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孤独のとなり08

时间: 2020-02-21    进入日语论坛
核心提示:結婚は人格と人格の結合である結婚生活の破れを訴えてくる読者が、相も変わらず多い。何も今に限ったことではないのだろうが、こ
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結婚は人格と人格の結合である

結婚生活の破れを訴えてくる読者が、相も変わらず多い。何も今に限ったことではないのだろうが、この頃特に多いのは、どうしたことだろう。
訴えてくる人の話を聞いて、いつも思うことは、余りにも安易な考えでスタートをしているということだ。「好きになった」「肉体関係を結んだ」「それで結婚した」。こういうケースが実に多い。それも、好きになってから、結婚までがまことに短時日なのだ。中には、一年二年と時間をかける例もあるが、その間子供をおろさせたり、おろしたりといったこともあったりして、余りの軽率さに、やりきれない思いになる。
恋愛即肉体関係と思いこんでいる向きがやたらと多い。一体どこでそんなふうに覚えこんでしまったのであろう。それほどでなくても、
「好きで結婚したのに、夫は人が変わってしまった」
という言葉をよく聞かされる。嫌《きら》いな人と結婚せよとはむろんいわない。結婚の相手を選ぶのに、好き嫌いの感情を全く否定してしまうことは、乱暴というものであろう。
しかし、結婚生活はままごとではないのだ。恋人時代であれば、「長い足が好き」だったり、「深々とした目が好き」だったりで満足もできよう。が、一旦《いつたん》結婚してからは、それだけではどうにもならないのが現実なのだ。どなただったか、
「背が一七〇センチで、大学出のハンサム、というぐらいで、この人生の荒波を越えていけるのか。なめてはいけない」
といっておられた。全くである。いかに足が長くても、目が深々と美しくても、只《ただ》それだけでは、何が起きてくるかわからぬ人生を、真実に生きていくことはできない。わたしはいつか、牧師の説教でも聞いた。
「好きか嫌いかぐらいで、事を決定してはならない」と。
人生において、重大な結婚生活を始めるのに、単に好き嫌いというだけで相手を選んでは、余りにも軽率ではないか。
「わたしはあの人を愛している」
これまたよく聞く言葉である。が、この「愛」はやはり、「好き」という意味でしかない場合が多い。
愛の語には様々な種類がある。人類愛、父性愛、母性愛、友愛、恋愛等々。しかし、本来の高い意味の愛を問い直すことは、今の時代に必要なことではないだろうか。特に結婚を考える場合に必要であると私は思う。
本来の愛は、単なる感情や本能ではなく、意志なのである。有名な「愛の章」といわれる新約聖書のコリント人への第一の手紙をひらいてみよう。その第十三章には、次のように書いてある。
〈愛は寛容であり、愛は情深い。またねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える〉
これが聖書の示す愛である。わたしたち人間がこの愛に達することは至難ではあっても、この愛のあることを知り、これを目ざすことはできる。
わたしは若い方々が、この愛を知り、これについて語り合ってほしいと痛切に思う。特に結婚を前にしての交際において、そうあってほしいと願うものである。
そうすれば、好きだからといって、いきなり体を求め合う不作法なこともしないであろう。また、結婚してからも簡単に家庭を投げ出すこともないであろう。
くり返すが、結婚は単に「好き」というだけの感情で結びつくものであってはならない。人格と人格の結合なのである。安易な考えで、たちまち破たんに泣き苦しむことのないよう、わたしは心から「愛ある結婚」をすすめずにはいられないのである。
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