この間、ある所で、三人の人々と共に講演をした。会衆は千四百人ほど入っていた。が、その反応の悪いこと、驚くばかりだった。
わたしはともかく、他の二人の講師は、先《ま》ず一流の話し手である。他の聴衆なら、ここで笑うところが笑わない。拍手が起こる筈《はず》のところで起こらない。終始ほとんどそのような調子だった。
こういう聴衆相手は実に話しづらく、気勢が殺《そ》がれる。話し手のほうが自信を喪失してくる。熱の乗りようがなくなってくる。
この講演会のあと、わたしはしみじみと、聴き手の態度というものについて考えさせられた。これが敏感に反応して拍手が起き、笑声が湧《わ》き、そして、しんと静まり返ると、わたしのような下手な話し手でも、何か引き出されるように、豊かに言葉が溢《あふ》れてくるのだ。
聞き上手という人がいる。夫の三浦のことになって申し訳ないが、彼は聞き上手だ。
「へえ——それはまたどうして」
「やあ——それは残念でしたね」
「ほほう、そういうこともありますか」
と、適度に相づちを打つ。妻たるわたしにも同様である。おかげで会話が弾む。彼といて実に楽しい。彼がわたしの中にあるものを引き出し育ててくれる。
あるご主人がいった。
「うちの奴《やつ》には何を話しても、つまらん、つまらんといわれるので、こっちも話す気がなくなりましてねえ」
この人たちには、楽しい夫婦の会話など、全くないという。これは話し手の罪か、聴き手の罪か。実はそのご主人、大変話術のうまい、話題の豊富な人なのだ。
聴き手|如何《いかん》で、相手を育ても枯らしもする。夫や妻や舅《しゆうと》の話がつまらないと思う時は、聴き手の自分が、相手をスポイルしていると反省することも、ままあっていいのではないだろうか。