本や色紙《しきし》に、サインを求められると、私はよく聖書のことばを引用する。わけても、
「与うるは受くるより幸いなり」
ということばを書かせてもらう。
ところで、私のところに毎日のように読者から手紙がくる。多い日は三十通もくる。ほとんどがまじめな相談なのだ。
その一つ一つを読みながら、私は、なんと人間の世にはこうも悩みが多いのだろうと、嘆かずにはいられない。酒乱の父、兄の家出、夫の浮気、長期療養等々、並べたてればきりがない。どの手紙も、深い同情を覚えずにはいられないものばかりである。
だがその中で、私が歯ぎしりをしたいほど情けなく思うことがある。それは高校生や高校を出たばかりの女性からくる、恋愛についての悩みである。いや、正確には恋愛というより、性に対する誤った考えから生ずる悩みである。
「男の人を好きになった。わたしはその人にからだを許した」
という手紙のなんと多いことであろう。
「恋愛とは、好きな人に肉体を捧《ささ》げることだと思っています」
などと書いてあるのを見ると、そばにいたらお尻《しり》をひっぱたいてやるのにと、腹が立つ。いったい、いつからこんな風潮になってしまったのだろう。
無論、十人が十人、こんなばかなまねはしていないと思うが、なんと若い女性は、男を知らな過ぎるのだろう。
男というものは、愛していなくても手をにぎることもできれば、女性の肉体をむさぼることもできる。しかし、全人格的に恋愛をしている男性ならば、決して軽々しくその女性に手をふれることができないはずである。私はよく若い女の人たちにいう。
「彼があなたの手をにぎったのは、それはあなたの手だからにぎったのではないのですよ。ただそこに、偶然あなたの手があったからにぎっただけなのです。A子でもB子でも、C子でもD子でも、男にとっては同じだということもあるのですよ」
極論のようだが、事実である。男は情欲によって女を抱くことが多いのだ。A子でもB子でもかまわないと思っている男に、なぜ若い女性は、やすやすとそのからだを捧げてしまうのだろう。
「わたしが彼を好きなのだから、それでいいではないか」
と、あるいはひらきなおって、あなたはいうかもしれない。しかし、好きという感情だけでは、それはまことに儚《はかな》く、うつろいやすいものではないだろうか。たしかに好きだと思っていたのに、いつのまにかこんなにも憎んでいる、ということもある。私は、好きなだけの感情を、決して恋愛だなどとは認めない人間である。
恋愛とは、全人格的なものでなければならない。すなわち、意志、理性、感情の、美しく深く統一された姿でなければならない。私は相手の男性にも、それを要求する。少なくとも、強い意志と、輝く知性を欠いた、単なる「好き好き」という感情だけでは、ごめんをこうむる。そして全人格的な恋愛をする男性は、そう簡単に肉体を求めないことも私は知っている。
若いあなたに私はいう。あなたは若い獣のえじきになってはいけない。
「与うるは受くるより幸いなり」
と私は書くが、決してこれは、肉体のことをいっているのではない。貧しい人には暖かい心を、悲しんでいる人には親身《しんみ》な涙を、疲れている人には慰めのことばを与えてあげてくださいとの願いをこめて、私は書いているのだ。
情欲を愛とすりかえて近づいてくる男に、まちがってもやすやすとそのからだを与えてはならないと、切実に私は思う。