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孤独のとなり51

时间: 2020-02-24    进入日语论坛
核心提示:そのわたしの修身が何と最高の「甲」 ところで、「週刊朝日」の小説だが、わたしは、昔の小学校三年生が修身を読む場面を書いた
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そのわたしの修身が何と最高の「甲」

 ところで、「週刊朝日」の小説だが、わたしは、昔の小学校三年生が修身を読む場面を書いた。これは昔の国定教科書の復刻版を資料として使った。この修身は、わたしも習った教科書で、覚えのある話や挿絵《さしえ》がいくつもあって、ひどく懐かしかった。
その修身の本を読んで、わたしは思わず笑ってしまった個所がある。そこにはこんなことが書いてあった。
「第六 せいとん
本居宣長はたくさんの本をもつてゐましたが、いちいち本ばこに入れてよくせいとんしておきました。それで夜はあかりをつけなくても、思ふやうにどの本でも取り出すことが出来ました。
宣長はいつもうちの人にむかつて、『どんなものでも、それをさがす時のことを思つたならば、しまふ時にきをつけなければなりません。入れる時に少しのめんだうはあつてもいりようの時に、はやく出せる方がよろしい』といつてきかせました。」
笑うも道理、これはいつも三浦にいわれているのと全く同じではないか。しかも、わたしは確かに、このきちんと整頓された挿絵が記憶に残っているから、むろんよく覚えてもいたわけだ。
当時、成績評価は、甲、乙、丙、丁、戊《ぼ》の五段階だったが、わたしの通信|箋《せん》は修身が何と甲であった。しかも、この受持の教師は、六年間持ち上がりだったから、三年生のその時、既にわたしのかっちらかしを、先刻ご承知の筈《はず》であった。
こう考えてくると、評価ということは、いろいろな問題を含んでいると、今更のように思う。いや、わたし自身どう評価されてもかまわないが、もっと修身教育が力あるものであったら、わたしはこうまでかっちらかしにならずにすんだのではないか、と皮肉な感想も持つのである。
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