世界中の人間が、もし礼儀の正しい順に一列に並ぶとしたら、わたしは多分、最後尾のほうに、しょんぼりと並ばねばならない人間であろう。
わたしは、暑い時には、家の中で風呂敷《ふろしき》をふわりと体にひっかけているような人間である。こんな、人に眉《まゆ》をひそめさせるような人間に、礼儀について語る資格があるだろうか。
もう十年以上も前から、わたしの家に、毎年東京から訪ねてこられるお茶の先生がおられる。この方は、茶道界でも置き物と掛け軸については日本一といわれる方で、毎年全国の茶の師匠が、四千人も教えをこいに上京するという程のお方である。
この方はキリスト教の伝道師でもあって、それで、茶とは全くの無縁のわたしの家にも毎年お泊まりくださるのだが、はじめてお訪ねいただく時には、わたしはひどく困惑した。
わたしの家には、長いこと掛け軸が一本しかなかった。だから、十年一日の如《ごと》く、聖書の言葉を書いたその掛け軸を下げているというガサツ者である。その上、茶道のことは何も知らない。そんな偉い先生には、番茶もせん茶も差し上げようがない。困ったことになったと思った。
ところが先生は、わたしの出したお茶をごく自然にガブ飲みをなさった。わたしはその時、
「あ、これが達人だな」
と思った。これで、わたしの気持ちはすっと軽くなった。茶をガブ飲みする程の、茶の達人の前には、どう構えてみてもいたし方がない。
この、茶道を知らぬ者の前では、自分も知らぬ者の如く振る舞う、これが礼儀の極意なのではあるまいか。つまり、それは、決して上から見おろさず、謙遜《けんそん》と、相手への思いやりに満ちたものだからである。
礼儀とは、「思いやり」だといっても過言ではないとわたしは思う。老人に席を譲るのも、道路にたんを吐いたり、ごみを捨てたりしないのも、人にあいさつをするのも、また、前に述べた茶の先生のように相手を窮屈にさせないのも、結局は「思いやり」の心から発するのではないだろうか。
この方はキリスト教の伝道師でもあって、それで、茶とは全くの無縁のわたしの家にも毎年お泊まりくださるのだが、はじめてお訪ねいただく時には、わたしはひどく困惑した。
わたしの家には、長いこと掛け軸が一本しかなかった。だから、十年一日の如《ごと》く、聖書の言葉を書いたその掛け軸を下げているというガサツ者である。その上、茶道のことは何も知らない。そんな偉い先生には、番茶もせん茶も差し上げようがない。困ったことになったと思った。
ところが先生は、わたしの出したお茶をごく自然にガブ飲みをなさった。わたしはその時、
「あ、これが達人だな」
と思った。これで、わたしの気持ちはすっと軽くなった。茶をガブ飲みする程の、茶の達人の前には、どう構えてみてもいたし方がない。
この、茶道を知らぬ者の前では、自分も知らぬ者の如く振る舞う、これが礼儀の極意なのではあるまいか。つまり、それは、決して上から見おろさず、謙遜《けんそん》と、相手への思いやりに満ちたものだからである。
礼儀とは、「思いやり」だといっても過言ではないとわたしは思う。老人に席を譲るのも、道路にたんを吐いたり、ごみを捨てたりしないのも、人にあいさつをするのも、また、前に述べた茶の先生のように相手を窮屈にさせないのも、結局は「思いやり」の心から発するのではないだろうか。
ここで「思いやり」を「愛」といってもよいと思う。愛のある人の言動は、礼儀にかなっている筈《はず》である。四角四面に頭を下げるのが、礼儀とは限らない。ていねいな言葉づかいだけが礼儀ではない。
相手に注ぐ目に、愛に満ちた思いやりがこもっているならば、それは百ぺんの低頭よりも礼儀にかなっている。聖書のコリント第一の手紙第十三章には、
「愛は不作法をしない」
と書いてある。この第十三章は、愛の章といわれるが、それを少しく引用してみよう。
〈愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない。誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない〉
この「愛」という個所を、今、試みに「礼儀正しい人」という言葉に置きかえてみよう。すると、
〈礼儀正しい人は寛容であり、礼儀正しい人は情け深い。またねたむことをしない。礼儀正しい人は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そしてすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える〉
ということになる。真の礼儀正しさとは、こうしたことではないかと思われる。
相手に注ぐ目に、愛に満ちた思いやりがこもっているならば、それは百ぺんの低頭よりも礼儀にかなっている。聖書のコリント第一の手紙第十三章には、
「愛は不作法をしない」
と書いてある。この第十三章は、愛の章といわれるが、それを少しく引用してみよう。
〈愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない。誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない〉
この「愛」という個所を、今、試みに「礼儀正しい人」という言葉に置きかえてみよう。すると、
〈礼儀正しい人は寛容であり、礼儀正しい人は情け深い。またねたむことをしない。礼儀正しい人は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そしてすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える〉
ということになる。真の礼儀正しさとは、こうしたことではないかと思われる。
自分より貧しい者や、能力のない者、体の弱い者を見下したり、自分さえよければと自分の利益だけにきゅうきゅうとして、公害垂れ流しをしたり、人の悪口ばかりいったり、人妻や人の夫と恋愛したり、すぐかっとなってののしったり、「絶望だ、絶望だ」とやけになったりする人間は、いかに言葉づかいがていねいで、一応の挨拶《あいさつ》が出来、服装がきちんとしていても、それは礼儀正しい人とはいえないのではないか。
礼儀とは、愛の深さが自ずと外に現われたものであろう。むろん、その現われ方は個性により、また時と場合によって、千差万別であろうけれど。
こう考えてくると、伝道師のF先生が、茶道の第一人者になられたことも、故なしとしないことに気づく。そしてまた、わたしのような不作法者には、愛がないことにも、改めて気づかされるのである。
礼儀とは、愛の深さが自ずと外に現われたものであろう。むろん、その現われ方は個性により、また時と場合によって、千差万別であろうけれど。
こう考えてくると、伝道師のF先生が、茶道の第一人者になられたことも、故なしとしないことに気づく。そしてまた、わたしのような不作法者には、愛がないことにも、改めて気づかされるのである。