「こんなもの、いくら豚でも食えるのかね」
三浦はよくこういう。みかんの皮など豚の餌《えさ》になるまいとか、こんな腐ったものを与えたら、いくら豚でも腹痛を起こすのではないか、などと豚のトン死まで考えるのだ。
わたしがうっかりみかんの皮を残飯入れに投げようものなら、三浦はすぐ拾い出して別の袋に入れる。
「こんな辛いものは、確か豚にはよくないと聞いたが、どうなんだ」
ということもある。兎《うさぎ》に水はやらない話は知っているが、豚に辛いものはいけないのかどうか、雑ぱくなわたしにはとんとわからない。
冬はいいが、夏になると、残飯が腐らないかと始終心配するのも三浦だ。残飯といっても、豚にやる野菜|屑《くず》や、いもの皮などのことである。三浦は米の飯を厨芥《ちゆうかい》入れに入れることを極度に嫌《きら》うので、わが家から米の飯が豚にまわることは滅多にない。で、その野菜の屑が腐らないかと彼は気を遣うわけである。三浦は多分、豚にやる厨芥こそ先《ま》ず冷蔵庫に入れておきたいのであろう。
まるで、豚の友だちか親戚《しんせき》のように、三浦は豚のことをおもんぱかるのだが、これは一例で、豚のことに限らず、他に及ばす影響を、彼は実によく考えるのである。いわばうるさ型というところかも知れない。
ある年代の人は、昔東条首相が、街を歩いていてゴミ箱のふたをよくあけ、中をのぞいたという話を知っている筈《はず》だ。三浦の話はあの東条首相を連想させるかも知れない。確かに事がらとしては共通している。が、東条首相は軍国主義の巨頭であった。三浦は徹底して反戦主義者である。
それはともかく、人間は自分のことばかり考えていると、ろくなことにならない。自分の家族だけのこと、自分のグループだけのこと、自分の企業だけのことしか考えないと、必ずそのしっぺ返しがくる。
この頃は少し鳴りをひそめているが、いつか、石油タンパクを食用として、早く企業化したいと、あるインキ会社の重役がいっていた。三浦はその時、「インキ会社でなくて、インチキ会社臭いな」と言って怒った。人間の健康を二の次にしたような論旨に怒りを感じたのだ。
人間は、人間同士のことはもちろん、他の存在のことを、もう少し考えなければならない。豚のことをおもんぱかる三浦を見ていてわたしは時々こう思わせられるのである。