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目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました途端に、悪い予感がした。室内が薄暗かった。薄地の白いカーテン越しに、窓も灰色。しかも雨垂れのような音が聞こえるではないか。砂漠に雨? そんなことがあるはずはない。
だが起こるはずのないことが、ここでは次々と起こる。窓を開けると、激しくはないが、本降りの雨が|蕭々《しょうしょう》と降っていた。
「砂嵐で半日遅れてやっと着くと、今度は雨か」
沈んだ気分でK君と朝食をとったあと、迎えに来たガイドのC君が言った。
「ここでは一年に三日しか雨は降りません。多分午後には晴れるでしょう」
仕方なくC君のすすめるままに、砂漠とは反対の北の方、崑崙山脈の麓にあるという古いホータン王城の遺跡に行く。
「一年に三日の雨にぶつかるとは。きみは何かとても悪いことをしたことがあるんじゃないか」
そう言うとK君が「とんでもない」と真顔で否定するところをみると、私の罪業のせいなのだろうと、C君が用意してくれた傘をさして小雨の遺跡をうろつきながら、記憶の暗い襞を思い起こしてみたりする。
言葉なく背後から何者かが容赦なく責めたてるような、骨まで冷気がしみる荒涼そのものの荒地。泥煉瓦でつくられた城壁や僧院や住居の跡が、長年の風雨に崩れて溶け、装飾品か日用品か、赤茶色の土器の破片が一面に散乱している。考古学者なら大喜びするかもしれないが、私には時間の非情な破壊の現場が無残なだけだ。
すぐ近くに崑崙山脈が黒々と連なって見えるが、高い部分は灰色の雲に包まれて凝然と沈黙し、刺すように冷たい風が吹き下ろしてくる。草も木もなく、小石まじりの荒れきった暗褐色の地肌が見渡す限り広がっている。荒野の中をえぐるようにして川が、ホータン市の方へと流れていた。
「この川が白玉河。もう一本黒玉河もホータンで一緒になって、砂漠に流れこみますが、有名な崑崙の玉がこの川床でも採れるんです。雪解け水に流されてあの山から転がってきます。いまでも探せばありますよ」
密雲の奥に|匿《かく》れた崑崙山から吹き降りてくる霊気と冷風に、コートの襟を立てマフラーをきつく頸に巻きつけても、体の震えが止まらない。
本当に午後になったら雨があがって砂漠に行けるのだろうか、と私とK君は気が気でないが、ガイドのC君は「雨がやまなければ、玉の細工場でも見に行きましょう」と、ひたすら砂漠に行きたがる私たちの気持ちがふしぎでならないらしい。
昼近く市内に戻り時間をかけて昼食をとったが、雨はかえって強まりあたりは仄暗くなるばかりだ。あと時間はきょうの午後と明日の午前中しかない。
「雨でも行こう」
と食卓を立って私が強く言うと、C君は驚いたが、雨傘を持って車で砂漠に向かう。
雨のしぶきで窓から外がよく見えない。午前中の山麓と違って市の北方には畠が広がっているらしく、芽が伸び始めた緑色の平面がぼんやりと浮かび、防風のポプラ並木が白い壁のように流れた。舖装道路をはずれると、車輪は幾度も泥道で空転する。
三十分も走ったろうか、小麦畑とポプラと泥壁の農家のぼやけた像が消えた。
「ここですよ」
とC君に言われて、車のドアを開けると、目の前に鳥取の大砂丘クラスの砂丘があった。農耕地の村との間に防砂林も中間地帯もなく、いきなり砂漠だ。
とうとう来た、と持ってきた傘もささないで興奮して雨の中に出た。
だが雨の砂漠とは……。砂丘は濡れて暗い土色。何か巨大な獣の死体がどたりと息も体温もなく横たわっているようで、シャープな稜線も砂粒のきらめきも、世界で二番目とか三番目といわれる大砂漠の広がりもない。灰色の雲が重く垂れこめ、雨脚が視界に揺れる紗のカーテンを引いていた。眼前の砂丘の背後にふたつ三つほどの砂丘の存在がぼんやりと認められるが、その先は雨と霧が匿している。眼鏡のレンズの表面を次々と雨滴が流れる。それでも雨に打たれながら三十分ほど、砂漠の端の端に立っていた。
言葉もなく、髪から雫を垂らして幽霊のように引き返した。
だが起こるはずのないことが、ここでは次々と起こる。窓を開けると、激しくはないが、本降りの雨が|蕭々《しょうしょう》と降っていた。
「砂嵐で半日遅れてやっと着くと、今度は雨か」
沈んだ気分でK君と朝食をとったあと、迎えに来たガイドのC君が言った。
「ここでは一年に三日しか雨は降りません。多分午後には晴れるでしょう」
仕方なくC君のすすめるままに、砂漠とは反対の北の方、崑崙山脈の麓にあるという古いホータン王城の遺跡に行く。
「一年に三日の雨にぶつかるとは。きみは何かとても悪いことをしたことがあるんじゃないか」
そう言うとK君が「とんでもない」と真顔で否定するところをみると、私の罪業のせいなのだろうと、C君が用意してくれた傘をさして小雨の遺跡をうろつきながら、記憶の暗い襞を思い起こしてみたりする。
言葉なく背後から何者かが容赦なく責めたてるような、骨まで冷気がしみる荒涼そのものの荒地。泥煉瓦でつくられた城壁や僧院や住居の跡が、長年の風雨に崩れて溶け、装飾品か日用品か、赤茶色の土器の破片が一面に散乱している。考古学者なら大喜びするかもしれないが、私には時間の非情な破壊の現場が無残なだけだ。
すぐ近くに崑崙山脈が黒々と連なって見えるが、高い部分は灰色の雲に包まれて凝然と沈黙し、刺すように冷たい風が吹き下ろしてくる。草も木もなく、小石まじりの荒れきった暗褐色の地肌が見渡す限り広がっている。荒野の中をえぐるようにして川が、ホータン市の方へと流れていた。
「この川が白玉河。もう一本黒玉河もホータンで一緒になって、砂漠に流れこみますが、有名な崑崙の玉がこの川床でも採れるんです。雪解け水に流されてあの山から転がってきます。いまでも探せばありますよ」
密雲の奥に|匿《かく》れた崑崙山から吹き降りてくる霊気と冷風に、コートの襟を立てマフラーをきつく頸に巻きつけても、体の震えが止まらない。
本当に午後になったら雨があがって砂漠に行けるのだろうか、と私とK君は気が気でないが、ガイドのC君は「雨がやまなければ、玉の細工場でも見に行きましょう」と、ひたすら砂漠に行きたがる私たちの気持ちがふしぎでならないらしい。
昼近く市内に戻り時間をかけて昼食をとったが、雨はかえって強まりあたりは仄暗くなるばかりだ。あと時間はきょうの午後と明日の午前中しかない。
「雨でも行こう」
と食卓を立って私が強く言うと、C君は驚いたが、雨傘を持って車で砂漠に向かう。
雨のしぶきで窓から外がよく見えない。午前中の山麓と違って市の北方には畠が広がっているらしく、芽が伸び始めた緑色の平面がぼんやりと浮かび、防風のポプラ並木が白い壁のように流れた。舖装道路をはずれると、車輪は幾度も泥道で空転する。
三十分も走ったろうか、小麦畑とポプラと泥壁の農家のぼやけた像が消えた。
「ここですよ」
とC君に言われて、車のドアを開けると、目の前に鳥取の大砂丘クラスの砂丘があった。農耕地の村との間に防砂林も中間地帯もなく、いきなり砂漠だ。
とうとう来た、と持ってきた傘もささないで興奮して雨の中に出た。
だが雨の砂漠とは……。砂丘は濡れて暗い土色。何か巨大な獣の死体がどたりと息も体温もなく横たわっているようで、シャープな稜線も砂粒のきらめきも、世界で二番目とか三番目といわれる大砂漠の広がりもない。灰色の雲が重く垂れこめ、雨脚が視界に揺れる紗のカーテンを引いていた。眼前の砂丘の背後にふたつ三つほどの砂丘の存在がぼんやりと認められるが、その先は雨と霧が匿している。眼鏡のレンズの表面を次々と雨滴が流れる。それでも雨に打たれながら三十分ほど、砂漠の端の端に立っていた。
言葉もなく、髪から雫を垂らして幽霊のように引き返した。
暗くなり始めてから雨がやんだ。接待所の食堂で夕食のあと、K君とふたりで接待所の近くを歩く。暮れきるのが遅い空に雨の名残の霧状の細かな水滴が浮遊し(前日の砂埃そっくりに)、それが街灯の水銀灯の明りを反射して、街ごと水底に沈んだように異様に青い。本当にブルーなのだ。
「北欧の白夜に似てますが、これはまさに青夜ですね。こんなの初めてだ」
世界中を旅行している旅行雑誌編集者のK君も驚いている。
夜に入ってからは、昼間でも多くない車の通行はめっきりと減り、出歩く人影もほとんど見かけない。官庁の建物は海底の岩のように灯を消して静まり返り、商店も扉を閉ざしている。道路に面して明りのついているのはウイグル料理の店ぐらいで、ガラス戸越しにテーブルの上の瞑目した羊の頭が見え、その肉を焼く香料の多いタレの濃い匂いが、路上の霧滴にねっとりとまといついている。
「うんと上空で月が|皓々《こうこう》と冴え返っているのかもしれないし、崑崙山の霊光が射しこんでいるのかもしれないし……どうしてなのかわからんよ。わかるのは、この世のものではなく幻想的だということだけだ。快い夢のようなのか、気味悪いのかもよくわからない」
そう言いながら、ひと気ない道路から道路へと、足の向くままに私たちは夜の街をさまよい歩いたが、大砂漠に面した街で、水底を漂う青い幻想の気分に浸されるとは、想像もしなかったことだ。ひょろ長く白っぽい街路樹のポプラも、飄然と水中に浮いているようで、植物というより一種霊的な白い影の列に見えた。
「明日こそ晴れるといいですね。こんな辺境の町から、帰りの飛行機の予約を全部変更する手続きもできないし」
と呟くK君に、私はひとりでにこう答えていた。
「間違いなく明日の朝は晴れる。砂漠に入れる」
私が何となくそう考えたのではなく、私の体の細胞たちが声を合わせて断言したようで、私はそれを他人の声のように聞いたのだったが、驚きもしなかったし意外でもなかった。天山山脈を越えてから、いや東京の居間で砂漠の夕日をありありと幻視したときから、私を動かしているのがもはや私ではないことをひそかに感じていたからである。
いまや私を動かしているのは、”私の”とは呼び難い意識の遥かな深層の何か、身体自体の、細胞たち自身の無意識の意識であり、それは不意に出現する魔的な風景とか、砂嵐とか、一年に三日しか降らない雨とか、この青い幻想的な夜気とか、そんな自然の偶然の動きと、どこか微妙に、ある意味では密接に連動していることに、私は気付き始めていた。
どうしてそんなことになったのか全く不可解だが、「大いなる死の土地」と呼ばれるこの土地で、底深く大きな何かが私に起こっている……。いよいよ深く青くなるふしぎな夜の中を歩き続けながら、私は本気でそう思った。
「北欧の白夜に似てますが、これはまさに青夜ですね。こんなの初めてだ」
世界中を旅行している旅行雑誌編集者のK君も驚いている。
夜に入ってからは、昼間でも多くない車の通行はめっきりと減り、出歩く人影もほとんど見かけない。官庁の建物は海底の岩のように灯を消して静まり返り、商店も扉を閉ざしている。道路に面して明りのついているのはウイグル料理の店ぐらいで、ガラス戸越しにテーブルの上の瞑目した羊の頭が見え、その肉を焼く香料の多いタレの濃い匂いが、路上の霧滴にねっとりとまといついている。
「うんと上空で月が|皓々《こうこう》と冴え返っているのかもしれないし、崑崙山の霊光が射しこんでいるのかもしれないし……どうしてなのかわからんよ。わかるのは、この世のものではなく幻想的だということだけだ。快い夢のようなのか、気味悪いのかもよくわからない」
そう言いながら、ひと気ない道路から道路へと、足の向くままに私たちは夜の街をさまよい歩いたが、大砂漠に面した街で、水底を漂う青い幻想の気分に浸されるとは、想像もしなかったことだ。ひょろ長く白っぽい街路樹のポプラも、飄然と水中に浮いているようで、植物というより一種霊的な白い影の列に見えた。
「明日こそ晴れるといいですね。こんな辺境の町から、帰りの飛行機の予約を全部変更する手続きもできないし」
と呟くK君に、私はひとりでにこう答えていた。
「間違いなく明日の朝は晴れる。砂漠に入れる」
私が何となくそう考えたのではなく、私の体の細胞たちが声を合わせて断言したようで、私はそれを他人の声のように聞いたのだったが、驚きもしなかったし意外でもなかった。天山山脈を越えてから、いや東京の居間で砂漠の夕日をありありと幻視したときから、私を動かしているのがもはや私ではないことをひそかに感じていたからである。
いまや私を動かしているのは、”私の”とは呼び難い意識の遥かな深層の何か、身体自体の、細胞たち自身の無意識の意識であり、それは不意に出現する魔的な風景とか、砂嵐とか、一年に三日しか降らない雨とか、この青い幻想的な夜気とか、そんな自然の偶然の動きと、どこか微妙に、ある意味では密接に連動していることに、私は気付き始めていた。
どうしてそんなことになったのか全く不可解だが、「大いなる死の土地」と呼ばれるこの土地で、底深く大きな何かが私に起こっている……。いよいよ深く青くなるふしぎな夜の中を歩き続けながら、私は本気でそう思った。