戦時中、私は小学校の教師を丸七年した。だがその時、私は生徒たちに何を基本として教えただろうか。当時は、
「天皇陛下の子供を育てる」
ということが、教師の依って立つところであった。が、その依って立つところがいかに誤っていたかは、今更ここに述べるまでもない。
さて、私は、教師の経験こそあるが、自分に子供はいない。一人の子も育てたことがないのである。だがもし、自分に子供がいたとしたら、私はその子の生きる基本に、一体何を教えるであろう。
私は結婚して今年で十九年になるわけだが、結婚した翌年から今まで、近所の子らを招き、十七回にわたって、わが家で毎年子供クリスマスをひらいてきた。初めは十人ほどの子供から始まったが、今は百二十名からの子供たちが集まる。私はいつの頃からか、その子供たちに、決まってこのような約束をさせてきた。
「あのね、みんな。小母さんと約束して。小母さんと道で会ったら、小母さんに、コンニチハとあいさつして。できたら近所の小母さんたちにもそうしてね」
子供たちは大きな声で、「ハーイ」と答えてくれる。そして確かに、道で会うと、
「コンニチハ」
とあいさつしてくれる。中には恥ずかしそうにして、ニヤニヤッと笑って過ぎ去ろうとする子供もいるが、そのような時には私のほうで、
「こんにちは」
と、声をかけてやる。すると子供たちも答えてくれる。
私はなぜ、「あいさつ」を子供たちに求めるのか。それは、あいさつがいかに人間として生きるために必要なものかを、思うからだ。
ところであいさつとは「心をひらいて迫ること」だそうだ。迫るとは近づくことだ。心をひらいて人に近づくのは、人間としての基本的なあり方である。家族関係一つを考えても、朝起きて、「おはよう」でもなければ、「いいお天気ね」でもなく、お互いむすっとしていたのでは、とる朝食もうまかろうはずはない。
時代によっていろいろな流行語があるが、かつて流行した言葉に、「関係ない」という語があった。あれほどいやな言葉がなぜ流行したのだろう。そこには、「あいさつ」など入りこむ隙《すき》のない、荒れた世界だけがある。
しかし考えてみると、他の人に心をひらくというのは、これは実はなかなかできないことだ。何となく疑ったり、警戒したり、反感を抱いたりする心が人間にはあって、
「こんにちは」
という隣人へのひと言さえ、本当に気持ちよく言える人間がどれほどもいないのではないか。自分の毎日のあり方を反省してみると、私たちが、いかに他に対して心のひらくことのできない存在かがよくわかる。
「心をひらく」
ということが、なぜできないのか。それは、心をひらくために必要な愛が私たち人間にはないからではないか。もし愛があれば、相手が子供であろうとおとなであろうと、
「お元気ですか」
「いま学校から帰ったの」
「きょうは暑いですね」
と、その人その人に応じて、励ましや問いかけのひと言が出ないはずがない。つまり、あいさつとは愛がなければできないことなのだ。
私たち人間の生活には、何がなくても、まず愛がなくては生きてはいけない。家族、友人、知人、隣近所、師弟、どの関係一つを取ってみても、愛がないところに生きることほど侘《わび》しいことはない。
が、その愛は、一体どこから来るのだろう。聖書には、
「神は愛なり」
と書いてある。愛は実に神から来る。私たち人間には真の愛はない。だから、神から愛をもらわなければ、人間の持つべき真の愛は持ち得ないのだ。
となると、どうしても人間は、神を求め、神に導かれる以外に、生きようはない。つまり人間存在の基本は、神にあると思うのである。