こうした自己中心な人間の常として、一番おちいりやすい恐ろしいことは、この世の憲法は自分であるということである。自分のしていることが正しい。誰もが大体そう思っている。程度の差こそあれ、これがわたしたち人間の基本的な体質である。
たとえば、怠惰な者は勤勉な者が傍《そば》にいるのを甚だしく嫌う。同期に入社した新入社員が机を並べるとする。一方は当然のこととして、遅刻することなく出勤し、タバコも喫《の》まずに勤務する。一方は朝寝をし、仕事にもあまり身が入らず適当にやって行きたい。こうした時、怠惰な者は、勤勉な者が何となく嫌《いや》な奴《やつ》になってくる。人間はそういうものなのだ。相手が尊敬すべき美点を持っていても、必ずしも尊敬するとは限らない。女性のわたしたちは、美しく魅力的な同性が傍にいることをうれしく思わないし、余りに正し過ぎる人を、決して喜びはしない。
「今日は少し怠けましょうよ」
といった時、たとえ怠けることが悪いとしても、直ちに賛成してくれる人を、わたしたちは好む。もし一人だけ、黙々と自分のなすべきことをしている人間がいるとすると、たちまちその人は「いやな人」と極《き》めつけられるのだ。
趣味の悪い人は、趣味のいい人を嫌う。品行方正でない人は、品行方正の人を嫌う。近頃は性的な生活が乱れて来て、
「処女は時代遅れだ」
などと、ささやかれているという。これは非処女の処女に対する侮蔑挑戦《ぶべつちようせん》の言葉にすぎない。
とにかく、自分と同意見でない者を嫌うということは、つまりは自分が憲法なのだということなのだ。わたしたちは、人とつきあう時に、相手がみな各々憲法を持っていることを知らなければならない。そして自分もまた、自分の憲法を持って、人を評価したり、裁いたりしているという事実を、はっきりと知らなければならない。
要するに、わたしたち人間の人への評価とか好き嫌いとか、善し悪しとかは、実にでたらめ極まるもので、決して絶対的ではないということ、これを謙遜《けんそん》に認めなければならない。
もう一つ、忘れてならないことが、わたしたち人間にはある。それは、わたしたち人間は誰一人として、まったく正しい人間はいないということである。すなわち、わたしたち人間は罪を犯さずには生きていけない存在だということである。
こういうと、「自分は罪を犯してはいない。人にうしろ指をさされるようなことをしてはいない」という人がいる。しかし、生まれてから死ぬまでの間に、人を傷つけることなく生き得る人がいるだろうか。人を傷つけるというのは、肉体への傷害と同じく、大きな罪である。いや、肉体の傷は回復し得ても、心の傷はいつまでも癒《い》えないことがある。時にはその傷によって、人は生きる力を失い、死を選ぶことさえある。自分は罪を犯していないなどと思うほど、わたしたちは傲慢《ごうまん》であってはならないのではないか。
たとえば、怠惰な者は勤勉な者が傍《そば》にいるのを甚だしく嫌う。同期に入社した新入社員が机を並べるとする。一方は当然のこととして、遅刻することなく出勤し、タバコも喫《の》まずに勤務する。一方は朝寝をし、仕事にもあまり身が入らず適当にやって行きたい。こうした時、怠惰な者は、勤勉な者が何となく嫌《いや》な奴《やつ》になってくる。人間はそういうものなのだ。相手が尊敬すべき美点を持っていても、必ずしも尊敬するとは限らない。女性のわたしたちは、美しく魅力的な同性が傍にいることをうれしく思わないし、余りに正し過ぎる人を、決して喜びはしない。
「今日は少し怠けましょうよ」
といった時、たとえ怠けることが悪いとしても、直ちに賛成してくれる人を、わたしたちは好む。もし一人だけ、黙々と自分のなすべきことをしている人間がいるとすると、たちまちその人は「いやな人」と極《き》めつけられるのだ。
趣味の悪い人は、趣味のいい人を嫌う。品行方正でない人は、品行方正の人を嫌う。近頃は性的な生活が乱れて来て、
「処女は時代遅れだ」
などと、ささやかれているという。これは非処女の処女に対する侮蔑挑戦《ぶべつちようせん》の言葉にすぎない。
とにかく、自分と同意見でない者を嫌うということは、つまりは自分が憲法なのだということなのだ。わたしたちは、人とつきあう時に、相手がみな各々憲法を持っていることを知らなければならない。そして自分もまた、自分の憲法を持って、人を評価したり、裁いたりしているという事実を、はっきりと知らなければならない。
要するに、わたしたち人間の人への評価とか好き嫌いとか、善し悪しとかは、実にでたらめ極まるもので、決して絶対的ではないということ、これを謙遜《けんそん》に認めなければならない。
もう一つ、忘れてならないことが、わたしたち人間にはある。それは、わたしたち人間は誰一人として、まったく正しい人間はいないということである。すなわち、わたしたち人間は罪を犯さずには生きていけない存在だということである。
こういうと、「自分は罪を犯してはいない。人にうしろ指をさされるようなことをしてはいない」という人がいる。しかし、生まれてから死ぬまでの間に、人を傷つけることなく生き得る人がいるだろうか。人を傷つけるというのは、肉体への傷害と同じく、大きな罪である。いや、肉体の傷は回復し得ても、心の傷はいつまでも癒《い》えないことがある。時にはその傷によって、人は生きる力を失い、死を選ぶことさえある。自分は罪を犯していないなどと思うほど、わたしたちは傲慢《ごうまん》であってはならないのではないか。