結婚してからでは遅すぎる
わたしはいま、『主婦の友』誌に「三浦綾子への手紙」という連載を持っている。つまり、わたしへの悩みごと相談の欄であり、そのほとんどが既婚者である。
実にたくさんの手紙が、毎月わたしの手もとによせられる。このほかにも、わたし個人への相談ごとの手紙も絶えない。独身で終わったならば、決して持たなかったであろう悩みもたくさんある。
その幾つかを紹介すると姑《しゆうとめ》と嫁の問題、小姑の問題、夫に根気がなく、幾度も職を変える問題、ギャンブルに生活費を注ぎこむ夫の問題、夫の酒乱に悩む問題、癌《がん》とかベーチェット病に夫がかかった問題、親子の断絶、娘や息子の非行化の問題、そして最も多いのが、信じ切っていた夫の浮気の問題である。
まだまだ悩みの種類は多いが、いま記憶に残るものを数え立てただけでも、これだけの種類がある。
考えてみると、結婚するということは、多かれ少なかれこうした悩みに直面するということなのかも知れない。むろん、独身には独身の悩みもないではないが、その悩みの複雑さは、やはり既婚者に多いのではないか。
わたしはこうした既婚者の悩みに会うたびに考えさせられるのだが、人々はどのように結婚を決意し、あるいはどのような動機で結婚するのかと思うのである。
よく若い人たちに、理想の結婚の相手を尋ねると、次のような答えが返って来る。
「絶対に大学出で、給料は十五万以上」
「背は一七〇センチ以上、体重は六〇キロぐらい」
「足の長い人」
「一緒にお酒を飲める人でなければ」
「目のきれいな人」
「係累の少ない人」
「やさしくて誠実な人」
いかにも若い人らしい選び方だとわたしは思う。
最後の、「やさしくて誠実な人」という願いを持つ人は別として、もう一度ここに書いた結婚の条件を読みなおしていただきたい。
そしてあなたは、どんな願いを持って結婚するのか、もう一度自分自身に問いなおしてみてほしい。
「金や財産のある人」
という項目を忘れない人もいる。だが、わたしたちが、結婚後に抱く悩みを、それらの条件が果たして解消してくれるか、どうか。姑と嫁の問題を、足が長いからといって、大学を出ているからといって、どれだけ解決する力があるだろう。もし解決する力があるならば、足の長い人を夫に持つ奥さんと、大学出の夫を持つ奥さんは、平和に生きていけることになる。
子供の非行化の問題を、たとい背が一七〇センチ以上あったとしても、二枚目のような顔をしていたとしても、解決できる力があるか、どうか。
すわ一大事という時に、ここに並べた条件をすべて兼ね備えた男性がいたとしても、一体どれほどの力になるというのだろう。
男が生涯《しようがい》の妻に女を選ぶ時にも、同様の軽率な過ちを犯す。
「美人であること」
「料理がうまいこと」
「健康なこと」
「短大出以上の学歴を持つこと」
などなどの条件が、果たして家庭に襲いかかる、先に述べたような数々の悩みに賢明に対処する力を与えてくれるものか、どうか。
わたしの母たちの年代の女性、即ち明治生まれの女たちは、もっとわたしたちより賢明であったような気がする。母として、妻として、そしてハウスキーパーとして、もっと事に処する知恵を持っていたような気がする。彼女たちの大方は、大学はおろか、中等教育も受けなかった。
そう考える時、人間の知恵や生きる力は、決して学校だけで育つものではないことがはっきりとわかる。
わたしたちは、少し人生を甘く見て生きているのではないか。人間の幸せということがどんなものか、じっくりと考えることもなくふわふわと生きているのではないか。だから、人生の一大事である自分の結婚に対しても、いい加減な態度しか持てないのではないか。そのいい加減な態度が、前記のような、結婚の条件を生み出すのだと思う。
いや、結婚の条件を考えるのならまだいい。今日会って、その日のうちに、昨日までは見知らなかった相手と、枕《まくら》を一つにするということさえ、珍しくないという。くだらぬ風潮に乗せられて、行きずりの男に体を与えたり、遊び半分に数多くの女と寝たりすることを、何か新しいことのように錯覚しているようなそんな生き方の中で、どうして自分の人生をじっくりと見つめる目が育つだろう。
そんな生き方に対して、結婚という現実は、きびしいしっぺ返しをもって報いるのである。結婚した二人の行く手に待っているのは軽薄に生きて来た、ひ弱な人間には到底乗り超えることのできない問題ばかりである。
つまり、わたしがいいたいのは、幸福な結婚というのは、結婚してからでは遅いということである。お互いが独身の時に、先ず自分自身の生活を、責任を持って築いていく。いってみれば、結婚生活の土台は、お互いの結婚前の生き方にかかっているといえる。
一人で生きている時に、いい加減に遊びまわっていて、どうして生涯の伴侶《はんりよ》を選ぶ確かな目が持てるだろう。いい加減な生き方が、どうして結婚した次の日から変わることができるだろう。本当の幸せということを考えたこともなくて、幸せな結婚がどうしてわかるだろう。
ところが、残念なことに大抵の人は結婚してから自分の過ちに気づくのである。結婚してからでは遅いということが、結婚しなければ気がつかない。そのことに若い人たちが今すぐにも気づいてほしいと、わたしは切に願う。
今からでも決して遅くはない。一生を意義深く生きるために、真の幸せとは何かを、真剣に考え、求めて行こうではないか。
聖書の言葉に、
「受けるより与えるほうが幸いである」
という言葉がある。わたしたち人間は、物でも金でも、他からもらったほうが得だと考えやすい。が、実は与えるほうが幸せだと聖書はいうのである。これは単に、物質だけのことではない。世には、いつも人が言葉をかけてくれなかった、やさしくしてくれなかった、親切にしてくれなかった、ほめてくれなかった、ねぎらってくれなかったと、人がしてくれなかったことだけを数え上げて生きている人がある。愚痴ばかりこぼして生きているのである。
あなたの生き方はどうか、人に会ったら、自分のほうから先に言葉をかけるか、挨拶《あいさつ》をするか、慰めて上げるか、励まして上げるか、感謝して上げるか。
いつも、何もしてくれないと考えるか。いつも何かして上げたいと考えるか。結婚生活の幸せは、こうした生きる姿勢|如何《いかん》によって大きく変わることを申し上げて、わたくしのささやかな提言としたい。