死に至りかねなかったガン手術の体験は、退院後日がたつにつれて、どこか遠い遠いところに行ってきたようなものになった。そしていま、その遠いところから帰ってくる不安な道程の途中のような気分だ。まだ帰るべきところに帰り着いていない。日常が薄い膜か靄の向こうにしか感じられない。目の前にあるはずの事物や、まわりで起っている出来事との間に、隙間ないしズレがある。
同時に、日毎に薄れながらも身体と心の奥に尾をひいている”あそこ”の感覚が、ちょっとしたきっかけで蘇っては、異様な現実感を覚えることがある。
そんな退院後二年ほどたったある夜、病院までインターフェロンと言う免疫強化剤の注射をしに行って帰った日の夜だった——注射の強い副作用のため全く食欲がないまま形ばかりの夕食のあと、私は居間の長椅子にしどけなく横になっていた。わが家のテレビ受像機も居間にあるが、私にとってこのところテレビの映像は、百メートル先でちらつく陽炎のようでしかない。
そのときも家族がつけたままの画面に、私は全く無関心だったのだが、タバコを取ろうとして片手を伸ばしかけて(転移するとすれば必ず肺ガンだと医師に言われながらも、私はタバコを吸い統けている)、たまたま映っていたCMか海外ルポ番組らしいひとつのシーンが、不意に目近に迫って見えた。
画面では、低い位置からカメラが上向きに疎林の木立を写し出していた。樹冠が空をかくす熱帯雨林ではなく、葉が茂り放題で枝が曲がりくねった照葉樹林でもない。疎らな木々の幹がひっそりと垂直に空に向かって立っていた。枝も葉も多くない。北方の針葉樹林である。広角レンズのせいで、木々の先端は肉眼以上に高く長く、その先の空も高い。湿気がこもった温帯の島国の空ではなく、日光がぎらついて濃すぎる熱帯の空でもない。淡く青く乾いた空。絹雲が高くかすかに棚引いて、静謐な光が透明である。ひんやりと澄んだ北方の空。
他の物は何も写っていない。人間も建物も動物も鳥も。カメラを操作しているカメラマンが当然いるわけだが、真上に向けられているレンズのせいで、彼の視線の方向は強く印象づけられるが、カメラマンその人の存在は感じられない。
何気なく目に入ったほんの数秒間の短いシーンだったが、異様に強くその光景は長椅子に横になって茫々と開ききっていた私の意識の奥まで、いきなりじかに入りこんできた。ナレーションか音楽を伴っていたかもしれないが、完全に意識から消えている。意識したのは「この光景は確かに見たことがある」という私自身の内側からの、声のない呟きだけだ。
しかもその「見たことがある」という実感は、いつ、どこで、という特定の記憶を伴わない。まさに「いつか、どこかで」だ。そして時空間的なあいまいさは、その実感の質と無関係である。むしろ特定の時と場所に結びつかないために、逆に純粋で強烈だった。強いて言葉にすれば「生まれる前に」という言い方に最も近い。
そしてその光景は不可解な親しさを帯びていた。こんな北方の高木の疎林を、ちょうどこの角度で、つまり仰向けになって眺め上げたことがある、と私は異様に懐しくそう思った。この澄んだ明るさとしんと静まり返った静寂のなかで、あの刷毛で刷いたような高い雲のたたずまいを。
しばらく経ってから、あれはあのときあそこで見た風景だった、とおもむろに記憶と結びつく風景も時々あるけれど、そういう記憶が薄れていた場合とは違っていた。私の意識の、覗きこめないほど深くに確かに実在するイメージ。幾ら時間が経っても、いつどこでだったかを思い出すことはあるまいが、消えることも薄れることも決してないだろう。
初生児ないし幼時のある時期での「刷り込み」ではないかとも考えてみたが、私は東京で生まれ五歳まで東京の山の手で育っている。東京市内に針葉樹はあっても針葉樹林はない。東京郊外の武蔵野は乾いて北方的だとしても、あの高々と垂直の木はケヤキではない。
前世とか来世とか、霊魂が次々とタクシーを乗り継ぐように転生するといった妄想を、私は手術の直前だって直後だって一度たりとも抱いたことはない。だが脳構造を決める私の遺伝子コードの一部に、祖先たちの誰かの記憶が偶然にインプットされていたということなら、絶対にありえないとは言い切れない。
あの北方の疎林をあの角度から見上げたのは私だ、という咄嗟の実感がどうしても抜けない。偶然に一瞬出会っただけのその光景が、数週間たったいまも、その不思議な鮮明さと強烈さを矢わない。私とは本当のところ何者なのだろう。気軽に「私」という言葉を、いつも口にもし文章にも書くけれど。
手術をする前年の夏のことだ。ある旅行雑誌で若い編集者とふたり、国内の少し変った場所を訪ねるという企画があった。
種子島の発射基地で宇宙用ロケットの射ち上げ実験があるということで、予め取材の許可もとって羽田空港まで行った。とくに台風の多い夏で、一度旅客機の予約をとった日に台風が南日本に接近し発射が延期になって羽田から戻ったことがある。この二度目の発射予定の日も、新しい台風が九州方面に近づいていて、また延期になるのではないかと私たちは恐れながら羽田空港まで行ったのだった。
そして恐れた通り空港ロビーのテレビで、発射が再度延期になったことを知った。急いで旅客機の予約をキャンセルしたが、雑誌の締切の関係から、もうこれ以上ロケットの発射を待っていられなかった。
「どうしよう」と私たちは空港内のホテルに入り、とりあえずレストランで昼食をとりながら、代りの取材場所を相談した。レストランの広いガラス窓越しに、次第に強まる風雨の中を飛び立ってゆく旅客機が次々と見えたが、代りの場所はなかなか決まらない。
「折角二度も羽田まで来たのにな」
資料を集めて調べておいた国産大型ロケットの姿が、幾度も浮かんだ。
「南は台風でダメだとすれば、北のどこか……」
そう言いながら、心の中で発射台上のロケットのイメージがゆっくりと変形し始めた。
直立する金属製のロケット……直立する鉱物的なもの……直立する石。
「そうだ、青森か秋田に『日時計石』と呼ばれる遺跡がある」
一、二度写真で見たことがあっただけの縄文時代の遺跡だが、直立する石のイメージは意外に強く私の心を誘った。高さ数十メートルという大型ロケットに比べれば、高々ニメートル足らずの棒石のはずだが、ロケットを見られなくなった失望がみるみる埋められてゆく気がした。
「あそこにしよう。あそこでなければダメだ」
私はそのままホテルに残り、編集者のK君は急いで東北新幹線と旅館の予約をとりに会社に戻った。
翌朝早く羽田のホテルを出てK君と一緒に上野駅に行き、私は初めて東北新幹線に乗った。車中で、十年近く前までは埼玉県の大宮市より北に行ったことがなかったことを思い出した。父の郷里が広島県で、戦後東京に進学してからは休暇毎に東海・山陽線は往復したが、学生時代には他の土地まで旅行する経済的余裕がなかったし、新聞社の外報部に就職してからは時間的余裕がなかったうえ、出張は外国ばかりだった。
だが果してそうした外的事情だけだったろうか。私の母方は岩手県の出身である。母自身は東京で生まれ育ったが、母方の祖父母は水沢市の生まれ育ちで、とくに祖母は長く東京に住みながら東北弁の訛が抜けなかった。東北地方に対して偏見があったとは私自身全く思わないけれど、長い間進んで東北を訪れる気持ちがなかったことは事実だ。
母の血の奥を探りたくない、という自分でもよくわからないブレーキのようなものがあった。その気持ちは、私自身の暗く内側に閉じこもろうとする一面の根に、直面するのを恐れる気分とも通じている。自分自身の中に何か深く意識化したくないものがある。
ルーツ探しの好きな人たちがいる。家系の、血筋の、遺伝的な過去の闇を進んで探ろうとする人たち。私は広島の父方の過去についても、偶然に耳にしたこと以外、自分から進んで知ろうとしたことはない。父が晩年になって膨大な自分史のようなものを書き残していたが、一枚も読んだことはない。自分の血筋の奥とは、自分自身の意識の奥、意識下の記憶の闇の奥だ。それを意識の光のもとにさらけ出すのは、実はとても恐ろしいことなのではあるまいか(私の息子も私とよく話はするが、私の小説は読まない)。
そんなことを、窓の外を通り過ぎてゆく東北地方の山野や町を眺めながら、ぼんやりと考えていた。水沢の町も超特急列車は忽ち走り過ぎた。多分私は生涯、母の故郷を訪れることはないだろう。何がこわいのか。私の意識には、何か底深く捩れたものがある……。
だがこわいということは、強く|牽《ひ》かれる力の裏返しでもある。精々数百年程度の自分の家系の過去は探ろうとしないながらも、考古学的、人類学的、生物学的な過去に対しては、私は普通以上の熱意と親しみを持ち続けてきた。|卑弥呼《ひみこ》程度の過去ではない。有史以前の、縄文時代の土器の歪みに、殷墟の暗い血のにおいに、ラスコーの比類ない洞窟壁画に、タンザニアのラエトリ遺跡に残る直立歩行の確かな足跡に、私は自分を、故郷を感じとってきた。単なるこの私ではない私、果て知らぬ過去の闇から|目眩《めくるめ》く未来へと連なる私、少なくともその影を、その変容の遥かな記憶とひそかな予感とを。
同時に、日毎に薄れながらも身体と心の奥に尾をひいている”あそこ”の感覚が、ちょっとしたきっかけで蘇っては、異様な現実感を覚えることがある。
そんな退院後二年ほどたったある夜、病院までインターフェロンと言う免疫強化剤の注射をしに行って帰った日の夜だった——注射の強い副作用のため全く食欲がないまま形ばかりの夕食のあと、私は居間の長椅子にしどけなく横になっていた。わが家のテレビ受像機も居間にあるが、私にとってこのところテレビの映像は、百メートル先でちらつく陽炎のようでしかない。
そのときも家族がつけたままの画面に、私は全く無関心だったのだが、タバコを取ろうとして片手を伸ばしかけて(転移するとすれば必ず肺ガンだと医師に言われながらも、私はタバコを吸い統けている)、たまたま映っていたCMか海外ルポ番組らしいひとつのシーンが、不意に目近に迫って見えた。
画面では、低い位置からカメラが上向きに疎林の木立を写し出していた。樹冠が空をかくす熱帯雨林ではなく、葉が茂り放題で枝が曲がりくねった照葉樹林でもない。疎らな木々の幹がひっそりと垂直に空に向かって立っていた。枝も葉も多くない。北方の針葉樹林である。広角レンズのせいで、木々の先端は肉眼以上に高く長く、その先の空も高い。湿気がこもった温帯の島国の空ではなく、日光がぎらついて濃すぎる熱帯の空でもない。淡く青く乾いた空。絹雲が高くかすかに棚引いて、静謐な光が透明である。ひんやりと澄んだ北方の空。
他の物は何も写っていない。人間も建物も動物も鳥も。カメラを操作しているカメラマンが当然いるわけだが、真上に向けられているレンズのせいで、彼の視線の方向は強く印象づけられるが、カメラマンその人の存在は感じられない。
何気なく目に入ったほんの数秒間の短いシーンだったが、異様に強くその光景は長椅子に横になって茫々と開ききっていた私の意識の奥まで、いきなりじかに入りこんできた。ナレーションか音楽を伴っていたかもしれないが、完全に意識から消えている。意識したのは「この光景は確かに見たことがある」という私自身の内側からの、声のない呟きだけだ。
しかもその「見たことがある」という実感は、いつ、どこで、という特定の記憶を伴わない。まさに「いつか、どこかで」だ。そして時空間的なあいまいさは、その実感の質と無関係である。むしろ特定の時と場所に結びつかないために、逆に純粋で強烈だった。強いて言葉にすれば「生まれる前に」という言い方に最も近い。
そしてその光景は不可解な親しさを帯びていた。こんな北方の高木の疎林を、ちょうどこの角度で、つまり仰向けになって眺め上げたことがある、と私は異様に懐しくそう思った。この澄んだ明るさとしんと静まり返った静寂のなかで、あの刷毛で刷いたような高い雲のたたずまいを。
しばらく経ってから、あれはあのときあそこで見た風景だった、とおもむろに記憶と結びつく風景も時々あるけれど、そういう記憶が薄れていた場合とは違っていた。私の意識の、覗きこめないほど深くに確かに実在するイメージ。幾ら時間が経っても、いつどこでだったかを思い出すことはあるまいが、消えることも薄れることも決してないだろう。
初生児ないし幼時のある時期での「刷り込み」ではないかとも考えてみたが、私は東京で生まれ五歳まで東京の山の手で育っている。東京市内に針葉樹はあっても針葉樹林はない。東京郊外の武蔵野は乾いて北方的だとしても、あの高々と垂直の木はケヤキではない。
前世とか来世とか、霊魂が次々とタクシーを乗り継ぐように転生するといった妄想を、私は手術の直前だって直後だって一度たりとも抱いたことはない。だが脳構造を決める私の遺伝子コードの一部に、祖先たちの誰かの記憶が偶然にインプットされていたということなら、絶対にありえないとは言い切れない。
あの北方の疎林をあの角度から見上げたのは私だ、という咄嗟の実感がどうしても抜けない。偶然に一瞬出会っただけのその光景が、数週間たったいまも、その不思議な鮮明さと強烈さを矢わない。私とは本当のところ何者なのだろう。気軽に「私」という言葉を、いつも口にもし文章にも書くけれど。
手術をする前年の夏のことだ。ある旅行雑誌で若い編集者とふたり、国内の少し変った場所を訪ねるという企画があった。
種子島の発射基地で宇宙用ロケットの射ち上げ実験があるということで、予め取材の許可もとって羽田空港まで行った。とくに台風の多い夏で、一度旅客機の予約をとった日に台風が南日本に接近し発射が延期になって羽田から戻ったことがある。この二度目の発射予定の日も、新しい台風が九州方面に近づいていて、また延期になるのではないかと私たちは恐れながら羽田空港まで行ったのだった。
そして恐れた通り空港ロビーのテレビで、発射が再度延期になったことを知った。急いで旅客機の予約をキャンセルしたが、雑誌の締切の関係から、もうこれ以上ロケットの発射を待っていられなかった。
「どうしよう」と私たちは空港内のホテルに入り、とりあえずレストランで昼食をとりながら、代りの取材場所を相談した。レストランの広いガラス窓越しに、次第に強まる風雨の中を飛び立ってゆく旅客機が次々と見えたが、代りの場所はなかなか決まらない。
「折角二度も羽田まで来たのにな」
資料を集めて調べておいた国産大型ロケットの姿が、幾度も浮かんだ。
「南は台風でダメだとすれば、北のどこか……」
そう言いながら、心の中で発射台上のロケットのイメージがゆっくりと変形し始めた。
直立する金属製のロケット……直立する鉱物的なもの……直立する石。
「そうだ、青森か秋田に『日時計石』と呼ばれる遺跡がある」
一、二度写真で見たことがあっただけの縄文時代の遺跡だが、直立する石のイメージは意外に強く私の心を誘った。高さ数十メートルという大型ロケットに比べれば、高々ニメートル足らずの棒石のはずだが、ロケットを見られなくなった失望がみるみる埋められてゆく気がした。
「あそこにしよう。あそこでなければダメだ」
私はそのままホテルに残り、編集者のK君は急いで東北新幹線と旅館の予約をとりに会社に戻った。
翌朝早く羽田のホテルを出てK君と一緒に上野駅に行き、私は初めて東北新幹線に乗った。車中で、十年近く前までは埼玉県の大宮市より北に行ったことがなかったことを思い出した。父の郷里が広島県で、戦後東京に進学してからは休暇毎に東海・山陽線は往復したが、学生時代には他の土地まで旅行する経済的余裕がなかったし、新聞社の外報部に就職してからは時間的余裕がなかったうえ、出張は外国ばかりだった。
だが果してそうした外的事情だけだったろうか。私の母方は岩手県の出身である。母自身は東京で生まれ育ったが、母方の祖父母は水沢市の生まれ育ちで、とくに祖母は長く東京に住みながら東北弁の訛が抜けなかった。東北地方に対して偏見があったとは私自身全く思わないけれど、長い間進んで東北を訪れる気持ちがなかったことは事実だ。
母の血の奥を探りたくない、という自分でもよくわからないブレーキのようなものがあった。その気持ちは、私自身の暗く内側に閉じこもろうとする一面の根に、直面するのを恐れる気分とも通じている。自分自身の中に何か深く意識化したくないものがある。
ルーツ探しの好きな人たちがいる。家系の、血筋の、遺伝的な過去の闇を進んで探ろうとする人たち。私は広島の父方の過去についても、偶然に耳にしたこと以外、自分から進んで知ろうとしたことはない。父が晩年になって膨大な自分史のようなものを書き残していたが、一枚も読んだことはない。自分の血筋の奥とは、自分自身の意識の奥、意識下の記憶の闇の奥だ。それを意識の光のもとにさらけ出すのは、実はとても恐ろしいことなのではあるまいか(私の息子も私とよく話はするが、私の小説は読まない)。
そんなことを、窓の外を通り過ぎてゆく東北地方の山野や町を眺めながら、ぼんやりと考えていた。水沢の町も超特急列車は忽ち走り過ぎた。多分私は生涯、母の故郷を訪れることはないだろう。何がこわいのか。私の意識には、何か底深く捩れたものがある……。
だがこわいということは、強く|牽《ひ》かれる力の裏返しでもある。精々数百年程度の自分の家系の過去は探ろうとしないながらも、考古学的、人類学的、生物学的な過去に対しては、私は普通以上の熱意と親しみを持ち続けてきた。|卑弥呼《ひみこ》程度の過去ではない。有史以前の、縄文時代の土器の歪みに、殷墟の暗い血のにおいに、ラスコーの比類ない洞窟壁画に、タンザニアのラエトリ遺跡に残る直立歩行の確かな足跡に、私は自分を、故郷を感じとってきた。単なるこの私ではない私、果て知らぬ過去の闇から|目眩《めくるめ》く未来へと連なる私、少なくともその影を、その変容の遥かな記憶とひそかな予感とを。
盛岡で新幹線を下りると、台風前の湿気で全身の毛穴が詰まるようだった東京とは、別世界のような澄んで乾いた世界があった。肺の奥まで爽やかに大気が流れこむ。
盛岡からタクシーで、十和田湖南方の秋田県鹿角市の大湯まで直行する。途中通過した村々の農家の屋根が明るい空色に塗られているのに驚く。私の貧しい国内旅行の経験でも、空色の屋根を他の地方で見かけた覚えがない。東京でも広島県でも、青瓦の家ならあるが瑠璃色めいた重いブルーが多いのに、ここの屋根は単純に空の色、信じ難く澄んで乾いた大陸性高気圧の空の明るさである。
暗く内向的な、という私の長い間の東北地方への先入観とは異質な感性。冬の日本海沿岸地方は確かに暗いが、真夏の東北地方は快く明るいのだ。岩手県が日本文学の中で例外的に宇宙的な宮沢賢治を生んだ地だったことを、改めて思い出す。空が高くしかも身近だ。
十和田湖から流れ出る米代川の支流が、舌の形に地面を浸蝕し残した舌状台地という細長く平らな台地の上に、目的の遺跡はあった。温泉宿が数軒ある大湯の中心部からタクシーで十分ほど。疎らな林とリンゴ園と陸稲の畠が散在している。
道路をはさんだ両側にふたつの|環状列石《ストーン・サークル》があった。片方が「野中堂環状列石」、他方が「万座環状列石」と名づけられ、ふたつ合わせて「大湯環状列石」と総称される。環状列石の実物を目前にするのは初めてだった。写真で想像していたより全体のスケールがかなり大きい。台地の下の川原から運び上げたらしい細長く丸っこい自然石を十個ほどずつ集めた組み石が、二重の環の形に置かれている。昭和はじめに偶然発見され、戦後本格的に発掘、調査されて、縄文時代後半の初め頃、約四千年前につくられたことがわかった。
縄文時代というと複雑で歪形的な土器の形を連想するけれど、この遺跡で驚くのはその二重同心円の環の形の、大胆に抽象的でシンプルな形の美しさだ。外側の環の直径が約四十メートルほどだが、これまで発見された二重の環の外側にさらに三重四重の環があったらしい、と無人の案内所に置いてあった説明には書いてある。推定されている外側の環まで広げると、小さな野球場に近い広さになる。
大和地方や九州に残るずっと後代の天皇や豪族の巨大な墓は、時の権力者が多数の農民たちを奴隷的に使役して築き上げたものと思われるが、稲作農耕以前の縄文時代の狩猟採集民の人口はきわめて少ない。この時期の東北地方全体でほぼ五万人という推定がある。すでに定住が始まっていたらしいが、縄文人たちは最大でも数百人程度のグループだったろう。普通は数十人程度だったかもしれない。
彼らが長い年月をかけて、ソリのようなものに乗せて川原の石を台地まで運び上げたに違いない。彼ら自身の意識に浮かんだ世界の、あるいは宇宙の形に、その石を組み上げ並べていったのだろう。いま低い柵が設けられて環の中まで入りこめないが、権力者たちが自分の地上的でしかない富と権力を、他の人間たちに誇示した稲作以後の威圧的な陵墓とは違って、ここの石の環の形には、人々が自分たち自身のために自発的につくり出した、としか考えられない素朴さと自然さがあった。
学者たちの研究によると、縄文時代半ば頃に気候の世界的な変動があったらしい。最後の氷河期後の温暖な時代が終って、気温が低下し木の実も小動物も大型獣も減り、人口も後期に入って激減した。前期の温暖で食料も豊かで、それなりに生き易かったいわば時間なき世界の中に”変化”が出現したのだ。それは彼ら狩猟採集民たちの心に大きな不安を生んだであろう。世界が狂った、世界と自分たちはこれからいったいどうなるのだろうという恐怖。
私に縄文時代の信頼できるイメージを与えてくれた『縄文時代』(中公新書)の著者小山修三氏は、全期で八千年、この時期までで六千年間も破局的変動なく経過してきた縄文文化そのものが、停滞安定のための一種の自家中毒的なデカダンス傾向が生じていたらしいと示唆している。その傾向が気候の変動と重なって、後期に入ると土器は歪み、呪術的な土偶が急に増える。
だがいつの時代でも、変化と不安は意識の糧だ。変動は意識を鋭敏にし、不安を鎮めるための新しい精神的な試みが、何よりも自分たち自身の生存のために行われる。世界再確認のための、新たな自己認識のための、旧来の基準からはクレージーとさえ見えかねない大胆な試み。
柵の外からふたつの二重同心円の組み石の環を眺めながら、私は小学生の頃、学校の運動場の地面に、陣取りや宝物探しのゲームのために、様々な同心円や渦巻の形を、棒の先で刻みつけたことを思い出した。最初は粗雑な方形や円だったのが、次第に方形は迷路状になり円は三重四重五重と増殖し、銀河系状の渦巻が幾箇も絡み合ってゆき、ゲームのための装置という当初の目的を離れて形自体の自己増殖という傾向を帯びていった。当然その結果、ゲームの方も複雑化した。
そしていつのまにかその地面図形の設計製作は私の専任となり、本来は寝起きが悪い私が、晴れて校庭で遊べる日には一時間も早く起きて、始業時間のかなり前に登校しては、ひとり無人の校庭の隅に棒切れの先でさまざまな形を刻みこんだのである。前夜寝床に入ってから暗い天井に形を思い描き、翌朝校庭でも棒切れを握るとさらに複雑な形が自然に湧き出してくるのだった。数日もその線条の上でゲームをすれば、あるいは雨が降れば一日で薄れ消えてしまう形なのに、自分の内部から次々と浮かんでくる形を地面に刻みこんでゆくのは、おさえ難い喜びだった。
だが考えてみると、私が小学生の高学年だったその頃は中国との戦争が長期化し太平洋戦争が始まる直前で、世の中も学校も急速に軍国主義化していった時期だ。もともとリベラルな家庭に育っただけに、神社参拝や旗行列や軍事教練まがいの体操や軍国唱歌などが息苦しくてたまらなかった。欧州ではすでに大戦が始まっていた。それだけでなく小学校も上級になると、おぼろな性の衝動が兆し始める。好きな女の子ができて、魅惑的な不安と悩みを意識する。生きるということが、幼年時のようにそれなりに安定したものでないことを予感し始める。
そんな外界と自分自身の内部の気圧変動の不安が、地面に描く整然たる同心円や入り組んだ迷路の形と深くつながっていたのだ、と改めて思い当たる。心の動揺は形を求める。描き出された意識下の不安をさらに意識させる。
一見しただけでは川原の石の塊を丸く連ねただけの風変りな遺跡の光景が、そんな少年時代の記憶と重なって、私自身の過去の五十年、この遺跡の過去の四千年という現実的な時間の違いを超え、茫漠と仄暗い過去一般の薄闇に溶けこんでは同じように妖しく息づき始めるのだった。この環状列石を作ったのは私だ、われを忘れて小学校の校庭に同心円や渦巻を刻みつけていた私だ、と。
盛岡からタクシーで、十和田湖南方の秋田県鹿角市の大湯まで直行する。途中通過した村々の農家の屋根が明るい空色に塗られているのに驚く。私の貧しい国内旅行の経験でも、空色の屋根を他の地方で見かけた覚えがない。東京でも広島県でも、青瓦の家ならあるが瑠璃色めいた重いブルーが多いのに、ここの屋根は単純に空の色、信じ難く澄んで乾いた大陸性高気圧の空の明るさである。
暗く内向的な、という私の長い間の東北地方への先入観とは異質な感性。冬の日本海沿岸地方は確かに暗いが、真夏の東北地方は快く明るいのだ。岩手県が日本文学の中で例外的に宇宙的な宮沢賢治を生んだ地だったことを、改めて思い出す。空が高くしかも身近だ。
十和田湖から流れ出る米代川の支流が、舌の形に地面を浸蝕し残した舌状台地という細長く平らな台地の上に、目的の遺跡はあった。温泉宿が数軒ある大湯の中心部からタクシーで十分ほど。疎らな林とリンゴ園と陸稲の畠が散在している。
道路をはさんだ両側にふたつの|環状列石《ストーン・サークル》があった。片方が「野中堂環状列石」、他方が「万座環状列石」と名づけられ、ふたつ合わせて「大湯環状列石」と総称される。環状列石の実物を目前にするのは初めてだった。写真で想像していたより全体のスケールがかなり大きい。台地の下の川原から運び上げたらしい細長く丸っこい自然石を十個ほどずつ集めた組み石が、二重の環の形に置かれている。昭和はじめに偶然発見され、戦後本格的に発掘、調査されて、縄文時代後半の初め頃、約四千年前につくられたことがわかった。
縄文時代というと複雑で歪形的な土器の形を連想するけれど、この遺跡で驚くのはその二重同心円の環の形の、大胆に抽象的でシンプルな形の美しさだ。外側の環の直径が約四十メートルほどだが、これまで発見された二重の環の外側にさらに三重四重の環があったらしい、と無人の案内所に置いてあった説明には書いてある。推定されている外側の環まで広げると、小さな野球場に近い広さになる。
大和地方や九州に残るずっと後代の天皇や豪族の巨大な墓は、時の権力者が多数の農民たちを奴隷的に使役して築き上げたものと思われるが、稲作農耕以前の縄文時代の狩猟採集民の人口はきわめて少ない。この時期の東北地方全体でほぼ五万人という推定がある。すでに定住が始まっていたらしいが、縄文人たちは最大でも数百人程度のグループだったろう。普通は数十人程度だったかもしれない。
彼らが長い年月をかけて、ソリのようなものに乗せて川原の石を台地まで運び上げたに違いない。彼ら自身の意識に浮かんだ世界の、あるいは宇宙の形に、その石を組み上げ並べていったのだろう。いま低い柵が設けられて環の中まで入りこめないが、権力者たちが自分の地上的でしかない富と権力を、他の人間たちに誇示した稲作以後の威圧的な陵墓とは違って、ここの石の環の形には、人々が自分たち自身のために自発的につくり出した、としか考えられない素朴さと自然さがあった。
学者たちの研究によると、縄文時代半ば頃に気候の世界的な変動があったらしい。最後の氷河期後の温暖な時代が終って、気温が低下し木の実も小動物も大型獣も減り、人口も後期に入って激減した。前期の温暖で食料も豊かで、それなりに生き易かったいわば時間なき世界の中に”変化”が出現したのだ。それは彼ら狩猟採集民たちの心に大きな不安を生んだであろう。世界が狂った、世界と自分たちはこれからいったいどうなるのだろうという恐怖。
私に縄文時代の信頼できるイメージを与えてくれた『縄文時代』(中公新書)の著者小山修三氏は、全期で八千年、この時期までで六千年間も破局的変動なく経過してきた縄文文化そのものが、停滞安定のための一種の自家中毒的なデカダンス傾向が生じていたらしいと示唆している。その傾向が気候の変動と重なって、後期に入ると土器は歪み、呪術的な土偶が急に増える。
だがいつの時代でも、変化と不安は意識の糧だ。変動は意識を鋭敏にし、不安を鎮めるための新しい精神的な試みが、何よりも自分たち自身の生存のために行われる。世界再確認のための、新たな自己認識のための、旧来の基準からはクレージーとさえ見えかねない大胆な試み。
柵の外からふたつの二重同心円の組み石の環を眺めながら、私は小学生の頃、学校の運動場の地面に、陣取りや宝物探しのゲームのために、様々な同心円や渦巻の形を、棒の先で刻みつけたことを思い出した。最初は粗雑な方形や円だったのが、次第に方形は迷路状になり円は三重四重五重と増殖し、銀河系状の渦巻が幾箇も絡み合ってゆき、ゲームのための装置という当初の目的を離れて形自体の自己増殖という傾向を帯びていった。当然その結果、ゲームの方も複雑化した。
そしていつのまにかその地面図形の設計製作は私の専任となり、本来は寝起きが悪い私が、晴れて校庭で遊べる日には一時間も早く起きて、始業時間のかなり前に登校しては、ひとり無人の校庭の隅に棒切れの先でさまざまな形を刻みこんだのである。前夜寝床に入ってから暗い天井に形を思い描き、翌朝校庭でも棒切れを握るとさらに複雑な形が自然に湧き出してくるのだった。数日もその線条の上でゲームをすれば、あるいは雨が降れば一日で薄れ消えてしまう形なのに、自分の内部から次々と浮かんでくる形を地面に刻みこんでゆくのは、おさえ難い喜びだった。
だが考えてみると、私が小学生の高学年だったその頃は中国との戦争が長期化し太平洋戦争が始まる直前で、世の中も学校も急速に軍国主義化していった時期だ。もともとリベラルな家庭に育っただけに、神社参拝や旗行列や軍事教練まがいの体操や軍国唱歌などが息苦しくてたまらなかった。欧州ではすでに大戦が始まっていた。それだけでなく小学校も上級になると、おぼろな性の衝動が兆し始める。好きな女の子ができて、魅惑的な不安と悩みを意識する。生きるということが、幼年時のようにそれなりに安定したものでないことを予感し始める。
そんな外界と自分自身の内部の気圧変動の不安が、地面に描く整然たる同心円や入り組んだ迷路の形と深くつながっていたのだ、と改めて思い当たる。心の動揺は形を求める。描き出された意識下の不安をさらに意識させる。
一見しただけでは川原の石の塊を丸く連ねただけの風変りな遺跡の光景が、そんな少年時代の記憶と重なって、私自身の過去の五十年、この遺跡の過去の四千年という現実的な時間の違いを超え、茫漠と仄暗い過去一般の薄闇に溶けこんでは同じように妖しく息づき始めるのだった。この環状列石を作ったのは私だ、われを忘れて小学校の校庭に同心円や渦巻を刻みつけていた私だ、と。
しかもこの環状列石は台地に組み石を丸く並べただけの素朴なものではない。二重の環を構成するのは、十個前後の石を組み立てた小さな構造体だが、その組み石は何なのか。
予め町役場の遺跡係に立ち寄ったとき、係員が断言したのも、そこで渡されたパンフレット類に明記されてあったのも、組み石のひとつひとつが墓で遺跡全体は共同墓地だったという。骨は出てこないが、組み石の下から動物の残存脂肪反応が検出されているそうだ。
専門家たちはそろってそう考えているらしい。だがたとえそうだとしても、なぜ共同墓地の墓の並びがこのように正確な同心円の形になっているのか。共同墓地という余りに地上的な見方考え方に、私の実感は同調しない。この遺跡のリアリティーはその全体の配列の形にある、墓というような実用性を超えたところに——と私の感覚は強く訴える。これは単なる共同墓地ではないはずだ。
この大湯環状列石は、「日時計組み石」と呼ばれる特別の組み石で有名である。組み石の環の内側に、ひときわ高く細長い棒石(高さ一メートル以上)が、周りを花弁状に敷き並べられた小さな石に囲まれて、ぽつんと孤立して直立している。ふたつの環状列石にそれぞれ一個だけ。環の中心にではなく、中心と円周との中間あたり。ふたつの列石で、その特別の石の位置が少し異っているが、その直立する石こそ私の意識下の思念の中で、発射台上のロケットのイメージがおのずから変形したものである。
「日時計」という俗称は大ざっぱな印象からそう名づけられたもので、実際に時計の用をなすほど直立石は高くない。だが「日時計」という呼び名、天文的なものに深くかかわるその印象は意外に正しいのではないか、と幾度も柵のまわりを回りながら次第に強くそう思われてきた。ここは冴えた空が身近な北方の地なのだ。湿気に浸されている関東地方以西とは異質の精神風土。
幸いよく晴れた正午過ぎ。太陽の位置を見定め、パンフレットの略地図でだいたいの方角を測ってみると、二本の直立石ともそれぞれの環の中心点から西北西の方向に立っている。つまり真西からやや北寄りの方向。西とは日没の方向だ。そして昼の長い夏場には太陽は真西より北に寄って沈むだろう、という程度の天文的常識は私でも持っている。さらに昼が最も長い夏至のタ暮に、夕日は最も北に寄って沈むはずだろう。
とすれば、環の中心と直立石(日時計石)が指し示す西北西という方向は、夏至の日の日没の方向でなければならない。
町役場で係員が「共同墓地ですよ。それ以上何の意味もありませんね」と断言したあと、「ではあのひときわ高い日時計石は何ですか」と私は尋ねた。すると係員は言下にこう答えたものだ。
「酋長の墓じゃないですか」
その答えを思い出して、私は笑いかつ怒る。何という貧しく地上的な考え方。そして天体への関心も知識もあるはずのない濛昧な原始人としか縄文人たちを想像できない傲慢さ。
少しでも虚心に環の中のあの特別の直立石を眺めれば、それが意味もない位置に意味もなく立てられているはずがない、と気づかない方が濛昧ではあるまいか。ネアンデルタール人以後、人類の脳容量は変っていない。これを共同墓地としか考えられない専門家たちより、この環状列石を構想して西北西と意味ある方向に直立石を立てた縄文人のすぐれた個体の意識の方が、迫りくる不安とともに鋭敏になって、頭上へ、空へ、宇宙へと大きく開かれていたのだ。大きな同心円というシンプルな形そのものが、天体の運行の観測から導かれた世界そのものの最も基本的な形のように思われる。何という広く全体的な意識と大胆な抽象能力。
西北西という方向が、月の出と入りあるいは肉眼で最も明るく見える金星の季節毎の位置の変化などと、どう関係があるのか、私の天文知識は常識以上を出ないけれども、まだ発掘されてない第三、第四の基点のようなものが見つかれば、夏至の日没以外の天文知識を北方の縄文人たちが持っていたことも、いずれ明らかにされるかもしれない。
そんなことを考えているうちに、眼前の遺跡は単に特殊な石の並べ方の跡ではなくて、一種の天体図の趣を帯びてくる。これは四千年前の祖先たちの宇宙のイメージであり、彼ら自身の意識(無意識も含めた)の形なのだ、と。
気候は年毎に寒冷化し、植物も動物も人間も減ってゆき、世界は急速に悪くなってゆく。夏至の日から、太陽の運行は低く短く弱くなり夜は夜毎に暗く冷たくなるが、冬至の日から再び再生する太陽が果して一年前と同じに明るく暖かいだろうか。
四千年前のこの舌状台地の狩猟採集民たちが、どんな思い、どんな不安な眼差で、二本の直立石の先端を結んだ向こうの山の端に沈む夏至の夕日を眺めたか、惻々と身に迫って感じられてくるのだった。
いま東京の住民たちは、私が見る限りほとんど絶対に、道を歩きながら空を見上げない。自動車を運転している連中は見たくたって見られない。地下鉄に空はない。私は駅前のスーパーマーケットに夕食の材料を買いに行く往き還りに、ビニール袋を両手に下げて(ネギの先端などが突き出ていて)、夏ならば坂道の向こうに沈む夕日を、冬なら雑居ビルの上に昇る月を、立ちどまって眺める。
しばらく前から自動車の排気ガスで濁って湿気の多い東京の空では、夕日も満月も輸郭はぼやけ光は貧血しているが、手術後一年ほどまだ意識が浮遊状態に近かった秋の晴れた夕方、病院に注射に行った帰りの自宅近い坂道を下りながら、ちょうど正面に大きな夕日がくるめき落ちるのを異様にはっきりと見たことがあった。日頃のように濁って赤くなかった。強烈な黄色な球体が世田谷の住宅街の上で燃えたっていて、ほとんど金色に見えた。かなりの速さでその球体は回転していた。
これがあの太陽か、と足をとめて見つめるにつれて、中心から次第に黒くなってゆきやがて回転する黒い球体になった(決して日蝕ではない)。しかもその黒が黒曜石のように激しく輝いて、その輝きはほとんど魔的だった。まるで別の惑星上から別の太陽を眺めている気がして、そんな自分がこの自分ではないように気味悪い。無意識の底が剥き出しになったような異様な精神状態でやっと自宅まで戻ってくると、自宅の玄関の黒いドアの表面に、黒い太陽の残像が浮き出して回転しながら、皆既日蝕のコロナのように周りが妖しく光った。
そんなことはごく稀だが、前日雨か風が強かった日の夜、たまたま満月が不気味に青白く明る過ぎて、あんな巨大な物体が光りながら虚空を動いていることの気味悪さに、体の芯が冷えるような思いをすることもある。
四千年前の舌状台地の人々も、めっきりと数が減ってきた貴重なウサギかタヌキの獲物を両手に下げて、台地の端から言い難い畏敬と不気味な思いで、沈む黒い夕日を、昇る死の色の月を眺めたに違いない。互いの顔だけを見つめ合って甘ったるい声を出している若い男女や、路上で近所の噂話に熱中している主婦たちや、ただ俯いて家路を急ぐだけの中年の男たちよりも、想像上の四千年前の人たちの方がいかに意識の奥で親しいことだろう。
われわれの自然的および文明的気候もじわじわと変り始め、すでに頭上のオゾン層には幾つも大きな穴があいている。
予め町役場の遺跡係に立ち寄ったとき、係員が断言したのも、そこで渡されたパンフレット類に明記されてあったのも、組み石のひとつひとつが墓で遺跡全体は共同墓地だったという。骨は出てこないが、組み石の下から動物の残存脂肪反応が検出されているそうだ。
専門家たちはそろってそう考えているらしい。だがたとえそうだとしても、なぜ共同墓地の墓の並びがこのように正確な同心円の形になっているのか。共同墓地という余りに地上的な見方考え方に、私の実感は同調しない。この遺跡のリアリティーはその全体の配列の形にある、墓というような実用性を超えたところに——と私の感覚は強く訴える。これは単なる共同墓地ではないはずだ。
この大湯環状列石は、「日時計組み石」と呼ばれる特別の組み石で有名である。組み石の環の内側に、ひときわ高く細長い棒石(高さ一メートル以上)が、周りを花弁状に敷き並べられた小さな石に囲まれて、ぽつんと孤立して直立している。ふたつの環状列石にそれぞれ一個だけ。環の中心にではなく、中心と円周との中間あたり。ふたつの列石で、その特別の石の位置が少し異っているが、その直立する石こそ私の意識下の思念の中で、発射台上のロケットのイメージがおのずから変形したものである。
「日時計」という俗称は大ざっぱな印象からそう名づけられたもので、実際に時計の用をなすほど直立石は高くない。だが「日時計」という呼び名、天文的なものに深くかかわるその印象は意外に正しいのではないか、と幾度も柵のまわりを回りながら次第に強くそう思われてきた。ここは冴えた空が身近な北方の地なのだ。湿気に浸されている関東地方以西とは異質の精神風土。
幸いよく晴れた正午過ぎ。太陽の位置を見定め、パンフレットの略地図でだいたいの方角を測ってみると、二本の直立石ともそれぞれの環の中心点から西北西の方向に立っている。つまり真西からやや北寄りの方向。西とは日没の方向だ。そして昼の長い夏場には太陽は真西より北に寄って沈むだろう、という程度の天文的常識は私でも持っている。さらに昼が最も長い夏至のタ暮に、夕日は最も北に寄って沈むはずだろう。
とすれば、環の中心と直立石(日時計石)が指し示す西北西という方向は、夏至の日の日没の方向でなければならない。
町役場で係員が「共同墓地ですよ。それ以上何の意味もありませんね」と断言したあと、「ではあのひときわ高い日時計石は何ですか」と私は尋ねた。すると係員は言下にこう答えたものだ。
「酋長の墓じゃないですか」
その答えを思い出して、私は笑いかつ怒る。何という貧しく地上的な考え方。そして天体への関心も知識もあるはずのない濛昧な原始人としか縄文人たちを想像できない傲慢さ。
少しでも虚心に環の中のあの特別の直立石を眺めれば、それが意味もない位置に意味もなく立てられているはずがない、と気づかない方が濛昧ではあるまいか。ネアンデルタール人以後、人類の脳容量は変っていない。これを共同墓地としか考えられない専門家たちより、この環状列石を構想して西北西と意味ある方向に直立石を立てた縄文人のすぐれた個体の意識の方が、迫りくる不安とともに鋭敏になって、頭上へ、空へ、宇宙へと大きく開かれていたのだ。大きな同心円というシンプルな形そのものが、天体の運行の観測から導かれた世界そのものの最も基本的な形のように思われる。何という広く全体的な意識と大胆な抽象能力。
西北西という方向が、月の出と入りあるいは肉眼で最も明るく見える金星の季節毎の位置の変化などと、どう関係があるのか、私の天文知識は常識以上を出ないけれども、まだ発掘されてない第三、第四の基点のようなものが見つかれば、夏至の日没以外の天文知識を北方の縄文人たちが持っていたことも、いずれ明らかにされるかもしれない。
そんなことを考えているうちに、眼前の遺跡は単に特殊な石の並べ方の跡ではなくて、一種の天体図の趣を帯びてくる。これは四千年前の祖先たちの宇宙のイメージであり、彼ら自身の意識(無意識も含めた)の形なのだ、と。
気候は年毎に寒冷化し、植物も動物も人間も減ってゆき、世界は急速に悪くなってゆく。夏至の日から、太陽の運行は低く短く弱くなり夜は夜毎に暗く冷たくなるが、冬至の日から再び再生する太陽が果して一年前と同じに明るく暖かいだろうか。
四千年前のこの舌状台地の狩猟採集民たちが、どんな思い、どんな不安な眼差で、二本の直立石の先端を結んだ向こうの山の端に沈む夏至の夕日を眺めたか、惻々と身に迫って感じられてくるのだった。
いま東京の住民たちは、私が見る限りほとんど絶対に、道を歩きながら空を見上げない。自動車を運転している連中は見たくたって見られない。地下鉄に空はない。私は駅前のスーパーマーケットに夕食の材料を買いに行く往き還りに、ビニール袋を両手に下げて(ネギの先端などが突き出ていて)、夏ならば坂道の向こうに沈む夕日を、冬なら雑居ビルの上に昇る月を、立ちどまって眺める。
しばらく前から自動車の排気ガスで濁って湿気の多い東京の空では、夕日も満月も輸郭はぼやけ光は貧血しているが、手術後一年ほどまだ意識が浮遊状態に近かった秋の晴れた夕方、病院に注射に行った帰りの自宅近い坂道を下りながら、ちょうど正面に大きな夕日がくるめき落ちるのを異様にはっきりと見たことがあった。日頃のように濁って赤くなかった。強烈な黄色な球体が世田谷の住宅街の上で燃えたっていて、ほとんど金色に見えた。かなりの速さでその球体は回転していた。
これがあの太陽か、と足をとめて見つめるにつれて、中心から次第に黒くなってゆきやがて回転する黒い球体になった(決して日蝕ではない)。しかもその黒が黒曜石のように激しく輝いて、その輝きはほとんど魔的だった。まるで別の惑星上から別の太陽を眺めている気がして、そんな自分がこの自分ではないように気味悪い。無意識の底が剥き出しになったような異様な精神状態でやっと自宅まで戻ってくると、自宅の玄関の黒いドアの表面に、黒い太陽の残像が浮き出して回転しながら、皆既日蝕のコロナのように周りが妖しく光った。
そんなことはごく稀だが、前日雨か風が強かった日の夜、たまたま満月が不気味に青白く明る過ぎて、あんな巨大な物体が光りながら虚空を動いていることの気味悪さに、体の芯が冷えるような思いをすることもある。
四千年前の舌状台地の人々も、めっきりと数が減ってきた貴重なウサギかタヌキの獲物を両手に下げて、台地の端から言い難い畏敬と不気味な思いで、沈む黒い夕日を、昇る死の色の月を眺めたに違いない。互いの顔だけを見つめ合って甘ったるい声を出している若い男女や、路上で近所の噂話に熱中している主婦たちや、ただ俯いて家路を急ぐだけの中年の男たちよりも、想像上の四千年前の人たちの方がいかに意識の奥で親しいことだろう。
われわれの自然的および文明的気候もじわじわと変り始め、すでに頭上のオゾン層には幾つも大きな穴があいている。
「いずれの社会も、ひとつの同じ天空の下で人々の生死が繰り返され、そのなかで人々が恐れや希望とともに、さまざまなイメージを抱いて暮らしていた」
[#地から1字上げ]——G・S・ホーキンズ『宇宙へのマインドステップ』
環状列石に私が天文のにおいを嗅ぎとるのも、スーパーマーケット帰りの道での個人的経験のせいばかりではない。かねてから私は天文的な遺跡に親近感をもってきた。豪勢豪華な地上権力的な遺跡には意識の表面でしか感心しないけれど(それにしてもイラン南部で見た古代ペルシア帝国王都ペルセポリスの廃墟は壮麗だった)、天文的な遺跡にはたとえ写真だけでも、心の奥が懐しさで震える。とりわけイギリス南部の巨石遺跡ストーンヘンジ。
私はイギリスに行ったことがなく、実際にストーンヘンジを訪れてはいない。だがポランスキー監督の映画『テス』の最後の場面で、私の好きなアメリカの写真家リチャード・ミズラックの写真集の中で、その他数多くの写真であの壮大な遺跡の光景を目にする度に、私は確かにかつてそこに立っていたことがあり、直立させた二個の石の上に横石を載せた巨石の鳥居の間から、夏至の夜明けの太陽を、冬至の夜の月の出を見た、とどうしても思えてならない。
いかにクレージーに聞こえようとも、広漠たる平原の中に聳えたつ陰々と巨大な列石の写真を見つめていると、じわじわと私にはそう実感されてきて、時には狂おしくて泣きそうになる(ちなみに私は日常、滅多に涙をこぼさない)。
直径百メートルを越える円形の土溝の内側に、石灰土を詰めた三重の穴の環、さらにその内側に四重の列石の環。ストーンヘンジは超弩級環状列石である。そしてその幾重もの同心円構造の遺跡は、東北東の方角を主軸にして構成されている。列石中心部からその方向に、夏至の日の太陽が昇る。著名な考古天文学者G・S・ホーキンズ博士によると、地平線上の月の出入りをマークする目印の石もあり、日食と月食の日を予測することさえできたらしいという。深く天文的な構造物である。さらにストーンヘンジが現在の形に作られたのは、ほぼ紀元前二千年(四千年前)。「大湯環状列石」とほとんど同時代だ。
ただし使われた石の大きさが格段に違う。ストーンヘンジ中心部の最大の組み石の高さは七メートル。重量は何十トンもあろう。その大石は三十キロ北方の丘から運ばれたといわれ、全体が作られるのに恐らく何百年も要しただろうというが、それだけの大事業を、どんな人たちがどんな思いに駆られて行ったのか。その点で専門家たちも困惑するのだ。ストーンヘンジをはじめスコットランド、アイルランドにも多数残っている天文的な環状列石を作った新石器時代後期の人たちの顔が見えないのである。
ホーキンズ博士は「原ヨーロッパ人」あるいは、かつてウェセックスと呼ばれた南部イングランドに墳墓が多くあることから、「ウェセックス族」と呼んでいるが、彼らは文字を持たなかったので文書類は一切なく、民間伝承も途絶えてしまっていて、歴史的には無言無顔の民なのだ。ケルト族について記録を残したローマ人に相当する存在が、彼らにはなかった。ケルト族のブリテン諸島移住は紀元前五百年以後、その千年ほど前にストーンヘンジは放棄されていたから、ケルト族とは全く別の種族である。
ストーンヘンジ人たちの意識と観念は、巨石の大いなる沈黙の言葉を通して知りうるのみ。その幾重ものシンプルな同心円の形、地平線上の太陽と月の出入りの位置を指し示すその構成だけである。だが彼らが天の光に、太陽の熱い光と月の冷たい光に、あるいはその運行の秩序と調和に、憑かれたように親しかった心情が、私にはわかる。
すぐれた農耕と牧畜の民だったケルト族と違って、彼らは森と荒野の人だったろう。俯いて地面を耕し羊と牛の群を追っていた農牧民ではなく、空を、夕日を、月と星々を常に見上げていた最後の狩猟採集民たち。北方性の疎林と原野。そして気候と文化の大きな変動の時代。終末的な翳り濃い不安。石という確かな物体のシンプルな配列に、天の光の秩序を封じこめることによって、動揺する個人的集団的アイデンティティーを確かめ直そうとしたほとんど偏執的な試み。
シべリアに果して天文的な環状列石の遺跡が多いかどうかは知らないが、ユーラシア大陸高緯度地方の両端の島に、ほぼ同時期の同質の遺跡が残っていることが、私には偶然の一致とは思えない。澄んだ北方性高気圧の空が近かった人たち。ユーラシア大陸北方に連なっていたかもしれない狩猟民たちの鋭敏な|宇宙的感覚《コズミック・センス》の見えない|帯《ベルト》。
(宇宙ロケットの原理を最初に考え出したのも、ロシアのツィオルコフスキーだ)
母方の東北の血を通じて、いまも東京の住宅地でタ日を、月を眺めて血が騒ぐ私のような人間があり、同じ血が『銀河鉄道の夜』の詩人も生んだであろう。
私は紀元後二千年に間近な東京の私鉄沿線で日暮毎にスーパーマーケットに買物に行っている、というより紀元前二千年の日本列島東北の舌状台地で、ブリテン島南部の平原で、環状列石の天文図形を作るために毎日石を運んでいる、と想像する方が透きとおるように冴えた現実感を覚える。
縄文人の顔はおぼろに思い浮かぶとしても、ストーンヘンジ人の顔は見えない。顔のない私が石を運びながら、丘と荒野の果てに沈む夕日を見つめている。昇る銀色の月を眺めている。明日知れぬ底深い不念の思いと、この私にはすでに薄れかけた聖なる感情とともに。
[#地から1字上げ]——G・S・ホーキンズ『宇宙へのマインドステップ』
環状列石に私が天文のにおいを嗅ぎとるのも、スーパーマーケット帰りの道での個人的経験のせいばかりではない。かねてから私は天文的な遺跡に親近感をもってきた。豪勢豪華な地上権力的な遺跡には意識の表面でしか感心しないけれど(それにしてもイラン南部で見た古代ペルシア帝国王都ペルセポリスの廃墟は壮麗だった)、天文的な遺跡にはたとえ写真だけでも、心の奥が懐しさで震える。とりわけイギリス南部の巨石遺跡ストーンヘンジ。
私はイギリスに行ったことがなく、実際にストーンヘンジを訪れてはいない。だがポランスキー監督の映画『テス』の最後の場面で、私の好きなアメリカの写真家リチャード・ミズラックの写真集の中で、その他数多くの写真であの壮大な遺跡の光景を目にする度に、私は確かにかつてそこに立っていたことがあり、直立させた二個の石の上に横石を載せた巨石の鳥居の間から、夏至の夜明けの太陽を、冬至の夜の月の出を見た、とどうしても思えてならない。
いかにクレージーに聞こえようとも、広漠たる平原の中に聳えたつ陰々と巨大な列石の写真を見つめていると、じわじわと私にはそう実感されてきて、時には狂おしくて泣きそうになる(ちなみに私は日常、滅多に涙をこぼさない)。
直径百メートルを越える円形の土溝の内側に、石灰土を詰めた三重の穴の環、さらにその内側に四重の列石の環。ストーンヘンジは超弩級環状列石である。そしてその幾重もの同心円構造の遺跡は、東北東の方角を主軸にして構成されている。列石中心部からその方向に、夏至の日の太陽が昇る。著名な考古天文学者G・S・ホーキンズ博士によると、地平線上の月の出入りをマークする目印の石もあり、日食と月食の日を予測することさえできたらしいという。深く天文的な構造物である。さらにストーンヘンジが現在の形に作られたのは、ほぼ紀元前二千年(四千年前)。「大湯環状列石」とほとんど同時代だ。
ただし使われた石の大きさが格段に違う。ストーンヘンジ中心部の最大の組み石の高さは七メートル。重量は何十トンもあろう。その大石は三十キロ北方の丘から運ばれたといわれ、全体が作られるのに恐らく何百年も要しただろうというが、それだけの大事業を、どんな人たちがどんな思いに駆られて行ったのか。その点で専門家たちも困惑するのだ。ストーンヘンジをはじめスコットランド、アイルランドにも多数残っている天文的な環状列石を作った新石器時代後期の人たちの顔が見えないのである。
ホーキンズ博士は「原ヨーロッパ人」あるいは、かつてウェセックスと呼ばれた南部イングランドに墳墓が多くあることから、「ウェセックス族」と呼んでいるが、彼らは文字を持たなかったので文書類は一切なく、民間伝承も途絶えてしまっていて、歴史的には無言無顔の民なのだ。ケルト族について記録を残したローマ人に相当する存在が、彼らにはなかった。ケルト族のブリテン諸島移住は紀元前五百年以後、その千年ほど前にストーンヘンジは放棄されていたから、ケルト族とは全く別の種族である。
ストーンヘンジ人たちの意識と観念は、巨石の大いなる沈黙の言葉を通して知りうるのみ。その幾重ものシンプルな同心円の形、地平線上の太陽と月の出入りの位置を指し示すその構成だけである。だが彼らが天の光に、太陽の熱い光と月の冷たい光に、あるいはその運行の秩序と調和に、憑かれたように親しかった心情が、私にはわかる。
すぐれた農耕と牧畜の民だったケルト族と違って、彼らは森と荒野の人だったろう。俯いて地面を耕し羊と牛の群を追っていた農牧民ではなく、空を、夕日を、月と星々を常に見上げていた最後の狩猟採集民たち。北方性の疎林と原野。そして気候と文化の大きな変動の時代。終末的な翳り濃い不安。石という確かな物体のシンプルな配列に、天の光の秩序を封じこめることによって、動揺する個人的集団的アイデンティティーを確かめ直そうとしたほとんど偏執的な試み。
シべリアに果して天文的な環状列石の遺跡が多いかどうかは知らないが、ユーラシア大陸高緯度地方の両端の島に、ほぼ同時期の同質の遺跡が残っていることが、私には偶然の一致とは思えない。澄んだ北方性高気圧の空が近かった人たち。ユーラシア大陸北方に連なっていたかもしれない狩猟民たちの鋭敏な|宇宙的感覚《コズミック・センス》の見えない|帯《ベルト》。
(宇宙ロケットの原理を最初に考え出したのも、ロシアのツィオルコフスキーだ)
母方の東北の血を通じて、いまも東京の住宅地でタ日を、月を眺めて血が騒ぐ私のような人間があり、同じ血が『銀河鉄道の夜』の詩人も生んだであろう。
私は紀元後二千年に間近な東京の私鉄沿線で日暮毎にスーパーマーケットに買物に行っている、というより紀元前二千年の日本列島東北の舌状台地で、ブリテン島南部の平原で、環状列石の天文図形を作るために毎日石を運んでいる、と想像する方が透きとおるように冴えた現実感を覚える。
縄文人の顔はおぼろに思い浮かぶとしても、ストーンヘンジ人の顔は見えない。顔のない私が石を運びながら、丘と荒野の果てに沈む夕日を見つめている。昇る銀色の月を眺めている。明日知れぬ底深い不念の思いと、この私にはすでに薄れかけた聖なる感情とともに。