今年の三月、菊田医師に対する判決が出た。菊田医師は周知のとおり、宮城県石巻市に住む産婦人科医である。菊田医師は堕胎の相談に来た人たちに、子を生むことをすすめ、生まれたその子を、子供の欲しい人に世話をした。その際、もらい親の実子として出生証明書を発行した。
刑事処分は、医師法違反、公正証書不実記載などで、略式起訴による罰金刑と決まった。実刑はなかったが、医師法違反に問われて、菊田医師は医師生活を放棄しなければならないという。
この事件を、私は大きな関心をもってみつめていた。私個人としては、菊田医師の行為を、人間として尊敬せずにはいられないのである。私と同様の思いを持つ菊田医師の支持者も少なくないと聞いている。
私は、小説「氷点」の中で、この菊田医師と似た処置を、ヒロイン陽子の上に設定した。陽子は、出生の秘密を持つ子で、生まれて間もなく施設に預けられた。その施設の関係者である産婦人科の高木は、この陽子をすぐには入籍しなかった。早晩もらわれるであろう養父母の実子として、入籍したほうがよいと考えたからである。そして陽子は、生まれて三か月も経《た》ってから、出生届がなされたのであった。
この小説に対して、ある評論家はこう言った。
〈「氷点」ほど無理な、不自然な小説を近頃読んだことはない。法治国日本にはあり得ない〉
と。
だが、私がこの小説を書く時、私は私と同じ教会員である判事補や、裁判所に勤める友人の書記官、そして乳児院に、かなり突っこんだ取材をしているのである。小説を書いているとは知らぬ判事補は、
「三浦さん、子供さんをもらうのですか」
と、異様なまでに熱心な私の質問に、そう尋ねたほどである。その評論家は、法治国日本にはあり得ないことと決めつけたのだが、私の調べた限りでは、そのようなケースは決して珍しくはなかったのである。「氷点」を書くに際して持っていた私の倫理感と、菊田医師の持っている倫理感とは、何と共通していたことだろう。それはともかく、私は今、法に触れることが、必ず罪なのか、法よりも更に大事なものはないのか、という問いを発してみたいのだ。
先年私は、歴史小説「細川ガラシャ夫人」を書いた。その中で、時の権力者秀吉が、思いつきで、突如キリシタン禁制の法令を出したことに触れた。一番先に、高山右近がこの秀吉の前に、棄教するか否かを問いただされた。右近は真実なキリシタンであった。禁制に背くならば、右近は直ちに領地を没収されねばならなかった。だがこの時、右近は、喜んで領地を没収されようと答えたのである。
私は、法律には全くの素人である。だが、法律を絶対視するよりも、この右近のように良心に従ったあり方が、人間として生きて行く上に、いつの時代でも非常に大切なことではないかと思う。
結論が先に出てしまったが、私はどうにも疑問なのだ。私たちは、法律にさえ触れなければ、人間としての生き方が全うされているというのだろうか。
先に書いた堕胎の問題にしてもそうである。日本の国は、どうしてこう堕胎を許すのだろう。母体に何の差し支えもないのに、さも差し支えがあるかのように、産婦と医師が口裏を合わせる。そして堕胎をする。それは、人間として真に許されるべきあり方なのだろうか。堕胎というのは、言葉を替えれば、腹の中の子を殺すことである。命を奪うことである。ある看護婦が言っていたが、生まれた子の第一呼吸を、手をもって停止させよという医師の命令に従わねばならない時ほど、つらいことはないという。これは、母体の外に出た命を、
「第一呼吸を停止させよ」
などという用語で、奪うわけである。こんな酷《ひど》いことも、合法の名のもとに、許されるのであろうか。逃げ出すこともできない胎児の命を奪い、新生児の命を奪うことのほうが、偽りの出生証明書を作るよりも、許されることなのだろうか。
菊田医師も、乞《こ》われるままに、堕胎させていたほうが、法に触れずに一生安泰であった。一体、母体に支障がないのに、支障があると書く偽りと、偽出生証明書と、どちらが罪が大きいのであろう。
問題は、法律に触れるかどうかより、人間の生命が守られることを優先させることではないか。法律の絶対化よりも、人間の生命の絶対化である。
この根本がゆるがせにされているので、堕胎天国日本が生まれ、それを見かねた菊田医師が生まれたのではないだろうか。