私たち夫婦のよく行く寿司屋《すしや》に「みどり鮨《ずし》」という寿司屋がある。店主は松田利雄さんといって、まだ三十代の働き盛りだ。店も、松田さん夫妻も、至って清潔な感じだ。松田さんには、白い半纏《はんてん》を着ている時と、紺の半纏を着ている時とがあるが、白い半纏はあくまで白く、紺の半纏は紺が匂《にお》うような清潔さなのだ。
ここの鮨はどこかひと味ちがっていて、実にうまい。特に三浦は、
「みどり鮨は日本一」
と激賞するほどだ。私はいつか、
「日本一ということは、世界一ということね」
と、言ったことがあるが、三浦は大まじめで「うん世界一だ」と答えた。むろん味というものは、人それぞれの好みがあるから、その評価は多少の差があるかも知れない。が、ここの鮨は、どう見ても心の入れ方がちがうと、感じさせる味だ。つまりひと味ちがうということだ。アメリカ人をつれて行っても、ドイツ人をつれて行っても、むろん日本人をつれて行っても、みんな激賞してくれる。
この松田さんから、先日、私たちはその身の上話を聞いた。何の話からだったろうか。
「わたしは親がちがうんですよ」
と、松田さんは言った。松田さんが、自分の親が実の親でないと知ったのは、最も多感な中学三年の時だったという。
高校進学のため、戸籍謄本《こせきとうほん》を取り、友人同士でその謄本を見せ合っていた。と、友人たちの謄本と自分の謄本がどうもちがう。赤でばってんしたところや、何やらごちゃごちゃ書きこんだ箇所が、自分のにはある。よく見ると、実母は死亡になっており、養子縁組という言葉が、書きこまれてあった。友人たちは辞書をひらき、養子縁組とは何かを調べてくれた。
そこではじめて、松田さんは自分の両親が、実の親でないことを知った。何しろ多感な中学三年生である。今まで自分の親だとばかり思っていた人が、実の親でないと知ったのだから、そのショックは大きかった。
ここまでなら、よくある話だ。が、次がちがう。松田さんが、自分の親が実の親でないことを知って、まず感じたのは、
「ああ、すまなかった!」
と、いう思いであったという。松田さんが高校に進みたいと言った時、経済的に不如意なご両親は、反対された。が、松田さんはそれを押し切って高校に進もうと思った。
ところが、実の親でないと知った時、
(本当の親でもないのに、さんざんわがままを言って、申し訳ないことをした)
と、慙愧《ざんき》に耐えなかったのだという。
松田さんは、決然として高校進学を諦《あきら》め、寿司職として立つべく、見習奉公に出た。そして、今までのわがままを詫《わ》び、自分の実の親はどんな人であるかを尋ねた。するとご両親は、松田さんの生みの母は、松田さんが生まれて二十日で死んだことを告げ、
「実の父親を決して恨んではいけないよ。生まれたばかりのお前をおいて、母親が死んだのだからな。それを見かねて、うちでもらってきたのだから」
と、やさしく言って聞かせたとか。
松田さんは今、その育ての母親と、実の親子よりも仲よく暮らしている。育ての父親は早くに亡くなられたのである。
私は、この話を聞いた時、涙がこぼれて仕方がなかった。最も感じ易い少年の頃に、自分の親が実の親でないと知った時、百人中、九十九人までは目の前が真っ暗になるのではないか。そして、ひねくれたり反抗的になったりするのが、常道ではないだろうか。
ところが、松田さんが真っ先に抱いた思いは、
「ああ、すまなかった」
という思いであった。何と謙虚な、そして何と思いやりのある言葉であろう。
この素直さに心を打たれた私は、思い出すたびに、その時受けた感動が新たにされるのである。
考えてみると、私たちは自分の親に対して、
「ああ、すまなかった」
と思うことの、何と少ないことであろう。たとえ実の親に対してであろうと、私たちが親に言ったり、したりしていることは、余りにすまないことなのだ。私たちは、余りにも親の愛に馴れ、甘えて生きているような気がする。
親がちがうという、こんな大きな事実でも、その受けとめ方によっては、そのすべてをプラスに変え、充実した人生を生きていくことができるのであろう。
松田さんの生き方には、学歴や地位を超えた、人間としての本当の生き方が示されている。今の世相を見ると、誰《だれ》も彼もが、金に、権力に、地位に毒されて生きている。そんな中で、松田さんの生き方は、私たちに本来の人間のあり方を考えさせずにはおかないものがある。
とにかく、ひと味ちがうみどり鮨の秘密がここにあるのではないか。