三橋《みつはし》先生の講演があるから、聞きに行かないかと、誘ってくれたのは誰《だれ》であったか、それは忘れた。
その講演会は、旭川の拓銀ビルであった。聴衆は若い学生たちが多かった。どこに行くにも三浦と二人の私が、その日は一人で講演を聞きに行った。三浦が疲れていたにちがいない。
司会者の挨拶《あいさつ》があり、いよいよ講演がはじまることになった。すると、一人の女性が、前方の椅子《いす》に坐っていた三橋先生のそばに、しとやかに近づいて行った。三十半ばに見えたその女性は、先生のそばまで行くと、先生に背を向けて屈《かが》みこんだ。先生はその女性の肩に両手をかけて、おぶさった。彼女は静かに立ち上がり、一歩一歩踏みしめるようにして、壇上の椅子に近づき、先生をその椅子に移した。その控え目な、しかしひたすらな表情が、私の心を打ち、私はその二人の姿に感動した。
これが、三橋|萬利《かずとし》先生夫妻を見かけた初めてのことである。
椅子に坐った先生の話が始まった。大きな、明せきな声、明るい笑顔、それは、夫人に背負われなければ壇上に上がることもできない人とは思えなかった。体に何不自由のない者でも、あんなに透きとおる明るさを持つことはできないのではないか。
先生は、自分がいかにして、キリストに救われたかを、実に力強く会衆に話された。私は深い感銘を受けて家に帰った。
そしてその翌日だったろうか。私は先生夫妻の来訪を受けた。足の不自由な先生を乗せて、奥さんが車を運転して来られたのだ。そして、助手台の先生を背負って、昨日見たように、謙虚で、しかしひたすらな表情で、奥さんは私の家に入って来られた。
私たちは昼食を共にしながら、ひと時語り合った。
彼女が先生と結婚したのは、十九歳の時だという。当時二人は同じ教会の信者だった。彼女は、小児マヒで足の不自由な先生を、夏はリヤカーに乗せ、冬は橇《そり》に乗せて教会に通った。そのうちに、二人の間に愛が芽生えたのである。彼女はまだ看護学校の学生だった。が、先生には生きていく経済的基盤は何もなかった。当然、二人の結婚に大人たちは反対した。人の心は変わりやすく、現実はきびしいことを、大人たちは知っていたからである。
だが信仰によって結ばれた者の、愛の強さを大人たちは知らなかった。むろんさまざまな困難はあった。が、二人は見事に耐えぬかれた。今では先生は、札幌に百人近い会員を持つ集会の、伝道者である。子供さんも与えられ、夫婦仲は至ってむつまじい。いや、むつまじいというより、うるわしいといったほうが的確かも知れない。この先生たちの結婚のいきさつをからめた苦難と信仰生活は伝道映画でも見せてもらった。その映画もまた実に感動的であった。
私は時折、「美しい」という字を見ると、このご夫婦をふっと思い出すことがある。なぜこのご夫婦が美しいのか。それは、夫の足の不自由なことを、夫人がいささかも恥とせず、先生もまた、ご自分の足の不自由なことを決して卑下《ひげ》してはいられないからだ。
つまり、この二人は全く対等の立場でお互いをみつめ合っておられるのだ。体に不自由のない夫人が優位に立つのでもなく、不自由な先生が、優位に立つのでもない。極めて当たり前の姿勢で、お互いがお互いを尊重し合いながら、一体になって生きておられる。
こうした生活を営むことのできるのは、その根底に確かな人間観があるからだと思う。人間の価値観が明確であるからなのだと思う。
私は肺結核を病み、その上|脊椎《せきつい》カリエスを併発して、何年もの間、臥《ね》たっきりの生活がつづいた。そんな頃、私をキリストに導いてくれた幼な馴染《なじ》みの友人が、こんなことを私に言った。
「人間は、手がなくとも、足がなくとも、人間であることに変わりはない。だけど、もし五体が満足に備わっていても、美しいものを美しいと思う心が失われ、人の痛みを痛む心を失ったら、それは人間ではない」
彼は、立つことも坐ることもできない私に向かって、慰めようとしてこう言ったのかも知れない。が、この言葉は、その後いろいろな形で私の小説に現われた。彼はそんな不自由な体の私と結婚しようと思いながら、早くに死んだ。そしてその死後一年|経《た》って、三浦が現われ、五年目に結婚してくれた。
それはともかく美しいという字を見ると、私は必ず三橋先生夫妻を思い出す。そして、この夫妻に似た何組かの美しい夫妻を思い出す。これは私から、誰も奪うことのできない宝なのである。