高く、市外の民家は想像したより貧しそうだった。石積みの塀。だが低い屋根から斜めに突き出した煙突から流れ始める朝餉の薄青い煙が、ひどく懐かしかった。あそこにはどんなに貧しくても生活がある……。空港へと向かう車の後の窓から振り返ると、灰色のロシア式ホテルが中世の古城のように、朝靄から聳えて見えた。
午前九時、アクス経由ホータン行きの双発旅客機に乗りこんだとき、朝はようやく明け切った。四十人ほど、ほとんどがウイグル族の乗客を満席に乗せて、機はたちまち天山山脈へと高度を上げる。麓から中腹にかけてかすかに草の生えかけた広大な斜面が広がり、羊の群が幾つも散らばっている。牧歌的な風景と思いかける間もなく、天山山脈の上を飛んでいた。
天山山脈——西はパミール高原から東はモンゴルとの国境近くまで、広大な新疆ウイグル自治区のほぼ中央を二千キロにわたって横断する大山脈。子供の頃から孫悟空の物語で知っていた伝説の魔の山だが、こんな黒々と硬く、まるで鋼鉄の巨塊の列のような山々だとは。中腹から上はまだ雪に覆われ、峰々の南側で雪は薄れて鋼鉄の地肌が露出しているが、北側は深々と白く、峰と峰の間の谷は凍りついた万年雪が氷河の趣である。
山脈中央部には七千メートル級の高峰もある。われわれが越えるのは東端に近く比較的低い部分だが、それでも高さ四千メートルはあるだろう。
中古の旅客機は二基のターボプロップ・エンジンを全開して高山の希薄な空気を懸命にかきわけるが、いまにも胴体の底や翼端を尖った峰の頂に触れるのではないか、と気が気でない。機のすぐ真下を乱立する黒い峰々がぬっと近づいて黙々と後退する。こんなほとんど悪意に近い冷厳な岩峰の上をこするように飛ぶのは初めてで、いかにも「大いなる死の土地」への峠にふさわしいと、魂の芯がひきつる思いだ。気圧の変動まで凍りついたように、機体がほとんど揺れないのがかえって気味悪い。
だがこの鉄岩の峠を越えさえすれば、穏やかに砂丘連なる念願の砂漠だ、と考えたのは間違いだった。ようやく眼下の万年雪が薄れ威圧的な|山巓《さんてん》が低くなって、やっと山脈の南側に出たと思うと、さらに思いがけない異形の光景が開けた。
黒い岩の山が赤土の谷に一変した。谷というより、万年雪の溶けた細流が何万何千年かけて山裾に刻みこんだ無数の浸蝕の痕。巨大な刃物で山脈の南面断崖を滅多斬りしたような残忍な傷。しかもその見渡す限りの斬り傷が、一面に血まみれのように赤いのだ。鉄の山から滲み出し続けた赤錆がこびりついたように見え、悪夢的な錯乱、魔的なめまいに引きこまれて、人間的な理性と秩序への思いきりの嘲笑がひびき渡るようだった。
孫悟空の一行の通ったのが、この山脈の北側の「天山北路」だったか、この南麓沿いの「天山南路」だったかは覚えてないが、魔物、妖怪が跳梁するあの幻想物語が、決して単なる空想ではなかったことを、深く了解した。
旅客機はウルムチから天山山脈をほぼ真直に南に越えてから西に方角を変え、なおしばらく崖に沿って飛び続けたように思う。気味悪く赤い錯乱的な浸蝕の光景が窓の右側に続き、そして左側は青黒く湿ったような不毛の平原と、ところどころに干上がった塩分の荒々しく白いひろがりだけ。
昼前、給油のための中継地アクスの飛行場に降りる。
アクスは天山山脈の南麓に沿うシルクロード三道のひとつ「天山南路」の街。地図の上では、東西に長い天山山脈のほぼ中央部に近いのだが、飛行場からは白茶けた乾いた土地と数えるほどの民家しか見えない。
トランジットカードを配られて、木造平家建ての飛行場の建物に入った。灰色っぽい水性塗料を荒っぽく塗った薄板で仕切られただけの部屋。軽便椅子と傾いた机。机の上にお茶の入った薬缶と白い茶わんが置いてある。ほとんどがウイグル人の同乗客たちと向かい合って壁際に腰かけていると、広い中国の端まで、あるいはトルコ語系住民の多い中央アジアの入口まで来た、ということをひしひしと感ずる。
給油は三十分もあれば終るものと思って、おとなしく待っていたのだが、一時間過ぎても飛行場職員から何の通告もなく、次第に苛立ってきた。待つのが退屈なのではなく、目的地ホータン滞在と砂漠行きの限られた時間がどんどん減ってゆくためだ。だが同乗客たちはこんなことには馴れているらしく平然としている。昼過ぎて職員が大皿に蒸しギョーザを大盛りにして現れたときだけは、いっせいに声を上げて立ち上がって、立ったまま勢いよく食べ始めた。
職員は若い漢民族だ。私とK君は待合室を出て行こうとする職員をつかまえると、大型の手帳の頁に「出発遅延、原因如何」とボールペンで書いて破って渡した。漢字の字体はいまや日中両国でかなり違っているし、怪しげな漢文で意味が通じるのかどうか甚だ心配だったが、相手は直ちに手帳とペンを渡せと身振りで示し、達筆とは言えない漢字を頁に大きく書いた。
「和田大風沙」
和田はホータンの漢字表記、風沙は砂風のごとだろう、と了解して、私たちが驚きと落胆の表情をすると、何をそんなに驚くのか、というようににこやかに笑いながら、残り少なくなったギョーザを指して、早く食べろ、と目付きで促す。
これまで本で読んだりテレビで見た砂嵐のイメージを思い浮かべる。あたりじゅうの砂を巻き上げる黒い風と天が威嚇するような轟き。善いことをした覚えはほとんどないが、それほどの悪事を働いた記憶もないのに、何が天の怒りを呼び寄せたのか。そら恐ろしい気分になりかけて、心配するK君を引っ張って建物の外に出た。ここアクスの空は灰色の雲に閉ざされて、風は全然吹いていない。飛行場には柵もなかった。
少なくともあと一、二時間は飛行機は飛ばないだろうと、飛行場の外までぶらぶらと出た。町とは離れているのだろう、飛行場周辺に建物は数えるほどしかなく、冬枯れたままの乾いた野面を、それでも羊の群が蹄で土くれをかき分けては伸び始めかけた草の芽をほじくっている。羊の毛は黄色く汚れていた。いじけた枝だけのポプラが数本。日ざしの気配さえない。
茫然と煙草を吸う。いつのまにか羊飼いのウイグル族の少年数人が、目の前に立っていた。そして煙草をくれ、と手を差し出している。煙草の箱を出す。一本ずつ取ってライターも、という身振り。別に礼を言うのでもなく、火をつけた煙草を、見たところ十歳ほどの少年すべてが、馴れた手つきで並んですう。全員人民帽のようなひさしのついた帽子、ジャンパーに長ズボン、ズックの運動靴。そのすべてが土埃だらけだが、決して貧相ではなく、態度はむしろ微然と見えた。
一人前の羊飼いの面魂とも見えるけれど、黄色く乾ききった荒野の真中で平然と煙草をすう子供たちの姿は、何か冷酷に無残だ。
いぜんとして雲も動かない。大人の姿はない。薄汚れた羊たちは新芽をほじくり続けている。賽の河原のようだった。
下着をもう一枚余分に着こんでも寒く、着換えてからもベッドに腰かけて、おもむろに明けてゆく青っぽい朝を、二重ガラスの窓越しにぼんやり眺めていた。昨夜眺めたときよりポプラは背が高く、市外の民家は想像したより貧しそうだった。石積みの塀。だが低い屋根から斜めに突き出した煙突から流れ始める朝餉の薄青い煙が、ひどく懐かしかった。あそこにはどんなに貧しくても生活がある……。空港へと向かう車の後の窓から振り返ると、灰色のロシア式ホテルが中世の古城のように、朝靄から聳えて見えた。
午前九時、アクス経由ホータン行きの双発旅客機に乗りこんだとき、朝はようやく明け切った。四十人ほど、ほとんどがウイグル族の乗客を満席に乗せて、機はたちまち天山山脈へと高度を上げる。麓から中腹にかけてかすかに草の生えかけた広大な斜面が広がり、羊の群が幾つも散らばっている。牧歌的な風景と思いかける間もなく、天山山脈の上を飛んでいた。
天山山脈——西はパミール高原から東はモンゴルとの国境近くまで、広大な新疆ウイグル自治区のほぼ中央を二千キロにわたって横断する大山脈。子供の頃から孫悟空の物語で知っていた伝説の魔の山だが、こんな黒々と硬く、まるで鋼鉄の巨塊の列のような山々だとは。中腹から上はまだ雪に覆われ、峰々の南側で雪は薄れて鋼鉄の地肌が露出しているが、北側は深々と白く、峰と峰の間の谷は凍りついた万年雪が氷河の趣である。
山脈中央部には七千メートル級の高峰もある。われわれが越えるのは東端に近く比較的低い部分だが、それでも高さ四千メートルはあるだろう。
中古の旅客機は二基のターボプロップ・エンジンを全開して高山の希薄な空気を懸命にかきわけるが、いまにも胴体の底や翼端を尖った峰の頂に触れるのではないか、と気が気でない。機のすぐ真下を乱立する黒い峰々がぬっと近づいて黙々と後退する。こんなほとんど悪意に近い冷厳な岩峰の上をこするように飛ぶのは初めてで、いかにも「大いなる死の土地」への峠にふさわしいと、魂の芯がひきつる思いだ。気圧の変動まで凍りついたように、機体がほとんど揺れないのがかえって気味悪い。
だがこの鉄岩の峠を越えさえすれば、穏やかに砂丘連なる念願の砂漠だ、と考えたのは間違いだった。ようやく眼下の万年雪が薄れ威圧的な|山巓《さんてん》が低くなって、やっと山脈の南側に出たと思うと、さらに思いがけない異形の光景が開けた。
黒い岩の山が赤土の谷に一変した。谷というより、万年雪の溶けた細流が何万何千年かけて山裾に刻みこんだ無数の浸蝕の痕。巨大な刃物で山脈の南面断崖を滅多斬りしたような残忍な傷。しかもその見渡す限りの斬り傷が、一面に血まみれのように赤いのだ。鉄の山から滲み出し続けた赤錆がこびりついたように見え、悪夢的な錯乱、魔的なめまいに引きこまれて、人間的な理性と秩序への思いきりの嘲笑がひびき渡るようだった。
孫悟空の一行の通ったのが、この山脈の北側の「天山北路」だったか、この南麓沿いの「天山南路」だったかは覚えてないが、魔物、妖怪が跳梁するあの幻想物語が、決して単なる空想ではなかったことを、深く了解した。
旅客機はウルムチから天山山脈をほぼ真直に南に越えてから西に方角を変え、なおしばらく崖に沿って飛び続けたように思う。気味悪く赤い錯乱的な浸蝕の光景が窓の右側に続き、そして左側は青黒く湿ったような不毛の平原と、ところどころに干上がった塩分の荒々しく白いひろがりだけ。
昼前、給油のための中継地アクスの飛行場に降りる。
アクスは天山山脈の南麓に沿うシルクロード三道のひとつ「天山南路」の街。地図の上では、東西に長い天山山脈のほぼ中央部に近いのだが、飛行場からは白茶けた乾いた土地と数えるほどの民家しか見えない。
トランジットカードを配られて、木造平家建ての飛行場の建物に入った。灰色っぽい水性塗料を荒っぽく塗った薄板で仕切られただけの部屋。軽便椅子と傾いた机。机の上にお茶の入った薬缶と白い茶わんが置いてある。ほとんどがウイグル人の同乗客たちと向かい合って壁際に腰かけていると、広い中国の端まで、あるいはトルコ語系住民の多い中央アジアの入口まで来た、ということをひしひしと感ずる。
給油は三十分もあれば終るものと思って、おとなしく待っていたのだが、一時間過ぎても飛行場職員から何の通告もなく、次第に苛立ってきた。待つのが退屈なのではなく、目的地ホータン滞在と砂漠行きの限られた時間がどんどん減ってゆくためだ。だが同乗客たちはこんなことには馴れているらしく平然としている。昼過ぎて職員が大皿に蒸しギョーザを大盛りにして現れたときだけは、いっせいに声を上げて立ち上がって、立ったまま勢いよく食べ始めた。
職員は若い漢民族だ。私とK君は待合室を出て行こうとする職員をつかまえると、大型の手帳の頁に「出発遅延、原因如何」とボールペンで書いて破って渡した。漢字の字体はいまや日中両国でかなり違っているし、怪しげな漢文で意味が通じるのかどうか甚だ心配だったが、相手は直ちに手帳とペンを渡せと身振りで示し、達筆とは言えない漢字を頁に大きく書いた。
「和田大風沙」
和田はホータンの漢字表記、風沙は砂風のごとだろう、と了解して、私たちが驚きと落胆の表情をすると、何をそんなに驚くのか、というようににこやかに笑いながら、残り少なくなったギョーザを指して、早く食べろ、と目付きで促す。
これまで本で読んだりテレビで見た砂嵐のイメージを思い浮かべる。あたりじゅうの砂を巻き上げる黒い風と天が威嚇するような轟き。善いことをした覚えはほとんどないが、それほどの悪事を働いた記憶もないのに、何が天の怒りを呼び寄せたのか。そら恐ろしい気分になりかけて、心配するK君を引っ張って建物の外に出た。ここアクスの空は灰色の雲に閉ざされて、風は全然吹いていない。飛行場には柵もなかった。
少なくともあと一、二時間は飛行機は飛ばないだろうと、飛行場の外までぶらぶらと出た。町とは離れているのだろう、飛行場周辺に建物は数えるほどしかなく、冬枯れたままの乾いた野面を、それでも羊の群が蹄で土くれをかき分けては伸び始めかけた草の芽をほじくっている。羊の毛は黄色く汚れていた。いじけた枝だけのポプラが数本。日ざしの気配さえない。
茫然と煙草を吸う。いつのまにか羊飼いのウイグル族の少年数人が、目の前に立っていた。そして煙草をくれ、と手を差し出している。煙草の箱を出す。一本ずつ取ってライターも、という身振り。別に礼を言うのでもなく、火をつけた煙草を、見たところ十歳ほどの少年すべてが、馴れた手つきで並んですう。全員人民帽のようなひさしのついた帽子、ジャンパーに長ズボン、ズックの運動靴。そのすべてが土埃だらけだが、決して貧相ではなく、態度はむしろ微然と見えた。
一人前の羊飼いの面魂とも見えるけれど、黄色く乾ききった荒野の真中で平然と煙草をすう子供たちの姿は、何か冷酷に無残だ。
いぜんとして雲も動かない。大人の姿はない。薄汚れた羊たちは新芽をほじくり続けている。賽の河原のようだった。
午後五時すぎ、ようやく飛行機はアクスを飛び立つ。
「大風沙」のため、六時間近くつまり日中の半分の時間を失ったことになる。予定通りならホータンに午後一時着、ゆっくりと砂漠まで行って夕日を眺められるはずだった。
タクラマカン砂漠は、天山山脈と|崑崙《こんろん》山脈に挟まれたほぼ楕円形の広大なタリム盆地の、ほとんど全面を占める。その中心よりやや西寄りの部分を、機は真直に南下しながら砂漠を縦断して飛ぶ。
いよいよ眼下に大砂漠が開ける、もしかすると落日さえ見えるかもしれない、と思いこんでいたのに、窓際の席で窓に顔を押しつけるようにして目を凝らし続けても、何も見えない。小窓から覗ける限りの上も下も遠くも近くも、ただ一面の仄明りである。灰色でも薄青くもなく、かすかに紅色を含んだ柔い黄土色の不透明な明るさ。飛行機の翼端を除いて、一切の形あるものが見えない。アクスでは垂れこめていた雲の形さえ、遍在する仄明りに溶けてしまっている。
しばらくどういうことか理解できない。ただその不透明さは不安でも不快でもなく、むしろ陶然と夢心地に近かった。果てもなく大きく柔く、なま温かく幾分なまめかしくもある何ものかにそっと抱きかかえられている気さえして、機がいま向かっている南の崑崙の山には古来、西王母という女神が住むと伝えられてきたことを思い出したりした。最も古くは虎歯豹尾の半獣半人だが、下っては絶世の美女となり、さらに道教では東王父と並ぶ最高の女神となる。そんなむかし読んで忘れていた古い伝説が、いわば触覚的に甦ってくるのだ。
形ない幽明の境域に妖しく誘いこまれ迷いこむ感覚。
すでに砂漠の中央部の上空にさしかかっているはずの時間になっても、いぜんとして砂丘の頂ひとつも見えず、雲の影さえ上方に見通せない。黄白色の極微粒子が遍在して自由に浮遊している中を進んでいるようだが、全く思いがけないその現象を納得できない。
もしかすると、魂だけが西王母の許に還ってゆくのではあるまいか——といった思いが妙になまなましく心を|過《よぎ》って、そんな幻想を自分が少しも恥じていないのが、いっそう不可解である。
「何だかご機嫌ですね。こんなに予定が狂ってしまったのに」
と隣席のK君が言った。
「砂嵐を恨んでも仕方がない」
「それはそうですが、旅に出てからだんだん元気になるようで。こんな奥地まで無理ではないか、と内心心配してたんですよ」
心優しいK君は本気で言った。
アハハ、と私は笑った。
ついに変らなかった黄白色の仄明りの中を、ホータン空港に着陸した。午後七時に近いが、夕暮の気配はない。おぼろな太陽の位置は地平線よりまだかなり高かった。
タラップを降りながらK君が怪訝そうに言う。「六時間も到着を遅らせた大風沙はどこに行ってしまったんだろ。本当に砂嵐があったのかなあ」
本当にそうなのだ。風はほとんどなく、滑走路のわきにも空港建物の蔭にも、砂が吹き寄せられた痕などどこにもなく、空が穏やかに一面黄白色に煙っているだけである。地表の視界は正常で、別に息苦しくもない。
空港建物の前で待っていたホータンでの若いガイドに早速尋ねた。
「砂嵐はどうなったのかな」
色が白くて温和な顔だちの漢人青年はゆっくりと日本語で答えた。
「砂嵐? ああ風沙ですね。あれですよ。あれが少し濃くなって着陸が難しくなっただけ」
空の黄白色の靄のことである。
「あれが砂か」
「砂粒がこすれてできる細かな埃ですね。この季節、空気が暖まってくると、それが空に昇って漂うのです」
「強い風で砂が飛び荒れるのではない?」
「そういう嵐もありますが、このあたりの空はたいていいつもこんなですよ」
砂粒が吹きつける黒い嵐を想像して緊張していた私は、関節をはずされたような気分だ。苛烈な砂漠世界を思い描いていただけに、春霞が|藹々《あいあい》と漂うようなこの和やかな空に、直ちに現実感を覚えられない。異界めいた妖しい気分は、辺境にしては整った空港を抜けて車に乗っても続いている。
空港から広い道路が真直ぐに町まで通じていた。ユーラシア大陸の土地でしばしば出会う、路面の中央部は舗装されていながら両側は何となく土の地面になっているあいまいで懐しい道路。
その土肌の路肩に沿って、見事なポプラの並木が透視図法の模範のように連なって、遥か視野の焦点に収束している。しかも二、三メートル間隔に一本ずつといったケチな並木ではなく、数十センチ間隔の列が三重四重にほとんど隙間なく密植されていて、並木というより立木の厚い壁だ。高さは二十メートルにも達して、ちょうど新芽が出そろい始めていた(砂漠の北のアクスではまだ芽は出ていなかったのに)。
ポプラ特有の艶のある白い幹と草色の枝葉がつくり出すその高い側壁に挟まれた直線道路は、まるで天に至る特別の道のようで、ナルホド、ナルホドと意味もなく私は呟き続ける。
大さな黒い帽子に古びた黒マントを羽織った自ひげの老人が、ロバに曳かせた二輪の馬車の上から長い鞭を振っているが、主人と同じくらい年をとっているらしい老ロバは一向に歩みを速めたりはしない。永遠をめざして永遠に旅を統ける黒衣の老人とロバ。半日の旅程を失った恨みも、どこかに気化してゆく。
そうして車で約十五分ほどの”永遠への通路”を通り抜けて、ホータンの町に入った。
ホータン(和田)は、大半が砂漠のホータン県の県都、人口約十一万。砂漠の果てに想像していたよりはるかに立派な小都市だった。舗装された大通りが交差する市の中心には、中央アジア風装飾の新しい文化会館があり、近代建築の行政官庁のビルがあり、絹織物の工場も映画館もあり、町はずれの川岸では中央アジア風の露店バザールが開かれていて、赤い毛織りの絨毯とラクダと穀物とスパイス類が売り買いされ、原色色とりどりのスカーフを頭に結んだウイグル族の若い女性たちが、売りもののラクダやロバの糞尿の臭いと土ぼこりの中を、笑い声をあげて行き交っていた。
漢人の姿がほとんど見られない。ウイグル人がホータン県住民の九十七パーセントを占めていて、漢民族は三パーセントにすぎない、と漢人ガイドのC君は言った。ウイグル人も正式には中国国民であって、漢人がウイグル人を支配しているわけではないが、この極端な人口比率の差は何か不自然だ。
「きみはここの生まれ?」
「ホータン市の生まれです」
「お父さんは官吏?」
「軍人です。小さいときからウイグル人の子供たちと一緒に遊んできましたから、全然違いを感じません。ウイグル語もウイグル人と同じにしゃべります」
おっとりとして率直な人柄のC君の言葉を信ずることにするが、ウイグル人に聞けば、C君とは違ったニュアンスで漢人のことをしゃべるだろう。
ウイグル族——紀元八世紀に|突厥《とつけつ》に代って、モンゴル高原を支配したトルコ語系遊牧騎馬民族。九世紀に内乱や異常気象やキルギス人の攻撃によって分裂して南に移動し、タリム盆地に入って定住した一族が、現在ここのウイグル人住民たちの祖先のはずだが、その前にここにどんな人たちが住んでいたのか、出発前あわただしく調べた書物ではわからなかった。
だが紀元前二世紀に漢の武帝が派遣した張騫が大月氏国からの帰途この「西域南道」ルートを通っていて、その後、西からは馬をはじめ、|玉《ぎょく》、|玻璃《はり》、ざくろ、くるみなど、東からはもちろん絹が往来を続けている。このうち中国貴族たちが偏愛した「崑崙の玉」を産したのが、このホータンである。ある書物に、ウイグル人たちは「先住のアーリア系住民を追い払い、あるいは混血して」タリム盆地に住みついた、と簡単に記されていたが、紀元九世紀以前にこの地域に先住していた「アーリア系」つまりインド・ヨーロッパ語族の人たちのイメージが私には浮かばない。ただ漢代にタリム盆地の東端に栄えた楼蘭の遺跡から発掘された若い女性の乾燥ミイラ、いわゆる「楼蘭の美女」の顔面の起伏が深く、アーリア系の面影を伝えていることを知っているだけだ。
九世紀以前この砂漠の縁にオアシスをつくり住んで、崑崙の玉を磨いた人たちの顔が、私には見えない。ウイグル人たちの背後に、顔のない人たちの影がうっすらと浮かんでいるような奇妙な感じを、ウイグル人九十何パーセントという町を歩きながら覚えるのだった。
政府の接待所に泊まる。県内の村々から代表者たちが会議や集会のために、あるいは中央からの党幹部たちが視察のために来て泊まる施設で、旅行者用のホテルではないが、日本の地方都市のビジネスホテルなどより泊まり心地はいい。水洗トイレにお湯の出るバスもついていて、室内の床には丹念に抽象的な模様を織りこんだ地元製らしい赤く分厚い絨毯が敷かれていた。
長途の旅というより異次元の世界に迷いこんだような想念の緊張の疲れから、早々とベッドに入る。明日はいよいよ「大風沙」に隠れてこれまでちらりとも姿を見せなかった砂漠に対面できる、とようやく安心して、記憶する夢もなく眠る。
「大風沙」のため、六時間近くつまり日中の半分の時間を失ったことになる。予定通りならホータンに午後一時着、ゆっくりと砂漠まで行って夕日を眺められるはずだった。
タクラマカン砂漠は、天山山脈と|崑崙《こんろん》山脈に挟まれたほぼ楕円形の広大なタリム盆地の、ほとんど全面を占める。その中心よりやや西寄りの部分を、機は真直に南下しながら砂漠を縦断して飛ぶ。
いよいよ眼下に大砂漠が開ける、もしかすると落日さえ見えるかもしれない、と思いこんでいたのに、窓際の席で窓に顔を押しつけるようにして目を凝らし続けても、何も見えない。小窓から覗ける限りの上も下も遠くも近くも、ただ一面の仄明りである。灰色でも薄青くもなく、かすかに紅色を含んだ柔い黄土色の不透明な明るさ。飛行機の翼端を除いて、一切の形あるものが見えない。アクスでは垂れこめていた雲の形さえ、遍在する仄明りに溶けてしまっている。
しばらくどういうことか理解できない。ただその不透明さは不安でも不快でもなく、むしろ陶然と夢心地に近かった。果てもなく大きく柔く、なま温かく幾分なまめかしくもある何ものかにそっと抱きかかえられている気さえして、機がいま向かっている南の崑崙の山には古来、西王母という女神が住むと伝えられてきたことを思い出したりした。最も古くは虎歯豹尾の半獣半人だが、下っては絶世の美女となり、さらに道教では東王父と並ぶ最高の女神となる。そんなむかし読んで忘れていた古い伝説が、いわば触覚的に甦ってくるのだ。
形ない幽明の境域に妖しく誘いこまれ迷いこむ感覚。
すでに砂漠の中央部の上空にさしかかっているはずの時間になっても、いぜんとして砂丘の頂ひとつも見えず、雲の影さえ上方に見通せない。黄白色の極微粒子が遍在して自由に浮遊している中を進んでいるようだが、全く思いがけないその現象を納得できない。
もしかすると、魂だけが西王母の許に還ってゆくのではあるまいか——といった思いが妙になまなましく心を|過《よぎ》って、そんな幻想を自分が少しも恥じていないのが、いっそう不可解である。
「何だかご機嫌ですね。こんなに予定が狂ってしまったのに」
と隣席のK君が言った。
「砂嵐を恨んでも仕方がない」
「それはそうですが、旅に出てからだんだん元気になるようで。こんな奥地まで無理ではないか、と内心心配してたんですよ」
心優しいK君は本気で言った。
アハハ、と私は笑った。
ついに変らなかった黄白色の仄明りの中を、ホータン空港に着陸した。午後七時に近いが、夕暮の気配はない。おぼろな太陽の位置は地平線よりまだかなり高かった。
タラップを降りながらK君が怪訝そうに言う。「六時間も到着を遅らせた大風沙はどこに行ってしまったんだろ。本当に砂嵐があったのかなあ」
本当にそうなのだ。風はほとんどなく、滑走路のわきにも空港建物の蔭にも、砂が吹き寄せられた痕などどこにもなく、空が穏やかに一面黄白色に煙っているだけである。地表の視界は正常で、別に息苦しくもない。
空港建物の前で待っていたホータンでの若いガイドに早速尋ねた。
「砂嵐はどうなったのかな」
色が白くて温和な顔だちの漢人青年はゆっくりと日本語で答えた。
「砂嵐? ああ風沙ですね。あれですよ。あれが少し濃くなって着陸が難しくなっただけ」
空の黄白色の靄のことである。
「あれが砂か」
「砂粒がこすれてできる細かな埃ですね。この季節、空気が暖まってくると、それが空に昇って漂うのです」
「強い風で砂が飛び荒れるのではない?」
「そういう嵐もありますが、このあたりの空はたいていいつもこんなですよ」
砂粒が吹きつける黒い嵐を想像して緊張していた私は、関節をはずされたような気分だ。苛烈な砂漠世界を思い描いていただけに、春霞が|藹々《あいあい》と漂うようなこの和やかな空に、直ちに現実感を覚えられない。異界めいた妖しい気分は、辺境にしては整った空港を抜けて車に乗っても続いている。
空港から広い道路が真直ぐに町まで通じていた。ユーラシア大陸の土地でしばしば出会う、路面の中央部は舗装されていながら両側は何となく土の地面になっているあいまいで懐しい道路。
その土肌の路肩に沿って、見事なポプラの並木が透視図法の模範のように連なって、遥か視野の焦点に収束している。しかも二、三メートル間隔に一本ずつといったケチな並木ではなく、数十センチ間隔の列が三重四重にほとんど隙間なく密植されていて、並木というより立木の厚い壁だ。高さは二十メートルにも達して、ちょうど新芽が出そろい始めていた(砂漠の北のアクスではまだ芽は出ていなかったのに)。
ポプラ特有の艶のある白い幹と草色の枝葉がつくり出すその高い側壁に挟まれた直線道路は、まるで天に至る特別の道のようで、ナルホド、ナルホドと意味もなく私は呟き続ける。
大さな黒い帽子に古びた黒マントを羽織った自ひげの老人が、ロバに曳かせた二輪の馬車の上から長い鞭を振っているが、主人と同じくらい年をとっているらしい老ロバは一向に歩みを速めたりはしない。永遠をめざして永遠に旅を統ける黒衣の老人とロバ。半日の旅程を失った恨みも、どこかに気化してゆく。
そうして車で約十五分ほどの”永遠への通路”を通り抜けて、ホータンの町に入った。
ホータン(和田)は、大半が砂漠のホータン県の県都、人口約十一万。砂漠の果てに想像していたよりはるかに立派な小都市だった。舗装された大通りが交差する市の中心には、中央アジア風装飾の新しい文化会館があり、近代建築の行政官庁のビルがあり、絹織物の工場も映画館もあり、町はずれの川岸では中央アジア風の露店バザールが開かれていて、赤い毛織りの絨毯とラクダと穀物とスパイス類が売り買いされ、原色色とりどりのスカーフを頭に結んだウイグル族の若い女性たちが、売りもののラクダやロバの糞尿の臭いと土ぼこりの中を、笑い声をあげて行き交っていた。
漢人の姿がほとんど見られない。ウイグル人がホータン県住民の九十七パーセントを占めていて、漢民族は三パーセントにすぎない、と漢人ガイドのC君は言った。ウイグル人も正式には中国国民であって、漢人がウイグル人を支配しているわけではないが、この極端な人口比率の差は何か不自然だ。
「きみはここの生まれ?」
「ホータン市の生まれです」
「お父さんは官吏?」
「軍人です。小さいときからウイグル人の子供たちと一緒に遊んできましたから、全然違いを感じません。ウイグル語もウイグル人と同じにしゃべります」
おっとりとして率直な人柄のC君の言葉を信ずることにするが、ウイグル人に聞けば、C君とは違ったニュアンスで漢人のことをしゃべるだろう。
ウイグル族——紀元八世紀に|突厥《とつけつ》に代って、モンゴル高原を支配したトルコ語系遊牧騎馬民族。九世紀に内乱や異常気象やキルギス人の攻撃によって分裂して南に移動し、タリム盆地に入って定住した一族が、現在ここのウイグル人住民たちの祖先のはずだが、その前にここにどんな人たちが住んでいたのか、出発前あわただしく調べた書物ではわからなかった。
だが紀元前二世紀に漢の武帝が派遣した張騫が大月氏国からの帰途この「西域南道」ルートを通っていて、その後、西からは馬をはじめ、|玉《ぎょく》、|玻璃《はり》、ざくろ、くるみなど、東からはもちろん絹が往来を続けている。このうち中国貴族たちが偏愛した「崑崙の玉」を産したのが、このホータンである。ある書物に、ウイグル人たちは「先住のアーリア系住民を追い払い、あるいは混血して」タリム盆地に住みついた、と簡単に記されていたが、紀元九世紀以前にこの地域に先住していた「アーリア系」つまりインド・ヨーロッパ語族の人たちのイメージが私には浮かばない。ただ漢代にタリム盆地の東端に栄えた楼蘭の遺跡から発掘された若い女性の乾燥ミイラ、いわゆる「楼蘭の美女」の顔面の起伏が深く、アーリア系の面影を伝えていることを知っているだけだ。
九世紀以前この砂漠の縁にオアシスをつくり住んで、崑崙の玉を磨いた人たちの顔が、私には見えない。ウイグル人たちの背後に、顔のない人たちの影がうっすらと浮かんでいるような奇妙な感じを、ウイグル人九十何パーセントという町を歩きながら覚えるのだった。
政府の接待所に泊まる。県内の村々から代表者たちが会議や集会のために、あるいは中央からの党幹部たちが視察のために来て泊まる施設で、旅行者用のホテルではないが、日本の地方都市のビジネスホテルなどより泊まり心地はいい。水洗トイレにお湯の出るバスもついていて、室内の床には丹念に抽象的な模様を織りこんだ地元製らしい赤く分厚い絨毯が敷かれていた。
長途の旅というより異次元の世界に迷いこんだような想念の緊張の疲れから、早々とベッドに入る。明日はいよいよ「大風沙」に隠れてこれまでちらりとも姿を見せなかった砂漠に対面できる、とようやく安心して、記憶する夢もなく眠る。