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孤独のとなり16

时间: 2020-02-23    进入日语论坛
核心提示:鋭く反省する必要結婚して何か月後であったろう。ある日わたしは、男友だちに街でばったり会った。「君、幸せ?」彼はわたしの顔
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鋭く反省する必要

結婚して何か月後であったろう。ある日わたしは、男友だちに街でばったり会った。
「君、幸せ?」
彼はわたしの顔をみるなりいった。
「ええ、幸せよ、とっても」
とわたしは答えたが、その時何となく、「幸せ」という言葉が、ひどくあいまいに使われているような気がしてならなかった。
考えてみると、幸福という言葉は確かにあいまいに使われているような気がする。それはなぜか。幸福の実体を捉《とら》えていないからではないか。幸福とは何か、と尋ねられて、人はどう答えることができるだろう。土に映る木の影は、この手にしっかりと捉えることはできない。そんな、影に似た感じで、人はあいまいに幸福を語っているのではないか。
いったい、幸福とは何なのか。幸福になるためには、これに明確な答えを持たねばならない。
大方の人は、幸福になるためには、健康でなければならぬと思い、地位を高めなければならないと願い、財産を蓄えなければならないと欲する。それらは、生きていく上において、確かに必要ではあっても、それさえあれば必ず幸福になるというものでは決してない。
世には、健康に恵まれ、容貌《ようぼう》が人にすぐれ、社会的地位が高く、且つたくさんの金を持ちながら不幸に泣いている人も珍しくない。第一、健康も地位も富も、いつ失うか計り知れないものなのだ。思いもよらぬ事態が突発するのが人生である。
とすれば、健康であってもなくても、地位が低くても高くても、金があってもなくても、揺るがぬ幸福をつかんで生きている人が、真に幸福であるということになる。いかなる事態にあっても、喜びと希望に満ちた人生、それこそが真の幸福ではあるまいか。そうした幸福をこそ、わたしたちは求めるべきではないか。人はあるいはいうかも知れない。
「それは単なる理想に過ぎぬ」
と。しかし、決して単なる理想ではない。現に、生まれて何十年、一歩も歩いたことのない体で喜びに満ちている人もあれば、常に無一文で病者や障害者のために命を捧《ささ》げている人もあるのだ。わたしたちは、平生幸福を勘ちがいし、あいまいに、不確かに捉えていることに、鋭く反省をしてみる必要がある。
ここでわたしは、キリストの幸福観をあえて引用したい。キリストは、
「幸いなるかな、心の貧しき者」からはじまって、「悲しむ者」「柔和なる者」「正義に飢えかわく者」「あわれみある者」「心の清い者」「平和をつくり出す者」「正義のために責められる者」を幸福な者といっている(マタイによる福音書五章三節以下)。
わたしたちの幸福観とは、あまりにも異なる幸福観であるが、なぜこれらが幸福であるのか、その一つ一つにキリストは答えておられる。新約聖書を開いて、それらを確かめられるなら、それこそ幸いであると思う。
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