人が生まれて死ぬところが家だとすれば、百年前とは言わない、五十年前までは確かにそうだったとすれば、いつのまにかわれわれは家を失ってしまったらしい。
単なる建物としての各自の家というものはある。むしろこの二十年、いや十年来、首都のこの巨大都市だけでなく、地方の都市だけでもなく、いわゆる農村地帯においてさえも、各自の家屋は小さいなりに麗々しくなり、白っぽいモルタル塗りの壁の至るところに出窓がついて、玄関は金色の把手つきのまがいのマホガニー製となり、要するに安物のデコレーションケーキのひと切れのようになってきた。まるで家が家としての理念を失ってきたことの埋め含わせに、見かけだけを飾らざるをえないような具合だ。
だが産婆さんがあたふたと家に走ってくるようなことはなくなり、近所の医者が聴診器の端がはみ出た黒カバンを手に、深刻な面持ちで門を入ってくることもなくなった。元気な産声も、死期の迫った病人のうめき声も、住宅街のどこからも聞こえてくることはない。不意の瀕死の病のときも、呼ばれるのは近所の医者ではなく、救急車である。救急車の特徴ある警笛の音なら、度々耳にすることができる。
家が家としての基本理念をいつのまにか失ってきたことを(誕生と死以上に基本的なことがあろうか)、すでにわれわれも漠然とは気がついてきた。病院での誕生と死を、家族の誰かや友人の場合、たいてい一度や二度は経験しているから。
だが一般概念として、そのようなことを知っているつもりでいることと、自分の死に場所が絶対に病院の集中治療室か救急車の中だと、自分自身のこととして実感することとは違う。誕生と死を追い出した家は、もはや家とは呼べないのではないか、と思い至るためには、それ相応の体験が必要である。
死に場所、という言葉も狭い意味の場所とだけ考えるには当たらない。故郷に戻って死にたいとか、そのことないしその人のためなら喜んで死んでもいいと言いきれるような、死ぬ拠りどころあるいは死の意味というようなことまで、私は含めているつもりである。そうした意味あいもこめて、われわれは死に場所を失ったと私は言っているつもりだが、これはいわゆる近代の終焉とか世紀末といった精々百年単位のことではない。われわれが人類として生き始めてから何百万年になるか専門家たちの説も必ずしも一致しているわけではないが、少なくとも北京原人からでも五十万年以来われわれの世代まで、人は自分の|住処《すみか》で生まれ死んできたのだ(移動中の死や戦いでの死を別にして)、という事実の大きさと深さを、われわれは本当に身にしみているだろうか。われわれは家の、家郷の本質を失ったのだ、ということを。あるいは始源と終末を切り捨てて、その中間だけのいわゆる生活の場としての家とは一体何だろうかということを。
単なる建物としての各自の家というものはある。むしろこの二十年、いや十年来、首都のこの巨大都市だけでなく、地方の都市だけでもなく、いわゆる農村地帯においてさえも、各自の家屋は小さいなりに麗々しくなり、白っぽいモルタル塗りの壁の至るところに出窓がついて、玄関は金色の把手つきのまがいのマホガニー製となり、要するに安物のデコレーションケーキのひと切れのようになってきた。まるで家が家としての理念を失ってきたことの埋め含わせに、見かけだけを飾らざるをえないような具合だ。
だが産婆さんがあたふたと家に走ってくるようなことはなくなり、近所の医者が聴診器の端がはみ出た黒カバンを手に、深刻な面持ちで門を入ってくることもなくなった。元気な産声も、死期の迫った病人のうめき声も、住宅街のどこからも聞こえてくることはない。不意の瀕死の病のときも、呼ばれるのは近所の医者ではなく、救急車である。救急車の特徴ある警笛の音なら、度々耳にすることができる。
家が家としての基本理念をいつのまにか失ってきたことを(誕生と死以上に基本的なことがあろうか)、すでにわれわれも漠然とは気がついてきた。病院での誕生と死を、家族の誰かや友人の場合、たいてい一度や二度は経験しているから。
だが一般概念として、そのようなことを知っているつもりでいることと、自分の死に場所が絶対に病院の集中治療室か救急車の中だと、自分自身のこととして実感することとは違う。誕生と死を追い出した家は、もはや家とは呼べないのではないか、と思い至るためには、それ相応の体験が必要である。
死に場所、という言葉も狭い意味の場所とだけ考えるには当たらない。故郷に戻って死にたいとか、そのことないしその人のためなら喜んで死んでもいいと言いきれるような、死ぬ拠りどころあるいは死の意味というようなことまで、私は含めているつもりである。そうした意味あいもこめて、われわれは死に場所を失ったと私は言っているつもりだが、これはいわゆる近代の終焉とか世紀末といった精々百年単位のことではない。われわれが人類として生き始めてから何百万年になるか専門家たちの説も必ずしも一致しているわけではないが、少なくとも北京原人からでも五十万年以来われわれの世代まで、人は自分の|住処《すみか》で生まれ死んできたのだ(移動中の死や戦いでの死を別にして)、という事実の大きさと深さを、われわれは本当に身にしみているだろうか。われわれは家の、家郷の本質を失ったのだ、ということを。あるいは始源と終末を切り捨てて、その中間だけのいわゆる生活の場としての家とは一体何だろうかということを。
始源と終末のドラマと神秘を受けもつのは、いまや病院である。病院はいまや病気を癒すためだけの一施設ではない。それはわれわれの生の両端に無限にのびている神秘にたずさわるいわば神殿のようなものだ
秋も終りに近い曇って薄寒い午後だった。
手術してから一年余が過ぎていた。退院後も転移予防のための免疫強化剤の注射のため、週三回通院していた。一日も休むことなく。
病院はJR総武線信濃町の駅から道路ひとつ隔ててすぐ近くだ。道路を渡りながら、病院の建物はすでに大きく見えている。十一階建ての新館と六階建ての旧館が主な建物で、どちらも淡くベージュ色を帯びた白い建物である。隣接する大きな建物がないので、とても大きくはっきりと見える。
その日はとくに何も特別の日ではなかった。駅の階段を登りながら、他の人たちにあまり遅れなくなったな、とちらりと思ったぐらいだ。退院してから半年ぐらいまでは、電車を二度乗り換えて通院するのがとても苦痛だった。乗り換えのホームでは必ずベンチに坐って休んだ。階段を登るときは手すりにつかまって一歩ずつ登った。一緒に電車を降りた人たちが皆登りきってからやっと登り終える有様だった。
それがかなり楽になったな、と何気なく意識したのである。それからいつのまにか手術後一年を過ぎて、転移の最も危険な時期を過ぎたことも意識した。もちろん転移の可能性は二年後、三年後まであるし、月一回の割合で血液検査の結果を調べる主治医も、自然免疫力の回復が思わしくないとして、注射はまだ続けるようにと言っている。
だが身体自体は体力の回復を感じ始めていたのだろう。病院の表門を入って、正面に新館の建物を見上げたとき、思いがけなく見なれてきた病院が違って見えたのだ。晴れた日には日ざしを受けてほとんど純白に輝いている病院が、妙に灰色に、しかも全体が縮んで見えた。天候のせいもあっただろうが、病院がそんなに違って見えたことは初めてだった。普通の十一階建てのビルのようだった。
新館の玄関まで門から百メートルぼどある。午後でも面会の人が往き来して結構、人の通りはあるのだが、私は幾度も立ちどまって病院を眺め直した。信じ難い思いで。単なる気分的な印象の違いではなかった。視覚だけの問題でもなかった。いわば体全体でそう感じたのである。
新館の建物は西側を欠いたコの字形の構造だが、門の方からは普通の直方体のビルのように見える。ただし建物の角が普通のビルのように角張ってなく、幾らか丸味を帯びている。それがソフトな白っぽい色彩とともに、建物に情感的な潤いを与えているのだが、その種母性的なオーラが消えていた。角の丸味よりも建物全体が鉄筋コンクリート製のビルだという事実が、灰色の空に剥き出しになっていた。固く冷え冷えと無表情に。
幾度眺め直してもそうだった。私はほとんど混乱したまま、玄関を入った。玄関を入ると、左側に薬を渡すところ、右側に料金を払うところがあって、いつも何十人もの人たちが待っており、中央の通路にも患者、その家族および面会者たちが歩いている。それもいつもの通りのことだったが、私の身体がいつもと少し違っていた。身体が患者と正常者とを区別するのだ。入院してまだ間もない頃もそうだった。自分の身体の一部に悪性の腫瘍を抱えていながら、たとえば車イスに乗った人、余りに痩せた人、顔面に繃帯をした人、点滴のホースをつけたまま移動ベッドで運ばれてゆく人たちを、敏感に意識したのだった。
ところが自分が手術したあとは、入院中も退院してからも、患者たちにとても身近な感じを、異郷で同国人に会ったような親近感を自然に覚えてきた。重症らしいと思われる人たちほど濃い感情を。そして花束などを抱えていかにも健康そうな面会人たちには、とても異質な感じを。
それは同情心とか心の優しさという次元のことではなかった。いわば身体そのものの自然な反応だった。とくに目からの光が消えかけている人たちを見かけると、自分の顔を見るように思った。
ところがこの日、その患者たちへの親近感が薄れていることに気づいた。付添いの人に抱えられてそろそろと床をすり足で歩いているガウン姿の人(入院患者だ)の傍を通りながら、自分の歩き方がいつのまにかほとんど普通に戻りかけているのを意識した。そうとはっきり意識したのは手術後初めてのことだった。私は急いで、おまえだって自然免疫力は健康者の半分程度も戻っていないのだ、と自分に言ったが、私の細胞たちは勝手に浮き浮きと弾んでいるようだった。
手術してから一年余が過ぎていた。退院後も転移予防のための免疫強化剤の注射のため、週三回通院していた。一日も休むことなく。
病院はJR総武線信濃町の駅から道路ひとつ隔ててすぐ近くだ。道路を渡りながら、病院の建物はすでに大きく見えている。十一階建ての新館と六階建ての旧館が主な建物で、どちらも淡くベージュ色を帯びた白い建物である。隣接する大きな建物がないので、とても大きくはっきりと見える。
その日はとくに何も特別の日ではなかった。駅の階段を登りながら、他の人たちにあまり遅れなくなったな、とちらりと思ったぐらいだ。退院してから半年ぐらいまでは、電車を二度乗り換えて通院するのがとても苦痛だった。乗り換えのホームでは必ずベンチに坐って休んだ。階段を登るときは手すりにつかまって一歩ずつ登った。一緒に電車を降りた人たちが皆登りきってからやっと登り終える有様だった。
それがかなり楽になったな、と何気なく意識したのである。それからいつのまにか手術後一年を過ぎて、転移の最も危険な時期を過ぎたことも意識した。もちろん転移の可能性は二年後、三年後まであるし、月一回の割合で血液検査の結果を調べる主治医も、自然免疫力の回復が思わしくないとして、注射はまだ続けるようにと言っている。
だが身体自体は体力の回復を感じ始めていたのだろう。病院の表門を入って、正面に新館の建物を見上げたとき、思いがけなく見なれてきた病院が違って見えたのだ。晴れた日には日ざしを受けてほとんど純白に輝いている病院が、妙に灰色に、しかも全体が縮んで見えた。天候のせいもあっただろうが、病院がそんなに違って見えたことは初めてだった。普通の十一階建てのビルのようだった。
新館の玄関まで門から百メートルぼどある。午後でも面会の人が往き来して結構、人の通りはあるのだが、私は幾度も立ちどまって病院を眺め直した。信じ難い思いで。単なる気分的な印象の違いではなかった。視覚だけの問題でもなかった。いわば体全体でそう感じたのである。
新館の建物は西側を欠いたコの字形の構造だが、門の方からは普通の直方体のビルのように見える。ただし建物の角が普通のビルのように角張ってなく、幾らか丸味を帯びている。それがソフトな白っぽい色彩とともに、建物に情感的な潤いを与えているのだが、その種母性的なオーラが消えていた。角の丸味よりも建物全体が鉄筋コンクリート製のビルだという事実が、灰色の空に剥き出しになっていた。固く冷え冷えと無表情に。
幾度眺め直してもそうだった。私はほとんど混乱したまま、玄関を入った。玄関を入ると、左側に薬を渡すところ、右側に料金を払うところがあって、いつも何十人もの人たちが待っており、中央の通路にも患者、その家族および面会者たちが歩いている。それもいつもの通りのことだったが、私の身体がいつもと少し違っていた。身体が患者と正常者とを区別するのだ。入院してまだ間もない頃もそうだった。自分の身体の一部に悪性の腫瘍を抱えていながら、たとえば車イスに乗った人、余りに痩せた人、顔面に繃帯をした人、点滴のホースをつけたまま移動ベッドで運ばれてゆく人たちを、敏感に意識したのだった。
ところが自分が手術したあとは、入院中も退院してからも、患者たちにとても身近な感じを、異郷で同国人に会ったような親近感を自然に覚えてきた。重症らしいと思われる人たちほど濃い感情を。そして花束などを抱えていかにも健康そうな面会人たちには、とても異質な感じを。
それは同情心とか心の優しさという次元のことではなかった。いわば身体そのものの自然な反応だった。とくに目からの光が消えかけている人たちを見かけると、自分の顔を見るように思った。
ところがこの日、その患者たちへの親近感が薄れていることに気づいた。付添いの人に抱えられてそろそろと床をすり足で歩いているガウン姿の人(入院患者だ)の傍を通りながら、自分の歩き方がいつのまにかほとんど普通に戻りかけているのを意識した。そうとはっきり意識したのは手術後初めてのことだった。私は急いで、おまえだって自然免疫力は健康者の半分程度も戻っていないのだ、と自分に言ったが、私の細胞たちは勝手に浮き浮きと弾んでいるようだった。
注射を終え一回毎の料金の支払いも済ませて、新館の玄関を出た。身体は疲れていなかった。これまではたいてい十一階にある喫茶店に行って、カフェオーレとアップル・パイひと切れの昼食をとりながらしばらく休んんできたのに、もう少し実のあるものが食べたい、と思っているらしい。自分が薄気味悪くもあり不安でもあった。自分の身体がひそかに変り始めている……。
本来ならそれは喜ぶべき兆候に違いなかった。血液検査の数字はどうであれ、体力が回復してきた兆候のはずなのだから。だが料金支払いの順番を待ってロビーに坐っている間も、よくわからない不安の思いが強まるばかりだった。
玄関を出ると右手に十数本ほどの樹木のある一角がある。その間に石や木の切株がベンチ替りにおいてあって、タバコの吸穀を捨てるところもある。とくに気に入りの場所というわけではないが、病院というところは落着いてタバコをすえる場所がきわめて少ない。入院中も時々病室をぬけ出してひと休みしに来たところである。
晴れた日でもそんな樹蔭に坐りこんでいる人は滅多にいない。ましてその日のような曇って薄ら寒い日に、他に人はいなかった。表門への花壇沿いの道を、診察に来た人たちはのろのろと帰ってゆき、見舞いの人たちは急ぎ足で玄関へと入ってゆく。自分が決心したというよりその小暗い一角に呼びこまれたような形で、私はそこに入りこんで腰をおろした。頭上に十一階の新館が聳えていて、斜め下方から眺め上げる形になる。旧館の低い建物が正面に細長く連なっている。
石のベンチに坐ってみて、私は病院を眺め直したかったのだ。本当に病院は変ってしまったのだろうか。
先程表門から入ってきた時より、雲はいっそう低くなっていた。まだ薄暗くなるほどの時間ではないはずなのに、空の灰色は濃かった。その灰色の重さに耐えるように、新館も旧館も病院の全体ががっしりと静まり返っている。病室のほとんどはカーテンがしまっている。オーラはやはり戻っていなかった。
というより、これまで病院全体がオーラと呼ぶしかないような靄のようなもの、磁場のようなもの、霊気のようなものに包まれて微光を発していたことが、それが消えたいま改めてわかったのだ。病院が単なる鉄筋コンクリートのビルのひとつではなかったことが。
初めてこの病院を訪れたとき建物をどう感じたのだったか、きれいで清潔な大きな病院だと思った漠とした記憶しかなかった。偶然に思いがけなく発見された自分の病気のこと、最悪の場合への怯えで頭がいっぱいだった気がする。自覚症状が全くなかったために、自分の意志で入院したにもかかわらず、むしろ不当に拘束されているという感じさえひそかに抱いていた。一日も早く退院して家に戻りたいとしきりに思った。一日たつ毎にカレンダーの日付をひとつずつ太いサインペンで消しながら。
入院して検査期間が二週間ほどあった。その間に腫瘍が悪性であることが確定されたことを主治医から告げられたのは、手術の前々日だった。そのとき主治医は入院前と最新のと二枚のCTスキャン写真を壁に貼って冷静に言った——ここに白くなった部分がふえているだろう。これがガン化した細胞の増殖のプロセスだが、ガン細胞がその臓器内だけで増えているのか、すでに体内にまわっているのかは患部を摘出して病理検査にまわしてみなければわからない。
確かそう言われた日の夜だったが、私はガウン姿のまま玄関の外まで出た。病室でひとりじっとしていることに耐え難かったからだ。もう一か月発見が遅れてたら、全身のリンパ腺にウイルスがまわっていただろう、はっきり言ってギリギリの微妙なタイミングだとも医者は言った。
玄関を出てみてわかったのだが、JR線の線路を隔てた競技場で、その夜はちょうど花火が打ち上げられていた。私は玄関を出て左の方、旧館の前の狭いコンクリートの歩道に腰をおろして次々と花火が新館の背後に打ち上げられるのを眺めた。表門からの広い道は玄関前の右側を通っていて、旧館の前の道は、人ひとり通れる程度の狭い道で、すぐ前には夜でも何台もの車が並んで注射されている。その車の列の間から花火を見上げるのだが、車を置いてある地面から十センチほど高くなっているだけの、コンクリートの路面に蹲っていると、新館の建物は立って見上げたときよりいっそう高々と見え、その背後の夜空にひろがる花火はさらに高かった。
次々と花火を打ち上げる音が大きくひびく中に、病院は白々と立っていた。そして花火の傘を背後に、病院は古い城か大きな教会堂のようだった。威厳を帯びて冷然と聳えている。地面にひとり坐りこんでいる自分のみじめさと、花火を背にした病院の建物の壮麗さが、余りにはっきりと対照的だった。病院は大きいだけではなかった。それは卑小な私の生死を司る絶対的な建物だった。神殿であり最高裁判所であった。自分の生死はそこの判決、そこの恩寵にかかっている。
この二週間毎日通った検査室のことを考えた。何十メートルもの長い廊下の両側に並んだ検査室。新館の一階からそのまま行けるのだが、そこの通路に入ると天井に幾本もの太いパイプが走っていて、壁の塗りも新館と違って古めかしい。検査室は地下にもあって、そこはさらに薄暗く、陰惨な気配が漂っている。各検査室の前にはベンチがあって、それぞれ何人もの患者たちが順番を待っているのだが、患者たちの表情は一様に暗い。誰も口を開かない。点滴の管を何本もつけて移動ベッドで運ばれてきている患者もいる。彼らは目さえ開いていない。
その検査室通りの途中に、廊下が通りと直角についていて、「放射線治療科」「がんセンター」と標識がかかったドアが、いつも閉じている。私の場合いまは新館六階の明るい病室にいるが、手術と病理検査の結果、すでにウイルスが全身にまわっていることがわかれば、多分この地下室的な感じの(実際は一階だが)ガン病棟に移されるのだろう。それからやがてどこにあるかはわからないが、霊安室へ。
はなやかな花火に彩られて夜空に白々と聳えながら、大病院はそういう影の部分を秘めている。それは街の小さな診療所とは違う。検査して診断して薬をくれるだけの場所ではない。人間の生存のごく一部の必要に対応するだけの仕事とビルがふえ続ける中で、大病院だけは人間の運命の全体に対応する。普通見たくないどころか考えたくもない最後の部分まで引き受ける。現実には治って退院してゆく人が多いだろう。だが遅かれ早かれ、いつか人間はすべてここに来るのだ、という恐ろしさと崇高さが腑分けし難くまじり合い溶け合って、大病院の建物は手術直前の私の目に、ほとんどこの世のものならぬ姿に見えたのだ。一種不気味な靄のようなものに包まれながら、後光のような微光を帯びて。
風のない真夏の息苦しい夜の申に、花火の光と音とともに聳える神殿。医師という神官たち。まだ若い看護婦たち。生涯に自分の血族や夫婦の何人かの死に立ち会うだけでもとてもつらいことなのに、彼らは何十人何百人の最期をみとる。経験ある医師たちはまだ耐えられるとして、若い看護婦たちが次々と臨終の場面を経験するということは、ほとんど信じ難いことだ。日頃の看護の肉体的過労より、死んでゆく患者たちをずっと何週間も見守り続ける精神的緊張の方が耐え難いだろう。
私はその夜、近くで花火大会があることを知って見物に出てきたのではなかった。主治医の正式の通告を病室でひとり考え続けることに苦しくなって外に出てきただけだったのに、自分の死の可能性(確率五〇パーセント程度か)と病院という存在が思いがけなく目の前で深く結びつき溶け合って、戦慄と畏怖の思いに強く駆られた。そして絶えまない花火の光の輪と音が、私のそんな想念のたかぶりをいっそうあおりたて、まるでそうだ、そうだ、と力強く同意し、よい考えだと夜空いっぱいに祝福するように思えた。
カルロス・カスタネダの本の中で、鳥の鳴き声や風の音やポットの水が沸騰してふたがカタカタ鳴るのは、おまえの考えないし行動に世界が同意ないし警告するしるしだと、インディアンの呪術師(禅の導師とそっくりだ)が語っていたことが思い浮かんだ。偶然の花火が私の生死の可能性のどちらに同意したか、ということではなかった。もちろんそのときの私にとってそれは最大の直接の関心事にちがいなかったが、そういう私的な次元のことではなく、病院は神殿だ、という思念の流れおよび実際に新館の建物がそう見えた、といういわば客観的な事象に世界が同意した、と思われたのである。
実際のところ思念の流れは私の考えというより身体の奥をふと流れた水の流れのようであったし、威厳を帯びた病院の形姿も私のそのときのイメージというより病院が本当の姿をかいま見させた、と感じられた。私的でしかない個々の偶然の事象に、世界は同意も警告もしないであろう。世界の同意ないし警告が得られるには、その夜の私のように、主治医の告知を聞いて日常の意識が深くひび割れ、身体そのものの思念ないし知覚が意識の表面まで露出した時だけであろう。
花火の光の祝福と音の同意に私は圧倒され、思わず立ち上がって病院の建物に向かって何か奇態なことを叫び出しそうな状態だったが(かつて人々が神殿に対してそうしたように)、かろうじて駐車場の隅のコンクリートの床に、自分の膝を両腕で抱えこみながら蹲り続けた。
本来ならそれは喜ぶべき兆候に違いなかった。血液検査の数字はどうであれ、体力が回復してきた兆候のはずなのだから。だが料金支払いの順番を待ってロビーに坐っている間も、よくわからない不安の思いが強まるばかりだった。
玄関を出ると右手に十数本ほどの樹木のある一角がある。その間に石や木の切株がベンチ替りにおいてあって、タバコの吸穀を捨てるところもある。とくに気に入りの場所というわけではないが、病院というところは落着いてタバコをすえる場所がきわめて少ない。入院中も時々病室をぬけ出してひと休みしに来たところである。
晴れた日でもそんな樹蔭に坐りこんでいる人は滅多にいない。ましてその日のような曇って薄ら寒い日に、他に人はいなかった。表門への花壇沿いの道を、診察に来た人たちはのろのろと帰ってゆき、見舞いの人たちは急ぎ足で玄関へと入ってゆく。自分が決心したというよりその小暗い一角に呼びこまれたような形で、私はそこに入りこんで腰をおろした。頭上に十一階の新館が聳えていて、斜め下方から眺め上げる形になる。旧館の低い建物が正面に細長く連なっている。
石のベンチに坐ってみて、私は病院を眺め直したかったのだ。本当に病院は変ってしまったのだろうか。
先程表門から入ってきた時より、雲はいっそう低くなっていた。まだ薄暗くなるほどの時間ではないはずなのに、空の灰色は濃かった。その灰色の重さに耐えるように、新館も旧館も病院の全体ががっしりと静まり返っている。病室のほとんどはカーテンがしまっている。オーラはやはり戻っていなかった。
というより、これまで病院全体がオーラと呼ぶしかないような靄のようなもの、磁場のようなもの、霊気のようなものに包まれて微光を発していたことが、それが消えたいま改めてわかったのだ。病院が単なる鉄筋コンクリートのビルのひとつではなかったことが。
初めてこの病院を訪れたとき建物をどう感じたのだったか、きれいで清潔な大きな病院だと思った漠とした記憶しかなかった。偶然に思いがけなく発見された自分の病気のこと、最悪の場合への怯えで頭がいっぱいだった気がする。自覚症状が全くなかったために、自分の意志で入院したにもかかわらず、むしろ不当に拘束されているという感じさえひそかに抱いていた。一日も早く退院して家に戻りたいとしきりに思った。一日たつ毎にカレンダーの日付をひとつずつ太いサインペンで消しながら。
入院して検査期間が二週間ほどあった。その間に腫瘍が悪性であることが確定されたことを主治医から告げられたのは、手術の前々日だった。そのとき主治医は入院前と最新のと二枚のCTスキャン写真を壁に貼って冷静に言った——ここに白くなった部分がふえているだろう。これがガン化した細胞の増殖のプロセスだが、ガン細胞がその臓器内だけで増えているのか、すでに体内にまわっているのかは患部を摘出して病理検査にまわしてみなければわからない。
確かそう言われた日の夜だったが、私はガウン姿のまま玄関の外まで出た。病室でひとりじっとしていることに耐え難かったからだ。もう一か月発見が遅れてたら、全身のリンパ腺にウイルスがまわっていただろう、はっきり言ってギリギリの微妙なタイミングだとも医者は言った。
玄関を出てみてわかったのだが、JR線の線路を隔てた競技場で、その夜はちょうど花火が打ち上げられていた。私は玄関を出て左の方、旧館の前の狭いコンクリートの歩道に腰をおろして次々と花火が新館の背後に打ち上げられるのを眺めた。表門からの広い道は玄関前の右側を通っていて、旧館の前の道は、人ひとり通れる程度の狭い道で、すぐ前には夜でも何台もの車が並んで注射されている。その車の列の間から花火を見上げるのだが、車を置いてある地面から十センチほど高くなっているだけの、コンクリートの路面に蹲っていると、新館の建物は立って見上げたときよりいっそう高々と見え、その背後の夜空にひろがる花火はさらに高かった。
次々と花火を打ち上げる音が大きくひびく中に、病院は白々と立っていた。そして花火の傘を背後に、病院は古い城か大きな教会堂のようだった。威厳を帯びて冷然と聳えている。地面にひとり坐りこんでいる自分のみじめさと、花火を背にした病院の建物の壮麗さが、余りにはっきりと対照的だった。病院は大きいだけではなかった。それは卑小な私の生死を司る絶対的な建物だった。神殿であり最高裁判所であった。自分の生死はそこの判決、そこの恩寵にかかっている。
この二週間毎日通った検査室のことを考えた。何十メートルもの長い廊下の両側に並んだ検査室。新館の一階からそのまま行けるのだが、そこの通路に入ると天井に幾本もの太いパイプが走っていて、壁の塗りも新館と違って古めかしい。検査室は地下にもあって、そこはさらに薄暗く、陰惨な気配が漂っている。各検査室の前にはベンチがあって、それぞれ何人もの患者たちが順番を待っているのだが、患者たちの表情は一様に暗い。誰も口を開かない。点滴の管を何本もつけて移動ベッドで運ばれてきている患者もいる。彼らは目さえ開いていない。
その検査室通りの途中に、廊下が通りと直角についていて、「放射線治療科」「がんセンター」と標識がかかったドアが、いつも閉じている。私の場合いまは新館六階の明るい病室にいるが、手術と病理検査の結果、すでにウイルスが全身にまわっていることがわかれば、多分この地下室的な感じの(実際は一階だが)ガン病棟に移されるのだろう。それからやがてどこにあるかはわからないが、霊安室へ。
はなやかな花火に彩られて夜空に白々と聳えながら、大病院はそういう影の部分を秘めている。それは街の小さな診療所とは違う。検査して診断して薬をくれるだけの場所ではない。人間の生存のごく一部の必要に対応するだけの仕事とビルがふえ続ける中で、大病院だけは人間の運命の全体に対応する。普通見たくないどころか考えたくもない最後の部分まで引き受ける。現実には治って退院してゆく人が多いだろう。だが遅かれ早かれ、いつか人間はすべてここに来るのだ、という恐ろしさと崇高さが腑分けし難くまじり合い溶け合って、大病院の建物は手術直前の私の目に、ほとんどこの世のものならぬ姿に見えたのだ。一種不気味な靄のようなものに包まれながら、後光のような微光を帯びて。
風のない真夏の息苦しい夜の申に、花火の光と音とともに聳える神殿。医師という神官たち。まだ若い看護婦たち。生涯に自分の血族や夫婦の何人かの死に立ち会うだけでもとてもつらいことなのに、彼らは何十人何百人の最期をみとる。経験ある医師たちはまだ耐えられるとして、若い看護婦たちが次々と臨終の場面を経験するということは、ほとんど信じ難いことだ。日頃の看護の肉体的過労より、死んでゆく患者たちをずっと何週間も見守り続ける精神的緊張の方が耐え難いだろう。
私はその夜、近くで花火大会があることを知って見物に出てきたのではなかった。主治医の正式の通告を病室でひとり考え続けることに苦しくなって外に出てきただけだったのに、自分の死の可能性(確率五〇パーセント程度か)と病院という存在が思いがけなく目の前で深く結びつき溶け合って、戦慄と畏怖の思いに強く駆られた。そして絶えまない花火の光の輪と音が、私のそんな想念のたかぶりをいっそうあおりたて、まるでそうだ、そうだ、と力強く同意し、よい考えだと夜空いっぱいに祝福するように思えた。
カルロス・カスタネダの本の中で、鳥の鳴き声や風の音やポットの水が沸騰してふたがカタカタ鳴るのは、おまえの考えないし行動に世界が同意ないし警告するしるしだと、インディアンの呪術師(禅の導師とそっくりだ)が語っていたことが思い浮かんだ。偶然の花火が私の生死の可能性のどちらに同意したか、ということではなかった。もちろんそのときの私にとってそれは最大の直接の関心事にちがいなかったが、そういう私的な次元のことではなく、病院は神殿だ、という思念の流れおよび実際に新館の建物がそう見えた、といういわば客観的な事象に世界が同意した、と思われたのである。
実際のところ思念の流れは私の考えというより身体の奥をふと流れた水の流れのようであったし、威厳を帯びた病院の形姿も私のそのときのイメージというより病院が本当の姿をかいま見させた、と感じられた。私的でしかない個々の偶然の事象に、世界は同意も警告もしないであろう。世界の同意ないし警告が得られるには、その夜の私のように、主治医の告知を聞いて日常の意識が深くひび割れ、身体そのものの思念ないし知覚が意識の表面まで露出した時だけであろう。
花火の光の祝福と音の同意に私は圧倒され、思わず立ち上がって病院の建物に向かって何か奇態なことを叫び出しそうな状態だったが(かつて人々が神殿に対してそうしたように)、かろうじて駐車場の隅のコンクリートの床に、自分の膝を両腕で抱えこみながら蹲り続けた。
それからちょうど一年たったことしの夏、私の目に病院がどう見えていたかの確とした記憶はない。ことしも近くの競技場での花火大会は催されたにちがいないが、昼間しか来ないので花火を背景にした病院は見ていない。
だが学校でも職場でも一年聞の皆勤など一生に一度もしたことのない私が、注射のための通院だけはすでに一年以上一回も休んでいない。初めの一か月ほどを除いてタクシーにも乗っていない。というのも転移の予防という自分の生命にかかわることだからだろうか。一回ぐらい休んだって翌日行けば、病院の連休のときのように中二日休むだけなので、注射の効果に影響はない。事実どんな暑い日でも寒い日でも、一度も病院に行きたくないと思ったことがないのだ。多少強い雨が降るぐらい全く関係ないのだった。
二度の電車の乗り換え駅で階段を登るとき、この間までは丘か小山に登るようだと思ってきたが、意識の奥では本当に丘の上の白い神殿に登ってきたのではなかったか。電車の駅の改札口を出て、道路の向こうに病院新館の建物が、日ざしをいっぱいに浴びて晴々と、あるいは冬空の下に陰々と威厳をもって建っている姿が見えると、とても安心するのだ。始終ほとんど意味もないざわめきを呟き続けている意識の奥が一瞬すっと静まり返って、体じゅうの綱胞たちが深く息を吸いこむのを感じる。帰るべきところに帰ってきたような気分さえ覚える。
主治医が冷静で有能で、外来の看護婦たちが明るく親切だという人間的感情だけでなく、普段は薄れがちな、私の存在にとって最も大切なものに近づく場所という気がするのだ。最も懐しい場所と感ずることもあるが、その懐しさは単に安心できて快いという意味よりもむしろ、本来的に絶対のものに直面するしんとした感情と言えるだろう。この世界と人生はどうしようもなく荒涼たるものに底深く浸されているという冷厳な事実への畏怖の念を、改めて実感する場所であり建物であった。
多分かつて多くの人たちが、次々と父祖たちが息を引きとってきた故郷の古い家、一族の墓地がある裏山の森、あるいは古くからの神社や寺院などに似たような思いを寄せてきたのだろう。だがこれまでの私の生涯にそのように懐しく畏るべき場所も建物もなかった。
死の危険から私を救ってくれる場所であり、やがてそこで死すべき場所。病院の廊下で足をとめて眺めるのは、移動ベッドに寝かされて目を閉じた血の気のない老人たちと、そして生まれた赤ん坊を抱いて退院してゆく若い母親たちだった。われわれはどこから来て、どこに行くのか、という永遠の謎をはらんだ存在だ。その謎の解き難さ、理解しえぬ不条理が私を引きつける。
だが学校でも職場でも一年聞の皆勤など一生に一度もしたことのない私が、注射のための通院だけはすでに一年以上一回も休んでいない。初めの一か月ほどを除いてタクシーにも乗っていない。というのも転移の予防という自分の生命にかかわることだからだろうか。一回ぐらい休んだって翌日行けば、病院の連休のときのように中二日休むだけなので、注射の効果に影響はない。事実どんな暑い日でも寒い日でも、一度も病院に行きたくないと思ったことがないのだ。多少強い雨が降るぐらい全く関係ないのだった。
二度の電車の乗り換え駅で階段を登るとき、この間までは丘か小山に登るようだと思ってきたが、意識の奥では本当に丘の上の白い神殿に登ってきたのではなかったか。電車の駅の改札口を出て、道路の向こうに病院新館の建物が、日ざしをいっぱいに浴びて晴々と、あるいは冬空の下に陰々と威厳をもって建っている姿が見えると、とても安心するのだ。始終ほとんど意味もないざわめきを呟き続けている意識の奥が一瞬すっと静まり返って、体じゅうの綱胞たちが深く息を吸いこむのを感じる。帰るべきところに帰ってきたような気分さえ覚える。
主治医が冷静で有能で、外来の看護婦たちが明るく親切だという人間的感情だけでなく、普段は薄れがちな、私の存在にとって最も大切なものに近づく場所という気がするのだ。最も懐しい場所と感ずることもあるが、その懐しさは単に安心できて快いという意味よりもむしろ、本来的に絶対のものに直面するしんとした感情と言えるだろう。この世界と人生はどうしようもなく荒涼たるものに底深く浸されているという冷厳な事実への畏怖の念を、改めて実感する場所であり建物であった。
多分かつて多くの人たちが、次々と父祖たちが息を引きとってきた故郷の古い家、一族の墓地がある裏山の森、あるいは古くからの神社や寺院などに似たような思いを寄せてきたのだろう。だがこれまでの私の生涯にそのように懐しく畏るべき場所も建物もなかった。
死の危険から私を救ってくれる場所であり、やがてそこで死すべき場所。病院の廊下で足をとめて眺めるのは、移動ベッドに寝かされて目を閉じた血の気のない老人たちと、そして生まれた赤ん坊を抱いて退院してゆく若い母親たちだった。われわれはどこから来て、どこに行くのか、という永遠の謎をはらんだ存在だ。その謎の解き難さ、理解しえぬ不条理が私を引きつける。
そうだった、といま私は痔が痛くなりそうな冷えた石のべンチに腰をおろして、過去形で考えている。これまでとくに必ずしも意識してはいなかった病院の本質的な姿が、思いがけなくまざまざと見える。眼前の病院がみずからを閉ざしかけたいま。
私は新しい時期に入ろうとしているのだ、と声に出して言うように、一語ずつはっきりと考える。死を一般的観念としか考えていなかった手術前の自分とも。転移の危険に怯えながらもとにかくきょうは生きている、と一日一日がそれ自身で光るように実感されたこの一年余の自分とも違う時期に。そしてその新しい時期をどう生きるか、何を拠りどころとして生きるのかわからない。
手術前の自分に戻ることはありえない。この自分がいつか必ず死ぬこと、その意味を絶対に理解できぬ荒涼と理不尽な事態の中に逃がれ難く位置づけられていることを、頭だけでなく身体の細胞が知ってしまったから。 一日一日生きているという気持ちの張りを持ち続けるには、死の脅戚が薄れ始めている。きょう一日ではなく明日明後日のことが気になり出している。何も役に立つことはしなかったがきょう一日生きのびた、という喜びをすでに素直には感じられなくなっている。
神殿の扉が閉じる。意識の深層が閉じる。体力だけが回復するだろう。数年あるいは長くても十数年後に、必ずまたここに戻ってくる身体の、仮釈放あるいは執行猶予。
いよいよ濃い灰色の空を背にして、新館の建物全体が身震いするように相貌を変える。身を固く閉じる鉄筋コンクリートの巨大な塊から、白い微光を放つ優しく威厳のある懐しい建物へ、そしてまた無表情の高層ビルへと、まるで固まる途中のゼラチン状のふしぎな物体のように。
そのとき背後の木の梢で、いきなりカラスが鳴いた。すぐ頭上のように近かった。見上げなくても大きなカラスとわかるほど、重々しくなまなましい鳴き声だ。世界が私の考えに同意したのか、それとも警告したのか。この場所でも表門からの道でも、これまでカラスの声をこんなに近くで聞いたことはない。少なくとも記憶はない。このカラスはいまの私の不安を動揺を感じとっている、と自然に思った。
反射的に私も同じ声の高さと音量で、カーと叫んだ。間髪を入れず、カラスも鳴き返した。情感のこもった声だ。私も答えた。向こうも鳴いた。四、五回同じ調子で鳴き合ってから、相手は、クククッと断続する鳴き方をした。私もすぐその鳴き方に同調した。その間私は一度も背後を振り返らず頭上も見上げなかった。
初のカーと尾を引く鳴き声には同意ないし共感の味わいがあった。生物がこの世界を生きてゆくということは、いまきみが感じ考えている通りの容易ならぬことなのだ、と。
だが最後の断続する鳴き方には、何か不安なひびき、不同意ないし警告の切迫さがあった。いい気になるな、と。
断続する切迫した鳴き方を二度叫び合ってから、羽音がした。梢を飛び立ったらしかった。かなり大きなカラスらしくはげしい羽音だった。ことしは天候不順のせいで輪郭が崩れた黄葉が、私の目の前の空間をいっせいに乱れて散った。
私は新しい時期に入ろうとしているのだ、と声に出して言うように、一語ずつはっきりと考える。死を一般的観念としか考えていなかった手術前の自分とも。転移の危険に怯えながらもとにかくきょうは生きている、と一日一日がそれ自身で光るように実感されたこの一年余の自分とも違う時期に。そしてその新しい時期をどう生きるか、何を拠りどころとして生きるのかわからない。
手術前の自分に戻ることはありえない。この自分がいつか必ず死ぬこと、その意味を絶対に理解できぬ荒涼と理不尽な事態の中に逃がれ難く位置づけられていることを、頭だけでなく身体の細胞が知ってしまったから。 一日一日生きているという気持ちの張りを持ち続けるには、死の脅戚が薄れ始めている。きょう一日ではなく明日明後日のことが気になり出している。何も役に立つことはしなかったがきょう一日生きのびた、という喜びをすでに素直には感じられなくなっている。
神殿の扉が閉じる。意識の深層が閉じる。体力だけが回復するだろう。数年あるいは長くても十数年後に、必ずまたここに戻ってくる身体の、仮釈放あるいは執行猶予。
いよいよ濃い灰色の空を背にして、新館の建物全体が身震いするように相貌を変える。身を固く閉じる鉄筋コンクリートの巨大な塊から、白い微光を放つ優しく威厳のある懐しい建物へ、そしてまた無表情の高層ビルへと、まるで固まる途中のゼラチン状のふしぎな物体のように。
そのとき背後の木の梢で、いきなりカラスが鳴いた。すぐ頭上のように近かった。見上げなくても大きなカラスとわかるほど、重々しくなまなましい鳴き声だ。世界が私の考えに同意したのか、それとも警告したのか。この場所でも表門からの道でも、これまでカラスの声をこんなに近くで聞いたことはない。少なくとも記憶はない。このカラスはいまの私の不安を動揺を感じとっている、と自然に思った。
反射的に私も同じ声の高さと音量で、カーと叫んだ。間髪を入れず、カラスも鳴き返した。情感のこもった声だ。私も答えた。向こうも鳴いた。四、五回同じ調子で鳴き合ってから、相手は、クククッと断続する鳴き方をした。私もすぐその鳴き方に同調した。その間私は一度も背後を振り返らず頭上も見上げなかった。
初のカーと尾を引く鳴き声には同意ないし共感の味わいがあった。生物がこの世界を生きてゆくということは、いまきみが感じ考えている通りの容易ならぬことなのだ、と。
だが最後の断続する鳴き方には、何か不安なひびき、不同意ないし警告の切迫さがあった。いい気になるな、と。
断続する切迫した鳴き方を二度叫び合ってから、羽音がした。梢を飛び立ったらしかった。かなり大きなカラスらしくはげしい羽音だった。ことしは天候不順のせいで輪郭が崩れた黄葉が、私の目の前の空間をいっせいに乱れて散った。