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孤独のとなり36

时间: 2020-02-24    进入日语论坛
核心提示:二つのやさしさ  拒絶を知らぬやさしさと拒絶するやさしさと生まれてから今まで、私は何人かのやさしい人に出会ってきた。その
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二つのやさしさ
  拒絶を知らぬやさしさと拒絶するやさしさと

生まれてから今まで、私は何人かのやさしい人に出会ってきた。その最初の人は、私の母の母、即《すなわ》ち祖母である。この祖母のやさしさには、とり立てて、こんなことがあったといえる、大きな思い出があるわけではない。
私がもの心ついたころ、祖母はいつも私と寝ていた。当時私はネルの寝巻きを着て寝ていたが、その背をさすりながら、祖母は毎晩、私にねだられるままに、おとぎ話を語ってくれた。『文福|茶釜《ちやがま》』『やまうば』『猿《さる》カニ合戦』『花咲《はなさか》じじい』などなど、私は毎晩のように祖母にねだった。
同じ話を毎晩語るということは、今考えてみると、大変なことであったと思う。が、祖母は一度として拒んだことはなかった。いや喜んで話してくれた。私の背をなでる手が、時々ネルにひっかかった。水仕事で祖母の手は荒れていたのである。ささくれた手が、ネルにひっかかるのはさぞ痛かったのではないか。にもかかわらず、祖母は背をなでる手をとめることなく、くり返し同じ話を聞かせてくれたものだ。
この祖母は九十六歳で死んだが、その時私はもう四十代の半ばを過ぎていた。そうした長い年月の間、祖母が怒った顔を見せたことはなかったし、私たちを咎《とが》めたこともなかった。拒絶を知らない祖母であった。そうしたやさしさが、毛穴から沁《し》み入るように、幼な心にも沁みとおったものだ。私一人だけではない。私のきょうだい十人すべてが、こうして祖母に愛されたのである。だから、やさしい人とは祖母のことだと思って育ったのである。
私は戦後肺を病み、十三年間療養生活をつづけた。その間にも、多くの人のやさしい見舞いを受けた。私の部屋に、見舞い客のなかった日は、ほとんどないといっていい。特に自宅療養中は、男の友だちや女の友だちが、何人も来てくれたものだ。
私が黴菌《ばいきん》恐怖症の神経質な人間であることを知って、いつも缶|詰《づめ》を見舞いに持ってきてくれた友人もいるし、退屈を慰めようとして、自分で組み立てたラジオを持ってきてくれた友人もいる。小遣いに困っている私に、月給のすべてをくれた友人もいる。
そうした中に、私の夫三浦光世がいた。三浦は、私を、一週間に一度訪ねてくれた。毎日訪ねてくる友人もいたから、週に一度は、私には間遠《まどお》に思われた。しかも三浦は、誰《だれ》よりも時間が少なかった。たいてい、一時間が限度であった。それが私には、ひどくもの足りなく思われた。
友人の中には、朝の十時頃にやってきて、夜の十時ごろまで話しこんでいく人もいた。つまり、昼食を一緒に食べ、夕食も共にする。
当時私は、ギプスベッドに臥《ね》たきりの身で、傍らに便器もあったから、さぞ臭い部屋であったろうと思う。そんな部屋に、朝から晩まで、十二時間も話しこんでくれる友人は、退屈な私にとって楽しい相手だった。
だが、ふしぎなことに、私は、最も短い時間しか見舞ってくれない三浦に、次第に心が惹《ひ》かれていったのである。彼の見舞いの時間の短さは、最初は甚《はなは》だ儀礼的に思われたのだが、次第に私は、それが彼のやさしさの故だと思うようになった。
三浦は、かつて腎臓《じんぞう》結核を病み、その右腎を摘出している。つまり彼は療養生活の体験者であった。その療養生活の体験が、見舞いの時間の短縮となって現われたのだろう。
確かに、臥たっきりの人間には、友人の来訪はうれしい。だが見舞い客によって、疲労することも確かなのである。三浦は私が疲労することを非常に恐れていた。
やがて、三浦は私と結婚しようと決意するようになったが、それでも彼は、ほとんど見舞いの時間を変えなかった。将来の仲を誓ってはいても、情に流されるということは、ほとんどなかった。
彼は見舞いに来るたびに、玄関に出迎えた母にこう言ったという。
「今日の具合はいかがですか。もし悪ければ、ここで失礼します」
私の熱が出ている日や、調子の悪い日は、三浦はこうして私の顔も見ず、玄関から帰って行った。見舞いの品だけを置いて、三浦が玄関先から帰ったことを母から告げられた時、私はどんなに落胆したことだろう。
(顔ぐらい見せてくれてもよかったのに)
よくそう思ったものである。
また、私が歩けるようになって、自分の家の窓べに立つことができるようになったころ、こんなことがあった。三浦の勤務先は、私の家から数百メートルの所にあって、三浦は私の家の前を自転車で通っていた。私は、ある日の夕ぐれ、窓べに立って、今三浦が通るか、もう通るのではないかと、心待ちにしていた。かなりの時間待った後、あと一人、自転車の人が通って行ったなら、あきらめて部屋に戻《もど》ろうと思った時だった。待ちに待った三浦が、窓の外を通りかかった。そして私に気づいて自転車をとめたが、
「体に障《さわ》るから、早くベッドに入ってお休みなさい」
窓越しにそういうと、彼は立ち寄りもせずに、夕闇《ゆうやみ》の中に自転車を走らせて過ぎ去った。
私はその時、なんと冷淡な人かと思ったが、彼はその時も先《ま》ず第一に、私の体のことを考えてくれたのである。そして、週に一度、一時間というペースを、つとめて崩さぬように、自制していたのである。
こうして、私たちは、出会ってから五年目に結婚したのだが、その間の彼の態度は、実に驚くほどに、終始同じであった。
見舞いに来ても、聖書を読み、讃美歌をうたい、祈りを共にし、信仰や短歌について語る。甘い言葉を交わすこともなかった。まして肉体関係を持つことなど、彼は考えたこともないようであった。
祖母のやさしさが拒絶を知らぬやさしさだとすれば、三浦のやさしさは、拒絶すべきことは拒絶するやさしさであったと思う。
が、この二人のやさしさに共通するものは、一つだと思う。それは共に、意志的だということである。孫たちを、只《ただ》の一度も咎めたり、荒々しく叱《しか》ったりすることのなかった祖母は、感情に流される人間ではなかったということであろう。
結婚することに決めた私と会う時間さえ、つとめて短くし、それも週に一度と規制した三浦もまた、決して情の赴くままに行動する人間ではなかった。
やさしさとは、相手の身になって考えると共に、そのやさしさを意志によって持続することにあると思う。意志と知性に支えられないやさしさは、それはいわば、気まぐれであって、真のやさしさではないことを、私はこの二人に学んだのである。
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