夫婦関係でも親子関係でも、また、嫁姑の関係でも、労使関係でも、友人関係でも、相手は人間である。この相手を知り、自分を知ることが、人との関係を保つ基本ではないかと、わたしは思う。
つまり「人間とは何か」を知ることが、相手を知り、自分を知ることになると思う。人間とは、先ず第一に、甚《はなは》だ自己中心的な存在だということを、わたしたちは忘れてはならない。
わたしはよく例に出すのだが、もしここに、自分の大事にしている皿《さら》なり茶碗《ちやわん》なりがあるとする。それを他者が割った時、わたしたちはその粗相を咎《とが》めて怒る。たとえそれが愛する自分の子であったとしても。
「どうしてそんなに不注意なのか」
と、いわずにはいられない。しかし、もしその同じものを自分が損なったとしても、わたしたちは決して、他の人を叱《しか》るようには自分を叱らない。咎め立てもしない。
(ああしまった、惜しいことをした)
と内心思っても、鋭い語調で自分自身を責めはしない。
同じことをしながら、自分自身のしたことなら許すことができ、自分以外の者のしたことなら許すことができない。これがわたしたち人間の、誰《だれ》もが持つところの真実の姿なのである。自分のしたことと、他人のしたことが同じであっても、そこに軽重ができ、大小ができる。これをわたしは「人は二つの物差しを持つ」と、常にいっているのだが、これは考えてみると、全く許し難い根性だといわなければならない。単に、二つの物差しを持っているだけではなく、これが、夫、わが子、しゅうと、他人、友人、実の親などと、相手によって、わたしたちの物差しは適当に変わるのである。
とにかく、その根本において、自分の犯した過失あるいは罪は、非常に小さなことにしか過ぎないのだ。が、同じことを自分の嫌《きら》いな人がした場合は、「大変悪いこと」となってしまうのだ。
もし、ある商人が、客によってちがう秤《はかり》を持っていて、同じ一キロの物を売るのに、ある客からは五〇〇グラムの代金しか受けとらず、ある客からは五キロもの代金を要求するとしたらどうであろう。これがもし明るみに出たとしたら、誰しもこれを悪徳商人として指弾するであろう。が、この悪徳商人の姿が、とりもなおさず、わたしたちの人々に対する評価の実態ではないだろうか。
したがって、自分が人にした親切や善行は、はなはだ大きなことに思われるが、同じことを他の人がしているのを見ても、
(あんなことは、人間なら誰でもすることだ。大したことではない)
と、過小評価する。
これが、自分中心の人間の姿なのだ。わたしたちが毎日つきあう人々は、みなこうした幾つかの秤を持って生きている人々なのだ。そして、これこそは忘れてはならないもっとも重大なことだが、この自分自身が、その一人だということである。こう見てみると、人間同士がつきあうということは、実に大変なことだ。自分がしてやった親切は、相手は大したこととは思わず、自分のした小さなつもりの過失が、相手には大きなものとなる。すべての人間がそう思い合っている。これはもう何とも大変な、厄介《やつかい》千万なことだ。
つまり「人間とは何か」を知ることが、相手を知り、自分を知ることになると思う。人間とは、先ず第一に、甚《はなは》だ自己中心的な存在だということを、わたしたちは忘れてはならない。
わたしはよく例に出すのだが、もしここに、自分の大事にしている皿《さら》なり茶碗《ちやわん》なりがあるとする。それを他者が割った時、わたしたちはその粗相を咎《とが》めて怒る。たとえそれが愛する自分の子であったとしても。
「どうしてそんなに不注意なのか」
と、いわずにはいられない。しかし、もしその同じものを自分が損なったとしても、わたしたちは決して、他の人を叱《しか》るようには自分を叱らない。咎め立てもしない。
(ああしまった、惜しいことをした)
と内心思っても、鋭い語調で自分自身を責めはしない。
同じことをしながら、自分自身のしたことなら許すことができ、自分以外の者のしたことなら許すことができない。これがわたしたち人間の、誰《だれ》もが持つところの真実の姿なのである。自分のしたことと、他人のしたことが同じであっても、そこに軽重ができ、大小ができる。これをわたしは「人は二つの物差しを持つ」と、常にいっているのだが、これは考えてみると、全く許し難い根性だといわなければならない。単に、二つの物差しを持っているだけではなく、これが、夫、わが子、しゅうと、他人、友人、実の親などと、相手によって、わたしたちの物差しは適当に変わるのである。
とにかく、その根本において、自分の犯した過失あるいは罪は、非常に小さなことにしか過ぎないのだ。が、同じことを自分の嫌《きら》いな人がした場合は、「大変悪いこと」となってしまうのだ。
もし、ある商人が、客によってちがう秤《はかり》を持っていて、同じ一キロの物を売るのに、ある客からは五〇〇グラムの代金しか受けとらず、ある客からは五キロもの代金を要求するとしたらどうであろう。これがもし明るみに出たとしたら、誰しもこれを悪徳商人として指弾するであろう。が、この悪徳商人の姿が、とりもなおさず、わたしたちの人々に対する評価の実態ではないだろうか。
したがって、自分が人にした親切や善行は、はなはだ大きなことに思われるが、同じことを他の人がしているのを見ても、
(あんなことは、人間なら誰でもすることだ。大したことではない)
と、過小評価する。
これが、自分中心の人間の姿なのだ。わたしたちが毎日つきあう人々は、みなこうした幾つかの秤を持って生きている人々なのだ。そして、これこそは忘れてはならないもっとも重大なことだが、この自分自身が、その一人だということである。こう見てみると、人間同士がつきあうということは、実に大変なことだ。自分がしてやった親切は、相手は大したこととは思わず、自分のした小さなつもりの過失が、相手には大きなものとなる。すべての人間がそう思い合っている。これはもう何とも大変な、厄介《やつかい》千万なことだ。