十年程前、ある外人宣教師夫人に聞いた子供の躾け方が、未《いま》だに忘れられない。
それは、毎日の食卓に出す食物は、主食にしろ、副食にしろ、すべて大皿《おおざら》、大鉢《おおばち》に盛って出すということであった。そして、家族は自分の分をめいめいの小皿にとり分けて食べるというのである。
(なんだ、そんなことか)
と思う人がいるかも知れない。が、この話は、わたしにはひどく鮮明に印象づけられた躾け方であった。
日本でも、このような躾け方をしている家庭があるかも知れない。しかし、わたし自身は、大根おろしでも、豆でも、ちゃんと小皿や丼《どんぶり》に、あらかじめ盛りつけるという食卓に馴《な》らされて育った。わたしは与えられた自分の分を、残さずに食べればよかった。
「残してはいけない」
「こぼしてはいけない」
という二点が、食事の時の躾であったように思う。
が、大皿から取り分けて食べるという躾は、自分のことだけ考えていればよいというわけにはいかない。どんなに自分の好きな物でも、まず全体の人数を考えて、自分の皿に分けるという配慮が必要である。
パンにしろ、サラダにしろ、全家族のことをまず考慮しなければ、快適な食事はできない。
「おい、お前は取り過ぎたぞ」
などと、きょうだい喧嘩《げんか》になってはならないのである。
このように、まず他の人のことを考え、全体の中の一員としての自分を考えねばならぬ訓練を、毎日の食事の中で与えられるということは、何と幸いなことであろう(これは、いわゆる全体主義などとはちがう。各自が互いに他者を顧みることなのだ)。
しかも、こうした訓練が、食欲という本能をむき出しにしたくなる食卓においてなされるのだ。知らず知らずのうちに、それはどんなにか思いやりのある人間性を育てることであろう。三度三度、この訓練を受けた人間と、受けなかった人間の精神生活は、ずいぶんとちがったものになるにちがいない。
この二種類の人間が、成長し、大人になって企業家になったとする。多分一人は、工場を設置するについても、まず、その地域の人々の生活に迷惑を与えないことを考えて、廃液や煤煙《ばいえん》のことを第一に考えるだろう。
だが、他の一人は、社会のことより、まずいかにして自分の利益を上げるかを考えるのではないかと、わたしは思うのである。
たかが食事の躾だけで、そんなに違った人間ができるかと、人は笑うかも知れない。が、一事は万事とよくいわれる。食卓でこのような躾をする親は、他の面においても、また、必ず同様の躾をするにちがいないのである。
それを裏書きするように、かの宣教師夫人はいった。
「うちの子は三歳になると毎週、おこづかいをあげることにしています。子供はそのおこづかいの十分の一を、まず教会に捧《ささ》げます」と。
三歳の時から、もらったおこづかいの十分の一を神に捧げるとは、何とその躾のすばらしいことよ。わたしたちの周囲で、こづかいの十分の一をまず社会の何かに捧げる訓練をしている親がいるであろうか。
ともあれ、躾の如何《いかん》が、その人をどのようにも変え、それが社会にも影響を及ぼすのである。