次に、「人間とは何か」に、欠かすことのできないものは、人は人を愛することのできない存在だということである。好きという感情と、愛とを人はしばしば混同する。愛とは本来、そんな感情的なものではない。聖書には、愛とは耐えることであり、忍ぶことだと書いてある。寛容でねたむことをしないことだとも書いてある。また、たかぶらず、自分の利益を求めず、恨みを抱かず、すべてを信じ、すべてを望むことだとも述べてある。こうした愛は、本来わたしたちにはない。その、ないと認めるところから、自分と他の人への理解が深まる。
結局、人間は以上のような最大公約数を持って生きている。こうした自己中心の、愛のない人間同士が、あえて人間関係を持続していくというのは、大変な大事業といわなければならない。大きなビルを建てるよりも、はるかに難事なのだ。
しかしわたしたちは、孤島にでも行かない限り、人とつきあっていかなければならない。そこには、甘えのない一つの決意が必要だ。相手が夫であろうと姑であろうと、上司であろうと友であろうと、その相手がいかなる場にあるにせよ、お互い自己中心な人間であることに変わりはない。
この人間同士が、よい人間関係を持続するには一体どうしたらよいのか、わたしはここで、昔から黄金の戒律といわれている聖書の言葉を引いてみたい。それは次の言葉だ。
「自分にして欲しいように、人にもしてやりなさい」
つまり、相手が何をしてほしいかということを、洞察《どうさつ》する力がわたしたちには必要なのだ。たとえば、老人とつきあうには、その老人が最も望んでいるものを知ることである。これは技術の問題でなくて、真心の問題である。
老人は、自分がもう、この世には用のないもののように考えている。老人は、一部を除いて、ほとんどが現役から退いている。経済的な力はない。わたしたち人間は、ともすれば金銭という目に見えるものを得ることのできない人を、軽んずる。が、老人たちは、ついこの間まで、その場その場にあってその社会を担って来た人たちなのだ。それが男であっても、女であっても。で、わたしたち夫婦は、お互いの母や、知り合いの老人と会った時は、先ずその人の昔の話を聞く。これは、若い人からは決して聞き出すことのできぬ、貴重な生きた歴史である。書物では得られない、肌から肌に伝わる話は尊いものだ。同じ話が幾度繰り返されてもかまわない。それはおなじみの講談や落語を幾度も聞くのと同じ味わいがある。聞いて、その業績や功績を賞讃する。
最近会った老人たちは、十勝岳大爆発にあった人たちであった。押しよせる山津波に多くの人命がうばわれ、火山灰と泥流に毒された農地に、五十年後の今もなお様々な苦労をして生きているのだ。しかしこの体験を、孫も息子も聞いてはくれないという。もったいない話である。
また夫婦の関係を持続するには、何がもっとも大事かといえば、お互いがお互いを心から喜び、尊重し合うということに尽きるだろう。わたしの夫三浦は、わたしのようなものを、「綾子はかわいい女だ」と毎日必ずいってくれる。
「寝顔がかわいくてならない」とか「そのセーターを着た背中が、何ともおさなくてかわいい」とか、日に何回となくいう。女にとって、かわいいといわれることは、どんなにうれしいことだろう。夫婦は空気のような存在だとか称して、美容室に行ってこようが、新しいブラウスを着ようが、何の関心も示さない夫が、この世にはたくさんいる。それどころか、
「今更、そんな年をして、何を着ても無駄《むだ》だよ」
という夫もいる。これではいかに長年つれ添ったからといっても、真にいい関係を持続しているとはいい難い。
妻もまた夫を、心から尊敬すべきではないか。わたしは、尊敬すべき夫を持っているからでもあるが、夫がうたえば、
「こんなに心に沁《し》みる歌はないわ」
と、心からほめるし、何かいい意見をいわれると、
「そこまではわたし、考えたことはないわ。さすがはあなたねえ」
と尊敬の言葉を捧《ささ》げる。毎日顔をつき合わせていればこそ、夫婦はお互いの中に、日々新しい発見をすべきだと、わたしは信じている。また、夫婦の場合は、特にタブーの言葉というものがある。お互いがお互いの肉親についてけなされるのは、自分をけなされるよりもいやなものだ。陰口をいわれるのもいやなものだ。だからわたしは、わたしの母や兄弟に、三浦の家族について、ほめる言葉以外語ったことはない。そしてこれは、死ぬまで守りつづけようと決意している。むろん、三浦自身のことを、わたしは誰に向かっても、悪くいったことはない。
結局、人間は以上のような最大公約数を持って生きている。こうした自己中心の、愛のない人間同士が、あえて人間関係を持続していくというのは、大変な大事業といわなければならない。大きなビルを建てるよりも、はるかに難事なのだ。
しかしわたしたちは、孤島にでも行かない限り、人とつきあっていかなければならない。そこには、甘えのない一つの決意が必要だ。相手が夫であろうと姑であろうと、上司であろうと友であろうと、その相手がいかなる場にあるにせよ、お互い自己中心な人間であることに変わりはない。
この人間同士が、よい人間関係を持続するには一体どうしたらよいのか、わたしはここで、昔から黄金の戒律といわれている聖書の言葉を引いてみたい。それは次の言葉だ。
「自分にして欲しいように、人にもしてやりなさい」
つまり、相手が何をしてほしいかということを、洞察《どうさつ》する力がわたしたちには必要なのだ。たとえば、老人とつきあうには、その老人が最も望んでいるものを知ることである。これは技術の問題でなくて、真心の問題である。
老人は、自分がもう、この世には用のないもののように考えている。老人は、一部を除いて、ほとんどが現役から退いている。経済的な力はない。わたしたち人間は、ともすれば金銭という目に見えるものを得ることのできない人を、軽んずる。が、老人たちは、ついこの間まで、その場その場にあってその社会を担って来た人たちなのだ。それが男であっても、女であっても。で、わたしたち夫婦は、お互いの母や、知り合いの老人と会った時は、先ずその人の昔の話を聞く。これは、若い人からは決して聞き出すことのできぬ、貴重な生きた歴史である。書物では得られない、肌から肌に伝わる話は尊いものだ。同じ話が幾度繰り返されてもかまわない。それはおなじみの講談や落語を幾度も聞くのと同じ味わいがある。聞いて、その業績や功績を賞讃する。
最近会った老人たちは、十勝岳大爆発にあった人たちであった。押しよせる山津波に多くの人命がうばわれ、火山灰と泥流に毒された農地に、五十年後の今もなお様々な苦労をして生きているのだ。しかしこの体験を、孫も息子も聞いてはくれないという。もったいない話である。
また夫婦の関係を持続するには、何がもっとも大事かといえば、お互いがお互いを心から喜び、尊重し合うということに尽きるだろう。わたしの夫三浦は、わたしのようなものを、「綾子はかわいい女だ」と毎日必ずいってくれる。
「寝顔がかわいくてならない」とか「そのセーターを着た背中が、何ともおさなくてかわいい」とか、日に何回となくいう。女にとって、かわいいといわれることは、どんなにうれしいことだろう。夫婦は空気のような存在だとか称して、美容室に行ってこようが、新しいブラウスを着ようが、何の関心も示さない夫が、この世にはたくさんいる。それどころか、
「今更、そんな年をして、何を着ても無駄《むだ》だよ」
という夫もいる。これではいかに長年つれ添ったからといっても、真にいい関係を持続しているとはいい難い。
妻もまた夫を、心から尊敬すべきではないか。わたしは、尊敬すべき夫を持っているからでもあるが、夫がうたえば、
「こんなに心に沁《し》みる歌はないわ」
と、心からほめるし、何かいい意見をいわれると、
「そこまではわたし、考えたことはないわ。さすがはあなたねえ」
と尊敬の言葉を捧《ささ》げる。毎日顔をつき合わせていればこそ、夫婦はお互いの中に、日々新しい発見をすべきだと、わたしは信じている。また、夫婦の場合は、特にタブーの言葉というものがある。お互いがお互いの肉親についてけなされるのは、自分をけなされるよりもいやなものだ。陰口をいわれるのもいやなものだ。だからわたしは、わたしの母や兄弟に、三浦の家族について、ほめる言葉以外語ったことはない。そしてこれは、死ぬまで守りつづけようと決意している。むろん、三浦自身のことを、わたしは誰に向かっても、悪くいったことはない。