「そんなことをしたらパパに叱《しか》られるわよ」
街中で、四歳ぐらいの子の手を引いて歩いていた若い母親がいうのを聞いた。少し行くと、今度は小学一年生ぐらいの女の子に母親がいっていた。
「先生に叱られるから、やめなさい」
偶然、わたしは同じ言葉を聞いたのである。
わたしは、ふと一つの問題を感じた。
もし、そのパパが叱らない人だとしたら、
「そんなことをしたらパパに叱られる」
という言葉は、どう変わるのだろう。同じく、
「先生に叱られる」
という言葉は、どう変わるのだろう。
おじいさん、おばあさん、隣のおばさんになるのだろうか。極端ないい方かも知れないが、もし、誰《だれ》も「叱る人」がいなければ、何をしてもよいということになるのだろうか。
わたしたちの行動の基準は、果たして、
「人に叱られるから」
あるいは、
「人に笑われるから」
「警察に挙げられるから」
というふうに、他に基準をおくべきものなのだろうか。
わたしにしても、
「あ、三浦に叱られる」
と思うことが時折りある。夫に叱られる、妻に叱られる、姑《しゆうとめ》に叱られる、近所の口がうるさいなどと、実にわたしたちの行動は、他に律せられてなされることが多いのではないだろうか。
「叱られるからする、叱られるからしないというのは、最低の人間だ」
いつかある人がこういっていた。わたしもそう思う。わたしたち人間は、叱られようと嘲《わら》われようと、「人間としてすべきことだから」する、またはしないのでなければならないだろう。それが人間なのだ。
この間、白浜のホテルで猿《さる》芝居を見ながら、わたしはそれを思った。動物に芸を教えるには鞭《むち》をつかう。動物は殴られれば痛いから、いうことを聞く。「叱られるから」ということが、わたしたちの行動の基準では、猿に似て全く最低の人間なのかもしれない。叱られぬうちは、「買い占め」をしたり、「垂れ流し」したりする大企業も、これと同じく最低なのであろう。
その反対は先駆者たちである。確かに考えてみると、先駆者たちは、大てい「嘲われ」「指さされ」「叱られ」「迫害され」ても、なすべきことは断乎《だんこ》としてなしてきた。
発明者はたいてい、気狂《きちが》い呼ばわりされたし、新しい思想の持ち主は、官憲の激しい弾圧に遭っている。日本におけるキリスト教への迫害もすさまじかった。
が、人間としてなすべきことは、「叱られても」「殺されても」断乎としてしなければならぬというのが、ほんとうの人間の行動というものではないだろうか。
「誰に叱られても、良いと思うことはおやりなさい。誰に叱られなくても、悪いと思うことは、おやめなさい」
このように言い聞かすことのできる母親ばかりになったとしたら、この世はずい分と変わることだろう。
しかし、問題は、自分の心のうちに、これはなすべきだという叫びが、ないということかもしれない。