翌日最後の日にようやく晴れた。だが予定では昼過ぎにホータンを出なければならない。残された時間は午前中しかない。
前日と同じ道を車で行く。前日は窓が雨に濡れてぼんやりとしか見えなかった周囲の風景がよく見えた。雨に洗われた畠の小麦がみずみずしく青い。女性も子供たちもまじった農民たちが多数畠に出ている。道路わきで泥まみれになってポプラを植樹している人たちもあった。
モンゴル高原を追われてこの土地に入ってから、崑崙の雪解け水を利用し防砂のポプラを植えながら、営々とこのオアシス農地を作り上げてきたウイグル人たちの長い労苦の日を思った。泥壁の農家は粗末で生活はいまもきびしそうだが、春の朝日はきのうとは別の世界のように明るく穏やかだった。発情したロバが不意に甲高く物悲しい叫び声をあげて鳴き交す。
きのうと同じオアシス耕地のはずれで車を下りる。同じ大砂丘が目の前にあった。だが今朝はその背後に同じような砂丘が連なっているのが、果てしなくどこまでも見渡せる。運転手とガイドのC君とコートを車に残して、私とK君は海に駆けこむ子供のように狂喜して砂丘に走り登った。
砂丘は前日の雨の水気を含んでいるが、表面はすでに乾いている。急な斜面の砂は軽やかに崩れ、私たちは幾度も両手をついて這い登る。体じゅうの細胞がピチピチと音をたてて弾けるようだ。
ふたつ三つ四つ、私たちは声もなく大砂丘を走り登り、這い登っては滑り降りた。
「とうとう来た」
と声をかけ合ったのは、もう村はずれのポプラの梢も完全に見えなくなってからだ。
「これが砂漠、本ものの砂の。土漠の荒地ではなくて……」
息を弾ませて幾度も同じことを叫んだ。長く尾をひく異様に甲高いロバたちの鳴き声も聞こえなくなって、まわりじゅうの砂があらゆる音を吸いこむ完壁の静寂。空は晴れ上がって雲ひとつないが、きのうあれだけの雨にもかかわらず、砂埃の微粒子がもう一面に浮遊し始めていて、日ざしは薄膜を透したようにやわらかい。何百何千と砂丘が連なりひろがる地平の果てはぼやけている。烈日の砂漠、痛いほど透明な青すぎる空という一般的イメージとは違うけれど、吹き抜けのサハラ砂漠ではなく、これが東アジアの大盆地の砂漠なのだ。
砂丘の頂ごとにあたりを見渡しながらどんどん内側へと入りこんでゆくにつれて、初めはどれもただ大きいとしか見えなかった砂丘のひとつひとつの色と形が少しずつ違っていて、ひとつとして同じ砂丘がないことに気付いて、次第に畏怖に近い感情を覚え始める。
ようやく最初の興奮が幾らか鎮まると、ひときわ高い砂丘の頂に私たちは腰をおろして、改めて周囲を見まわした。普通砂粒はどれも同じように見えるが、石英、長石、磁鉄鉱、角閃石、軽石など母体岩石の違いによって色と光り方が微妙に異る。掌にすくって見ると、黄鉄鉱らしい金色の粒子や黒い砂鉄がかなり多い。そのためにひとつの砂丘でも、白っぽくきらめく部分、しっとりと砂色の部分、黒っぼく翳ったように見える箇所と、決して一様ではない。
また砂とは直怪0・05ミリから2ミリまでの岩石の砕片のことだ。ということは、砂粒には0・05ミリから2ミリまでの大きさと重さの違いがあり、さらに形状にもさまざまな歪みや変形がある。その微妙な差異が、風に吹かれたときの動き方、流れ方の違いとなり、この息をのむ風紋の波形を生み出しながら、個々の砂丘の形が無限に異ってもくるのだ。
実際私たちはいま、盛り上がった面、えぐられた窪み、正確な斜面、無数のシワが寄り集まった面、なだらかな|褶曲《しゅうきょく》面、断崖のようにほとんど垂直な面と、実にさまざまな砂面の組み合わせに囲まれている。そしてそれらの面と面が分かれる境界の稜線も、大きく湾曲する線、のびやかな斜線、急角度の直線、ゆるく渦巻く線、波打つ線、放物線と双曲線の一部と変化する。私が考え想像しうる限りのあらゆる線と面があった。
しかもどちらの方角からともわからない微風によって、砂粒は絶え間なく転がり流れ続けている。足もとをじっと見つめていると、砂一粒一粒のひそかな動きがはっきりわかり、稜線がみる間に移動してゆくのが見える。そうして砂丘群は互いに形が異っているだけでなく、それぞれの砂丘の形も次の瞬間にはもう同じではない。
日頃私たちは、どうしようもなくバラバラなことを砂のようだと言い、不毛単調の極みを砂漠のようだと形容するけれど、ここは大盆地が干上がって吹き寄せられて溜った砂の単なる堆積ではない。一粒一粒は小さいながらも独立した砂粒たちが、砂丘というひとつのまとまり、それぞれの形を、みずからそしておのずから生み出しつくり出す。泥のようにひっつき合い狎れ合って固まるのではなく。
そしてその形の何という自由な変容。その表面の何という美しい風紋の動き。陳腐な形容詞としての砂漠ではなく、これが真の生きた砂漠だ、と私は繰り返し自分に言った。主語のない動詞の永遠の現在進行形。
事実、砂丘をひとつ越えると、次はどんな形の砂丘がありどんな展望が開けるのか、と砂漠はさらに奥へと誘い続けてやまないのである。ひとつの砂丘の頂に立って黙ってあたりを眺め渡しているだけで、少しも飽きることがなかった。
もし宇宙が素粒子たちの組み合わせとその変容によって成り立ち運行しているものなら、私はいま宇宙がその仕組みの秘密を惜し気もなく晒している現場にいる。砂という最も単純な物質が無言で語る世界の最も深い秘密。最も直接に身体的で、最も深く抽象的な。
この変容のドラマには主催者も計画者も指揮者もいない。物質自身の、自然そのものの自己形成、自己変容のドラマ。決して神秘的ではないが、これ以上の神秘があるだろうか。砂漠の内側に入りこんで、そのことがありありとわかる。考えるのではなく身体そのものがそう感じとるのである。
次第に強くなる光と風のなかで、砂たちがいよいよ乾いて軽やかに弾み、転がり、風紋を組み上げては解いてゆくそのかすかなリズム、砂漠そのものの呟きがまわりじゅうで鳴っている。
「テープかCDのデッキを持ってくればよかったなあ。ここにいると無性に音楽が聞きたくなってくる」
と音楽好きのK君が言った。
「ブライアン・イーノの"The Plateaux of Mirror"のような曲」
と私も言った。
「無理して来てよかったですねえ。初め砂漠に行きたいと言われたとき、何を考えてんだろ、とあきれましたけど」
しみじみとK君は言う。多分彼の身体も私の身体と同じように、あたり一面の光と砂のリズムを感じとっているに違いない。
私たちはまた新しい大砂丘の頂に坐りこんでいた。もう幾つ砂丘を越えてきたか覚えていない。入ってきたのがどの方角だったかもわからないが、そのことが少しも不安ではなかった。
「実はね」と握った砂を斜面にこぼしながら私は言った。「何年も前、ふっと思い立って鳥取の砂丘に行ったことがあったんだ。ところがまわりを砂防林に囲まれて、風が吹き抜けられなくなって、砂丘は死にかけていた。砂は動かず風紋も流れない。自分でもよくわからない悲しみと怒りに駆られて帰ってから、『砂丘が動くように』という長篇小説を書いたんだよ。せめて小説のなかで、砂丘を生き返らせようとして。四年も前のことだったけど、いま自分が書いたその幻想の場面の中にいるような気がするよ」
「ぼくもさっきからずっと覚めない夢を見ているような信じられない気持ちですよ。仕事柄、世界のいろんなところに行ったけど、こんな気分になったのは初めてだ」
物静かなK君が興奮するのを見るのも初めてだった。
「小説のなかで砂丘が蘇る幻想的な場面を思いきって、自分でも気がおかしくなるんではないかと不安になるまで書いたつもりだったけど、現実の砂漠はどんな幻想より幻想的だ」
そう言いながら、私はここが「大いなる死の土地」と呼ばれてきたことについて考えていた。
ごく表面的に受け取れば、この広大な砂漠の奥まで迷いこむと(とくに灼熱、砂嵐の際には)生きて戻れない、という意味だろうが、ウイグル人たちはモンゴル高原でシャーマニズムを、タリム盆地に移住してからはペルシアのマニ教を、インドの仏教を、そしていまはアラブのイスラム教をと、複雑な宗教的体験を経てきた民族だ。そんな単純な現実的意味だけでそう呼んだろうか。死こそ幻想だ、ということを彼らは「タクラマカン」という名前にこめたのではなかったろうか。
畏るべき幻想の空間——大いなる死の土地。そしてその幻想は、このように晴やかに精妙なのだ。
私は先程から、淡く煙る地平線の上にちらつく白い幻影を見つめていた。ガウディが設計したバルセロナの、四本の尖塔のある幻想的な教会に似ているが。ただしその構造物は、極細の絹糸か、グラスファイバーか、光の繊維のようなもので比類なく繊細に織り上げられていて、可視と不可視の領域の中間に純白にきらめきながら浮かんでいる。内側のアラベスク模様が透けて見える回教寺院のようでもあるけれど、教会とか寺院の建物そのものというよりそれらの精のゆらめきのようだ。
そして天使たちの合唱のような、幼児たちの笑い声のような、意味不明の澄み切った声がまわりじゅうのサラサラという砂の流れの音と重なって、遠く近く高く低く聞こえている。
限りなく繊細で限りなく広大なもの、それが世界で、そこに還ることが死なのだ——とそのふしぎな幻影は、そっと告げ知らせているようだった。心の奥が奥にゆくほど開いて、微光を発するような感覚。「砂に還る」という言葉が爽やかに身体のなかを流れた。
過去の記憶がみるみる気化してゆき、いつのまにか現世の時間感覚が完全に消えていた……。
いきなりK君が悲鳴をあげた。
「こんなに時間が経ってた。飛行機の出発に間に合わなくなります」
腕時計を見ると、すでに砂漠に入って三時間が経過していた。三十分ほどしか経っていないつもりだったのに。
前日と同じ道を車で行く。前日は窓が雨に濡れてぼんやりとしか見えなかった周囲の風景がよく見えた。雨に洗われた畠の小麦がみずみずしく青い。女性も子供たちもまじった農民たちが多数畠に出ている。道路わきで泥まみれになってポプラを植樹している人たちもあった。
モンゴル高原を追われてこの土地に入ってから、崑崙の雪解け水を利用し防砂のポプラを植えながら、営々とこのオアシス農地を作り上げてきたウイグル人たちの長い労苦の日を思った。泥壁の農家は粗末で生活はいまもきびしそうだが、春の朝日はきのうとは別の世界のように明るく穏やかだった。発情したロバが不意に甲高く物悲しい叫び声をあげて鳴き交す。
きのうと同じオアシス耕地のはずれで車を下りる。同じ大砂丘が目の前にあった。だが今朝はその背後に同じような砂丘が連なっているのが、果てしなくどこまでも見渡せる。運転手とガイドのC君とコートを車に残して、私とK君は海に駆けこむ子供のように狂喜して砂丘に走り登った。
砂丘は前日の雨の水気を含んでいるが、表面はすでに乾いている。急な斜面の砂は軽やかに崩れ、私たちは幾度も両手をついて這い登る。体じゅうの細胞がピチピチと音をたてて弾けるようだ。
ふたつ三つ四つ、私たちは声もなく大砂丘を走り登り、這い登っては滑り降りた。
「とうとう来た」
と声をかけ合ったのは、もう村はずれのポプラの梢も完全に見えなくなってからだ。
「これが砂漠、本ものの砂の。土漠の荒地ではなくて……」
息を弾ませて幾度も同じことを叫んだ。長く尾をひく異様に甲高いロバたちの鳴き声も聞こえなくなって、まわりじゅうの砂があらゆる音を吸いこむ完壁の静寂。空は晴れ上がって雲ひとつないが、きのうあれだけの雨にもかかわらず、砂埃の微粒子がもう一面に浮遊し始めていて、日ざしは薄膜を透したようにやわらかい。何百何千と砂丘が連なりひろがる地平の果てはぼやけている。烈日の砂漠、痛いほど透明な青すぎる空という一般的イメージとは違うけれど、吹き抜けのサハラ砂漠ではなく、これが東アジアの大盆地の砂漠なのだ。
砂丘の頂ごとにあたりを見渡しながらどんどん内側へと入りこんでゆくにつれて、初めはどれもただ大きいとしか見えなかった砂丘のひとつひとつの色と形が少しずつ違っていて、ひとつとして同じ砂丘がないことに気付いて、次第に畏怖に近い感情を覚え始める。
ようやく最初の興奮が幾らか鎮まると、ひときわ高い砂丘の頂に私たちは腰をおろして、改めて周囲を見まわした。普通砂粒はどれも同じように見えるが、石英、長石、磁鉄鉱、角閃石、軽石など母体岩石の違いによって色と光り方が微妙に異る。掌にすくって見ると、黄鉄鉱らしい金色の粒子や黒い砂鉄がかなり多い。そのためにひとつの砂丘でも、白っぽくきらめく部分、しっとりと砂色の部分、黒っぼく翳ったように見える箇所と、決して一様ではない。
また砂とは直怪0・05ミリから2ミリまでの岩石の砕片のことだ。ということは、砂粒には0・05ミリから2ミリまでの大きさと重さの違いがあり、さらに形状にもさまざまな歪みや変形がある。その微妙な差異が、風に吹かれたときの動き方、流れ方の違いとなり、この息をのむ風紋の波形を生み出しながら、個々の砂丘の形が無限に異ってもくるのだ。
実際私たちはいま、盛り上がった面、えぐられた窪み、正確な斜面、無数のシワが寄り集まった面、なだらかな|褶曲《しゅうきょく》面、断崖のようにほとんど垂直な面と、実にさまざまな砂面の組み合わせに囲まれている。そしてそれらの面と面が分かれる境界の稜線も、大きく湾曲する線、のびやかな斜線、急角度の直線、ゆるく渦巻く線、波打つ線、放物線と双曲線の一部と変化する。私が考え想像しうる限りのあらゆる線と面があった。
しかもどちらの方角からともわからない微風によって、砂粒は絶え間なく転がり流れ続けている。足もとをじっと見つめていると、砂一粒一粒のひそかな動きがはっきりわかり、稜線がみる間に移動してゆくのが見える。そうして砂丘群は互いに形が異っているだけでなく、それぞれの砂丘の形も次の瞬間にはもう同じではない。
日頃私たちは、どうしようもなくバラバラなことを砂のようだと言い、不毛単調の極みを砂漠のようだと形容するけれど、ここは大盆地が干上がって吹き寄せられて溜った砂の単なる堆積ではない。一粒一粒は小さいながらも独立した砂粒たちが、砂丘というひとつのまとまり、それぞれの形を、みずからそしておのずから生み出しつくり出す。泥のようにひっつき合い狎れ合って固まるのではなく。
そしてその形の何という自由な変容。その表面の何という美しい風紋の動き。陳腐な形容詞としての砂漠ではなく、これが真の生きた砂漠だ、と私は繰り返し自分に言った。主語のない動詞の永遠の現在進行形。
事実、砂丘をひとつ越えると、次はどんな形の砂丘がありどんな展望が開けるのか、と砂漠はさらに奥へと誘い続けてやまないのである。ひとつの砂丘の頂に立って黙ってあたりを眺め渡しているだけで、少しも飽きることがなかった。
もし宇宙が素粒子たちの組み合わせとその変容によって成り立ち運行しているものなら、私はいま宇宙がその仕組みの秘密を惜し気もなく晒している現場にいる。砂という最も単純な物質が無言で語る世界の最も深い秘密。最も直接に身体的で、最も深く抽象的な。
この変容のドラマには主催者も計画者も指揮者もいない。物質自身の、自然そのものの自己形成、自己変容のドラマ。決して神秘的ではないが、これ以上の神秘があるだろうか。砂漠の内側に入りこんで、そのことがありありとわかる。考えるのではなく身体そのものがそう感じとるのである。
次第に強くなる光と風のなかで、砂たちがいよいよ乾いて軽やかに弾み、転がり、風紋を組み上げては解いてゆくそのかすかなリズム、砂漠そのものの呟きがまわりじゅうで鳴っている。
「テープかCDのデッキを持ってくればよかったなあ。ここにいると無性に音楽が聞きたくなってくる」
と音楽好きのK君が言った。
「ブライアン・イーノの"The Plateaux of Mirror"のような曲」
と私も言った。
「無理して来てよかったですねえ。初め砂漠に行きたいと言われたとき、何を考えてんだろ、とあきれましたけど」
しみじみとK君は言う。多分彼の身体も私の身体と同じように、あたり一面の光と砂のリズムを感じとっているに違いない。
私たちはまた新しい大砂丘の頂に坐りこんでいた。もう幾つ砂丘を越えてきたか覚えていない。入ってきたのがどの方角だったかもわからないが、そのことが少しも不安ではなかった。
「実はね」と握った砂を斜面にこぼしながら私は言った。「何年も前、ふっと思い立って鳥取の砂丘に行ったことがあったんだ。ところがまわりを砂防林に囲まれて、風が吹き抜けられなくなって、砂丘は死にかけていた。砂は動かず風紋も流れない。自分でもよくわからない悲しみと怒りに駆られて帰ってから、『砂丘が動くように』という長篇小説を書いたんだよ。せめて小説のなかで、砂丘を生き返らせようとして。四年も前のことだったけど、いま自分が書いたその幻想の場面の中にいるような気がするよ」
「ぼくもさっきからずっと覚めない夢を見ているような信じられない気持ちですよ。仕事柄、世界のいろんなところに行ったけど、こんな気分になったのは初めてだ」
物静かなK君が興奮するのを見るのも初めてだった。
「小説のなかで砂丘が蘇る幻想的な場面を思いきって、自分でも気がおかしくなるんではないかと不安になるまで書いたつもりだったけど、現実の砂漠はどんな幻想より幻想的だ」
そう言いながら、私はここが「大いなる死の土地」と呼ばれてきたことについて考えていた。
ごく表面的に受け取れば、この広大な砂漠の奥まで迷いこむと(とくに灼熱、砂嵐の際には)生きて戻れない、という意味だろうが、ウイグル人たちはモンゴル高原でシャーマニズムを、タリム盆地に移住してからはペルシアのマニ教を、インドの仏教を、そしていまはアラブのイスラム教をと、複雑な宗教的体験を経てきた民族だ。そんな単純な現実的意味だけでそう呼んだろうか。死こそ幻想だ、ということを彼らは「タクラマカン」という名前にこめたのではなかったろうか。
畏るべき幻想の空間——大いなる死の土地。そしてその幻想は、このように晴やかに精妙なのだ。
私は先程から、淡く煙る地平線の上にちらつく白い幻影を見つめていた。ガウディが設計したバルセロナの、四本の尖塔のある幻想的な教会に似ているが。ただしその構造物は、極細の絹糸か、グラスファイバーか、光の繊維のようなもので比類なく繊細に織り上げられていて、可視と不可視の領域の中間に純白にきらめきながら浮かんでいる。内側のアラベスク模様が透けて見える回教寺院のようでもあるけれど、教会とか寺院の建物そのものというよりそれらの精のゆらめきのようだ。
そして天使たちの合唱のような、幼児たちの笑い声のような、意味不明の澄み切った声がまわりじゅうのサラサラという砂の流れの音と重なって、遠く近く高く低く聞こえている。
限りなく繊細で限りなく広大なもの、それが世界で、そこに還ることが死なのだ——とそのふしぎな幻影は、そっと告げ知らせているようだった。心の奥が奥にゆくほど開いて、微光を発するような感覚。「砂に還る」という言葉が爽やかに身体のなかを流れた。
過去の記憶がみるみる気化してゆき、いつのまにか現世の時間感覚が完全に消えていた……。
いきなりK君が悲鳴をあげた。
「こんなに時間が経ってた。飛行機の出発に間に合わなくなります」
腕時計を見ると、すでに砂漠に入って三時間が経過していた。三十分ほどしか経っていないつもりだったのに。
接待所に急いで戻ってあわててトランクを詰めこんでいると、いったん事務所に戻ったガイドのC君が駆けこんできた。
「飛行機の出発が延期です。新しい出発時刻はわかりません。しばらくここで待っていて下さい」
それだけ言ってC君は事務所に戻った。私はK君の部屋に行ってふたりで大笑いした。
「きっときょうはアクスが大風沙なんだ」
私たちはK君持参のインスタントコーヒーを入れたコップを持って、接待所の庭に出た。日当りのいい庭には、桃に似た|杏子《あんず》の大樹の花が満開だった。
その大樹と向き合う石のベンチに坐る。きのうも今朝もあわただしくて気にとめていなかったのだが、改めて見上げると、枝にいっぱいの杏子の花は清楚で華やかで|芳《かぐわ》しかった。穏やかな春の昼の日ざしが、淡紅色の花弁の一輪一輪をまともに照らし、濃く甘い香が庭にこもっている。
ベンチにも春の光がさんさんと降り注いで、汗ばむほどである。思いがけなくできた|間《ま》の一刻が、光と香と砂漠での興奮の余韻で膨らんでいる。杏子の大樹と砂丘の連なりが重なって見えるのだ。
「何だか気味悪いほどいい気持ちだな」
K君の作ってくれた熱いコーヒーを少しずつゆっくりと飲む。戦後、東京で桜の花見というものを、私は一度もしたことがない。戦争中の桜的なものへの不快なこだわりが心の奥に尾をひき続けてきたからだが、いま似たような満開の花を前にして、その長い間のこだわりが消えている。わずか三時間の間だったにもかかわらず、砂漠の風景が私の意識を底から吹き払っていったような具合だった。うつろで気だるく平安で、満ち足りている。魂が何か大きな仕事を成し終えたように。
玄関の前で接待所の若いウイグル人女性の係員たちが輪になって、何がおかしいのか笑い声を上げていた。イスラム教徒の彼女たちはどこでも必ずスカーフを頭髪に留めているのだが、ひとりが原色のスカーフを解いて指先でクルクル回していた。ペルシアの血がまじっているらしく、目が大きく肌の白い娘だ。彼女たちもいま昼休みなのだろう。
淡紅色の雲のような杏子の大樹が、そんな少女たちの笑い声を、私のふしぎな心の膨らみを、晴れ晴れと眺めおろして抱きとめている。その花々の背後に、砂漠の果ての砂色の地平線が、その上の奇妙な光の繊維の構造物が見え隠れしている。砂粒が遠い砂丘の稜線を流れ続ける音……。
「いま死んでもいいな、コトリと」
思わずそう呟くと、K君が驚いて私を見返した。
C君が戻ってきた。
「飛行機の出発は夕方の六時だそうです。もう一か所どこかに行けますよ」
「砂漠」
と私が即座に答えると、C君は本気にあきれたようだ。私とK君は声をあげて笑う。大風沙と一年に三日の雨が奪った時間を、砂漠がいま私たちに返してくれる。
C君は運転手と相談してから肩をすくめながら言った。
「わかりました。いいですよ。別のところに行きましょう。それにしても、どうしてそんなに砂漠にばかり行きたがるんです」
「わからんな、自分でも。きっと砂漠が呼んでるんだろう」
私は本気で答えた。
「東京にまで聞こえたものな、その声は」
と言いながら、それは大いなる死の砂漠よりもっと大きなもの、生死の境界さえ超えて遥かなものの呼び声なのではないかと思った。
タンザニアのチンパンジーも、落ちてゆく大きな夕日の向こうに、その声を聞いていたのだろう。
「飛行機の出発が延期です。新しい出発時刻はわかりません。しばらくここで待っていて下さい」
それだけ言ってC君は事務所に戻った。私はK君の部屋に行ってふたりで大笑いした。
「きっときょうはアクスが大風沙なんだ」
私たちはK君持参のインスタントコーヒーを入れたコップを持って、接待所の庭に出た。日当りのいい庭には、桃に似た|杏子《あんず》の大樹の花が満開だった。
その大樹と向き合う石のベンチに坐る。きのうも今朝もあわただしくて気にとめていなかったのだが、改めて見上げると、枝にいっぱいの杏子の花は清楚で華やかで|芳《かぐわ》しかった。穏やかな春の昼の日ざしが、淡紅色の花弁の一輪一輪をまともに照らし、濃く甘い香が庭にこもっている。
ベンチにも春の光がさんさんと降り注いで、汗ばむほどである。思いがけなくできた|間《ま》の一刻が、光と香と砂漠での興奮の余韻で膨らんでいる。杏子の大樹と砂丘の連なりが重なって見えるのだ。
「何だか気味悪いほどいい気持ちだな」
K君の作ってくれた熱いコーヒーを少しずつゆっくりと飲む。戦後、東京で桜の花見というものを、私は一度もしたことがない。戦争中の桜的なものへの不快なこだわりが心の奥に尾をひき続けてきたからだが、いま似たような満開の花を前にして、その長い間のこだわりが消えている。わずか三時間の間だったにもかかわらず、砂漠の風景が私の意識を底から吹き払っていったような具合だった。うつろで気だるく平安で、満ち足りている。魂が何か大きな仕事を成し終えたように。
玄関の前で接待所の若いウイグル人女性の係員たちが輪になって、何がおかしいのか笑い声を上げていた。イスラム教徒の彼女たちはどこでも必ずスカーフを頭髪に留めているのだが、ひとりが原色のスカーフを解いて指先でクルクル回していた。ペルシアの血がまじっているらしく、目が大きく肌の白い娘だ。彼女たちもいま昼休みなのだろう。
淡紅色の雲のような杏子の大樹が、そんな少女たちの笑い声を、私のふしぎな心の膨らみを、晴れ晴れと眺めおろして抱きとめている。その花々の背後に、砂漠の果ての砂色の地平線が、その上の奇妙な光の繊維の構造物が見え隠れしている。砂粒が遠い砂丘の稜線を流れ続ける音……。
「いま死んでもいいな、コトリと」
思わずそう呟くと、K君が驚いて私を見返した。
C君が戻ってきた。
「飛行機の出発は夕方の六時だそうです。もう一か所どこかに行けますよ」
「砂漠」
と私が即座に答えると、C君は本気にあきれたようだ。私とK君は声をあげて笑う。大風沙と一年に三日の雨が奪った時間を、砂漠がいま私たちに返してくれる。
C君は運転手と相談してから肩をすくめながら言った。
「わかりました。いいですよ。別のところに行きましょう。それにしても、どうしてそんなに砂漠にばかり行きたがるんです」
「わからんな、自分でも。きっと砂漠が呼んでるんだろう」
私は本気で答えた。
「東京にまで聞こえたものな、その声は」
と言いながら、それは大いなる死の砂漠よりもっと大きなもの、生死の境界さえ超えて遥かなものの呼び声なのではないかと思った。
タンザニアのチンパンジーも、落ちてゆく大きな夕日の向こうに、その声を聞いていたのだろう。
車はいっそう明るい午後の光のなか、本来なら無かった時間のなかを、これまで知らなかった方角へと市街を抜けて走った。C君もくわしく行先を言わないし、私たちも尋ねない。薄緑色のオアシス農地が広がる先に、長い土手が連なって見えた。ゴミが浮いて濁った溜池のようなものを想像した。土手の下で車がとまり、私たちは土手を登った。土手の下に灌漑用の水利施設らしい建物の煉瓦の壁が、物憂く赤かった。
土手を登りきって息をのんだ。満々と水を湛えた湖が、視野いっぱいに広がっていた。しかも岸辺の水底の石ころのひとつひとつが見分けられるほどその水は澄みきって、水面が鏡面のように静まり返っている。
池や湖や川の色は、周囲の山や林、空と雲の色の反映である。だがいま空には雲はなく、砂ぼこりの微粒子が乱反射する黄白色のやわらかな光が遍在し、周囲には山も林も建物もなく、遥か対岸に砂丘のなだらかな起伏が連なっているだけ。湖は純枠に水そのものの色、つまり無色に近い。長い土手の上には、私たち以外の人影はなかった。湖面に小舟も水鳥の姿もない。風がないので波もない。
オアシスと砂漠の境につくられた人工湖らしいが、天然の丸石と土を積みあげた土手の他に、コンクリートの堰堤のようなものは見えない。崑崙山脈の雪解け水を|堰《せ》き止めたものに違いないが、白玉河も黒玉河も、水の入口も出口も見当たらないので、天然の湖のようにしか見えない。足もとの土手を除けば、砂という物質に囲まれた水という物質だけがある。とにかく広く、限りなく静かだ。
「こんなに素晴らしいところを、どうしていままで黙ってたんだ。知らないで帰るところだったじゃないか」と言うと、「そんなにいいですか」とC君は笑うだけだが、のんびりしたC君が最後までこんな場所をとっておいてくれたことに、心から感謝した。
思いがけない砂漠の湖。それは天上の湖のようで、岸に立っているだけで心がどこまでも開いてゆく。午前中より砂が乾ききったらしく、砂漠はいま白く遠く、水と光の彼方の一線である。
私が来たのではなく何かに呼び寄せられ、私が見ているのではなく見せられているのだ、という気持ちを強く覚えた。この風景は、この世の時間の予定の欄外の、ありえなかったはずのものである。その非現実性が、逆にいかに深くリアルであることか。
子供の頃から肉体的にも意志的にも、自分の生命力が人なみ以下だと思ってきたのに、五十代の終り近くまでどうにか生きてこられて、いまここにいるということが、小さな奇蹟のように思われた。いやそうではなくて、実は自分では知らないうちに私はもう死んでいて、少なくとも死にかけていて、それでこんなこの世のものならぬ風景の只中にいるのだ、と囁く声のようなものが体の奥の方から聞こえる気もした。
(ほぼ一年後、私は臓器の悪性腫瘍を偶然に発見されるのだが、この時すでにガン細胞の急速な増殖を私の体は知っていたはずだ)
それから砂漠の方へと長い土手の上を歩いた。土手は長かったけれど、かつて覚えたことのない満ち足りて平安な気分が続いていた。自分の人生の欄外を歩いているふしぎな気持ちだ。
湖岸の砂漠は汚れかけていた。砂ぼこりが沈澱して砂丘が土丘化し始めていたのである。風は吹き通るとしても、これだけ広い水面から蒸発する水分のせいだろう。午前中の砂漠では、乾いた砂粒か不断に流れて砂丘は刻々に変容してやまなかったが、ここでは砂の動きは鈍く、稜線の鋭さがない。
だが動かないなだらかな砂丘群はどっしりと安定しても見え、それはそれで砂漠のもうひとつの顔だろう。午前中に見た砂漠が不断に生成する世界を象徴するとすれば、ここには世界が存在する重さがあった。生成と存在は宇宙のふたつの相だ。昼前に私は生成の軽やかな戯れを味い、いまは存在の悠久のなかにいる。これ以上何を望むことがあろう。これまでも、いまも、これからも、この私が死んでも、刻々に生成変幻しつつ宇宙は存在するだろう。
白い砂丘の果てしない起伏を前方にに心ゆくまで眺め、振り返って湖面の静寂を深々と感じとりながら、私はそう思い続けた。
その思いは夢みることと違わない。
少し先のひときわ高い砂丘の頂に、黒い帽子に長い黒衣の男がひとり坐って瞑想している姿を見かけたときも、実際にこの目で見ているのか、影の私を心眼が夢みているのか、私はもう自分に間おうとはしなかった。
無限の砂と光と、そして遥かな遠い声だけがあった。
土手を登りきって息をのんだ。満々と水を湛えた湖が、視野いっぱいに広がっていた。しかも岸辺の水底の石ころのひとつひとつが見分けられるほどその水は澄みきって、水面が鏡面のように静まり返っている。
池や湖や川の色は、周囲の山や林、空と雲の色の反映である。だがいま空には雲はなく、砂ぼこりの微粒子が乱反射する黄白色のやわらかな光が遍在し、周囲には山も林も建物もなく、遥か対岸に砂丘のなだらかな起伏が連なっているだけ。湖は純枠に水そのものの色、つまり無色に近い。長い土手の上には、私たち以外の人影はなかった。湖面に小舟も水鳥の姿もない。風がないので波もない。
オアシスと砂漠の境につくられた人工湖らしいが、天然の丸石と土を積みあげた土手の他に、コンクリートの堰堤のようなものは見えない。崑崙山脈の雪解け水を|堰《せ》き止めたものに違いないが、白玉河も黒玉河も、水の入口も出口も見当たらないので、天然の湖のようにしか見えない。足もとの土手を除けば、砂という物質に囲まれた水という物質だけがある。とにかく広く、限りなく静かだ。
「こんなに素晴らしいところを、どうしていままで黙ってたんだ。知らないで帰るところだったじゃないか」と言うと、「そんなにいいですか」とC君は笑うだけだが、のんびりしたC君が最後までこんな場所をとっておいてくれたことに、心から感謝した。
思いがけない砂漠の湖。それは天上の湖のようで、岸に立っているだけで心がどこまでも開いてゆく。午前中より砂が乾ききったらしく、砂漠はいま白く遠く、水と光の彼方の一線である。
私が来たのではなく何かに呼び寄せられ、私が見ているのではなく見せられているのだ、という気持ちを強く覚えた。この風景は、この世の時間の予定の欄外の、ありえなかったはずのものである。その非現実性が、逆にいかに深くリアルであることか。
子供の頃から肉体的にも意志的にも、自分の生命力が人なみ以下だと思ってきたのに、五十代の終り近くまでどうにか生きてこられて、いまここにいるということが、小さな奇蹟のように思われた。いやそうではなくて、実は自分では知らないうちに私はもう死んでいて、少なくとも死にかけていて、それでこんなこの世のものならぬ風景の只中にいるのだ、と囁く声のようなものが体の奥の方から聞こえる気もした。
(ほぼ一年後、私は臓器の悪性腫瘍を偶然に発見されるのだが、この時すでにガン細胞の急速な増殖を私の体は知っていたはずだ)
それから砂漠の方へと長い土手の上を歩いた。土手は長かったけれど、かつて覚えたことのない満ち足りて平安な気分が続いていた。自分の人生の欄外を歩いているふしぎな気持ちだ。
湖岸の砂漠は汚れかけていた。砂ぼこりが沈澱して砂丘が土丘化し始めていたのである。風は吹き通るとしても、これだけ広い水面から蒸発する水分のせいだろう。午前中の砂漠では、乾いた砂粒か不断に流れて砂丘は刻々に変容してやまなかったが、ここでは砂の動きは鈍く、稜線の鋭さがない。
だが動かないなだらかな砂丘群はどっしりと安定しても見え、それはそれで砂漠のもうひとつの顔だろう。午前中に見た砂漠が不断に生成する世界を象徴するとすれば、ここには世界が存在する重さがあった。生成と存在は宇宙のふたつの相だ。昼前に私は生成の軽やかな戯れを味い、いまは存在の悠久のなかにいる。これ以上何を望むことがあろう。これまでも、いまも、これからも、この私が死んでも、刻々に生成変幻しつつ宇宙は存在するだろう。
白い砂丘の果てしない起伏を前方にに心ゆくまで眺め、振り返って湖面の静寂を深々と感じとりながら、私はそう思い続けた。
その思いは夢みることと違わない。
少し先のひときわ高い砂丘の頂に、黒い帽子に長い黒衣の男がひとり坐って瞑想している姿を見かけたときも、実際にこの目で見ているのか、影の私を心眼が夢みているのか、私はもう自分に間おうとはしなかった。
無限の砂と光と、そして遥かな遠い声だけがあった。