受験生へ贈る言葉
受験というのは恐ろしい。私が恐ろしいというのは、はいれるか、はいれないかなどということではない。受験ほど、人間を自分本位にしてしまうものはないからだ。
両親も、兄弟も、先生も、級友も、ありとあらゆるものが、自分の受験のためにのみ、存在しているかのように、思ってしまうのだ。
たとえば、少しの物音がしても、
「うるさい。勉強の邪魔になる!」
と、どなったりする。だれが、どんな理由で何のためにたてた物音かなどと思いやる余裕もない。それが、夜食を作るための母親のマナイタを取り落とした音だとしても、
(ああ、こんな夜おそくまで、母は自分のために心を遣ってくれている)
などと感謝することはない。
このように、自分中心になり、この世はすべて自分の受験のためにのみあると錯覚するようになったとき、私たちは自分を失っているといえるのではないだろうか。私が「受験は恐ろしい」といったのは、このことである。
世には、進学する能力があっても、家庭の事情で進学できないものもいる。また、進学しようにも、能力のない人もいる。今、受験勉強ができるということは、大きなしあわせなのだということを、身に沁《し》みて感じてほしい。
その感謝がかえって、心の余裕となり、そして力となる。
「天才とは努力家の別名である」
と、いうことばをきいたことがある。しかし、このたび、私は音楽家の團伊玖磨先生から、
「才能とはきびしい訓練に耐え得る心であると思う」
と、うかがった。
私は、このことばに打たれた。きびしい訓練に耐え得る心とは、受験勉強で頭がカッカとなることとはほど遠いことである。それは、何よりもまず、すなおでなければならないということではないだろうか。
すなおとは、人のことばをうのみにして、何でもハイハイときくことではない。すなおとは真理に従順であるということである。真理に従順になるためには、自分のわがままな感情を自ら叩《たた》きふせて、真理に従おうと意志することであると思う。
だから、きびしい訓練に耐え得る心とは、けっしてガムシャラな自分本位のみにくい心とはちがうということを、わかっていただけると思う。ほんとうに、真理に対して謙遜《けんそん》でなければ、私たちはどんなにガリ勉をしても、人間としての自分を失うことになるのではないだろうか。
若い方はどうか、團先生のおっしゃった「才能とはきびしい訓練に耐え得る心である」ということばを、自分のものとしていただきたい。先生の受けたきびしい訓練は、大学受験勉強どころの比ではなかったのである。