先日、街に出て三浦と二人でレストランに入った。ふと見ると、広いレストランの奥に、藤田旭山先生が数人のお弟子さんたちに囲まれて、食事をしていられた。
食事を終えられて先生は、
「やあ、元気かい」
と、いつものやさしい笑顔を見せて声をかけてくださり、出口のほうに行かれた。が、すぐに戻《もど》ってこられて、
「これ、あんたに上げる。あんたなら、はけるだろう」
と、黒い女物の手袋をつまんで見せた。
「松枝のだよ」
先生はそう言って、わたしをじっとみつめられた。
「まあ! ありがとうございます」
わたしはその手袋を胸に抱きしめてお礼を言った。
松枝とは、先年亡くなられた奥さんのお名前である(俳句では月女と号されて、後進をよく指導された)。
わたしは手袋を見た。手袋は少し形が崩れていた。男の先生の手には、女物の手袋は小さくて、はきづらかったにちがいない。しかしそんなことには頓着《とんじやく》せず、おそらく先生は、奥さんの亡くなられたあと、その手袋をずっとはいてこられたのではないか。亡くなられた奥さんと手を握るような思いで、いつもはいていられたにちがいない。わたしは胸が熱くなった。
ところで旭山先生ご夫妻を存じ上げたのは、わたしが啓明小学校に教師として勤めた頃であった。先生のお子さんがたが啓明の生徒で、奥さんはその啓明校の母の会の会長であった。森田たまによく似た顔立ちで、話題の豊富な魅力的なひとだった。旭川には数多くの優れた女性がいるが、この松枝夫人のあたたかい人間味と、明晰《めいせき》な頭脳は、その中でも抜群であったと言えると思う。
戦後わたしは、旭山先生の俳句の弟子となった。とは言っても、二年もつづいたろうか。いや、一年程ではなかったろうか。その僅《わず》かな年月の中で、わたしがご夫妻から得たものは大きかった。第一に、夫婦としてのあり方が、先ずわたしを打った。夫婦とは対話がなければならないということを、身をもって示して下さったように思われるのだ。
わたしが六歳まで住んでいた、四条十六丁目に、※[#○に五、unicode3284]藤田という酒造店があった。それが先生の生家であった。わたしはその※[#○に五、unicode3284]藤田の大きな酒樽《さかだる》の中に茣蓙《ござ》を敷いて、よくままごとをして育ったわけだが、その頃に先生は奥さんを娶《めと》られた。美しい、熱い恋愛であったと、後に母から聞いたことがある。
そんなこともあってわたしは、ご夫妻に深い親しみを感じていたが、やがてわたしは、小説「氷点」を書くことになった。その時、わたしは主人公をどんな間取りの家に住まわせようかと考えた末、以前に幾度かお訪ねしたことのある、旭山先生のお宅を改めて見せていただくことにした。そして間取りを、そっくりそのまま使わせていただいたのである。そのために、挿絵《さしえ》の福田豊四郎先生や、向井久万先生、更にテレビ関係の人たちが、旭山先生のお宅をお訪ねして、何かとご迷惑をかけた。その度に接待して下さるのが奥さんだったが、その応対がまた、実に見事であった。
「ようこそ」
と、ちょっと小首をかしげあの大きな親しみのある目で、相手をじっとみつめる。それだけでもう、遠来の客たちは奥さんに心をひらくのである。奥さんはお茶受けに、鰊漬《にしんづけ》やら、トマトの漬物などを出して下さったが、それがまたおいしかった。奥さんのハキハキとして明るい、しかも洗練された言葉に、客たちは驚いて、わたしの耳にこうささやいたものだ。
「東京の人みたいですね。この辺には珍しい方だ」
このほめ言葉は、旭川に住む女性には、ちょっと癇《かん》にさわるところだが、確かに奥さんは横浜育ちで、東京にいたとしても珍しい魅力的な女性であったろう。
この奥さんのすばらしさを知っているだけに、わたしには、先生のひとこと、
「松枝のだ」
にこもる先生の思いの深さがよくわかって、何ともいえない気持ちになったのである。旭山先生の飄々《ひようひよう》たる、俳味あふるる風格と、照り映えるような奥さんの人柄とは、実にマッチしていた。先生にはあの奥さんに代わる人はないのである。生きている間のご夫婦の愛もこまやかであったが、奥さんが亡くなられても、なおこまやかな対話のつづくご夫婦なのだと、わたしはいただいた手袋を大事に握りしめて帰って来たのであった。