清き水を飲むべし
なんとも言いようのない手紙が、再々若い人、とくに女性から寄せられてくる。それは、恋愛すなわち肉体関係と思いこんでいる人たちからの手紙なのである。思いこんでいるだけならまだ問題はない。が、それを実行に移してしまったために傷つき、悩み苦しんで、どうしたらいいかと訴えてくるのである。
どうしたらいいかと言われても、いったいどう答えていいのか、もどかしくも、やりきれない思いになるばかりである。
戦前の、表現の自由のない恐ろしい時代を知っているわたしには、今の時代はまったくありがたいと思う。当時は、天皇制のことなどうかつに言おうものなら、たちまち投獄された。性の表現もきびしく制限された。
戦後は、それらの制限から解放された。思想の自由には、いまだに根深い不当な扱いはあるが、性の表現はまったく自由になった。しかし、その性の表現の自由がわたしたちに幸いしているかとなると、これまた手放しでは喜べない状況にあるのではないだろうか。
極端な商業主義と結びついた、行くところを知らぬ性的刺激の追求、無責任な大人たちの発言、そうした渦《うず》のなかで、どうしたら若い人たちがほんとうのものを発見し、かけがえのない命を真実に生きて行くことができるのであろう。
わたしは時どき、現代は捨て子の時代ではないかと思うことがある。教育が盛んになっているように見えて、なにかが足りないのだ。性教育もまさにその一つである。もう少し大人たちがまじめに自分のこどもたちと話し合うならば、肉体関係イコール恋愛などと思いこみ、みすみす苦しむことはなくなるのではないか。
いや、もうこんなことを言っても、はじまらないのかもしれない。著名な先生からして、
「体をゆるしたくらいで苦しむやつは、どうせ生きて行くだけの力もない。そんなやつは死ねばいい」
と言い、
「傷つかないように、上手に遊ぶことよ。そこに二度とこない青春の喜びがあるじゃないの」
と教える。現実に苦しむ若者など、どうでもいいというのだ。まったく空恐ろしい話である。しかし、果たしてそれでいいのだろうか。上手に遊べば、果たしてそれだけで青春の喜びがあるのだろうか。人間はけっして肉体だけの存在ではない。
人それぞれの考えはあるにせよ、人間の真の喜びは、もっと高く、健全なところにあるのではないか。
わたしは若い人たちが、清くあってくれることを願わずにいられない。そして、命を受けつぐ清いホームを築き、より高い喜びを得てほしいと全能者の前に祈らずにはいられない。
レーニンも、乱れた男女関係を許容するような風潮を戒めて、
「いうまでもなくのどがかわけばうるおさねばならない。しかし正常な状態におかれた正常な人は、溝《みぞ》にとびこんで汚い水たまりの水を飲んだり、油でふちがベトベトになったコップで口をしめらすだろうか。恋愛においては、二人の生命が、つながり、結びあうのだ」
と言ったというではないか。