母と子が楽しそうに会話している状景ほど、清らかで美しいものは少ない。よく乳飲み児を背負った若い母が、その乳飲み児に盛んに話をしながら歩いているのにぶつかることがある。注意してみると、子供は何の意味もない言葉を機嫌《きげん》よくしゃべっているのだ。それに対して母親は、
「ああいい子だ、いい子だ」
「うん、それから」
などと、あいづちを打っている。子供は何がおもしろいのか、ケラケラと笑ったりしながら、この天使語? によって、母親との会話がかわされていく。
ここには、意味はないかも知れないが、心の交流はある。心の交流がある限り、立派な会話と言えるのではないだろうか。
しかし、やがて思春期ともなると時折りこの交流が失われてしまう。帰ってきた息子は「ただいま」もいわずに、ぶすっと自分の部屋に入ったきりになる。かと思うと、また何も言わずにふいと出かけてしまう。
こうなると、親子の会話は何もない。あの幼かった頃の、母との心の交流は、いつの日を境に、どこに失われて行ったのであろう。
「ああいい子だ、いい子だ」
「うん、それから」
などと、あいづちを打っている。子供は何がおもしろいのか、ケラケラと笑ったりしながら、この天使語? によって、母親との会話がかわされていく。
ここには、意味はないかも知れないが、心の交流はある。心の交流がある限り、立派な会話と言えるのではないだろうか。
しかし、やがて思春期ともなると時折りこの交流が失われてしまう。帰ってきた息子は「ただいま」もいわずに、ぶすっと自分の部屋に入ったきりになる。かと思うと、また何も言わずにふいと出かけてしまう。
こうなると、親子の会話は何もない。あの幼かった頃の、母との心の交流は、いつの日を境に、どこに失われて行ったのであろう。