私はこの新年から、「主婦の友」誌に「千利休とその妻たち」の連載をはじめた。千利休は茶聖といわれるだけに、私には手に負いかねる大人物で、取材だけでも大変であった。ふつう取材といえば、たいていは資料を調べたり、現地に出て行ってゆかりの場所を見聞したりすれば、おおよそは事足りるのだが、利休の場合はそうはいかない。彼は「能楽」への造詣《ぞうけい》も深く、また芸術作品や器物万般への審美眼が一流の人物であった。
という訳で、私自身、多くのことに関心を持ってかからなければならなかった。茶道の稽古《けいこ》場に通うことはむろんのこと、謡曲の師匠のもとにも伺った。茶器について、いくらかでも目を養うために、陶芸教室にも通い、おぼつかない手で、ろくろも廻してみた。そしてとうとう将棋にも手をつけてみた。
将棋は、三浦が若い頃より大好きで、一応段持ちでもあるので、習おうと思えば、習う機会は幾度もあった。だが、もともと勝負ごとの嫌《きら》いな私は、習う気にはならなかった。二、三度|駒《こま》の動かし方を習いかけたことはあったが、やる気がないから覚えない。
それが、千利休を書くことになって、ふと、彼も将棋をしたかも知れないと思ったときに、本気で習う気になったのである。するとふしぎなもので、すらすらと駒の動きが頭に入った。去年の正月のことである。
歴史辞典によると、利休の時代に現在の将棋は完成したという。それ以前には、六十八枚の駒のある大将棋や、飛車角なしの三十六枚の将棋など、いろいろあって、何《いず》れも今のものより複雑なルールであったらしい。
それはともかく、下手ながらも、将棋を知ってみると、これは実におもしろいゲームである。第一に、駒それぞれに個性があることで、小説に似ているというか、人間に似ているというか、まことに興味深い。歩には歩の、金には金の個性がある。一歩ずつしか前に進むことのできない歩が、敵陣に入りこむや否や、一躍金の能力に昇格できる意外性もある。しかも、時には、敵陣に入りながら、あえて昇格しないでいるほうがいい場合もあるというのだから、おもしろい。
それが、千利休を書くことになって、ふと、彼も将棋をしたかも知れないと思ったときに、本気で習う気になったのである。するとふしぎなもので、すらすらと駒の動きが頭に入った。去年の正月のことである。
歴史辞典によると、利休の時代に現在の将棋は完成したという。それ以前には、六十八枚の駒のある大将棋や、飛車角なしの三十六枚の将棋など、いろいろあって、何《いず》れも今のものより複雑なルールであったらしい。
それはともかく、下手ながらも、将棋を知ってみると、これは実におもしろいゲームである。第一に、駒それぞれに個性があることで、小説に似ているというか、人間に似ているというか、まことに興味深い。歩には歩の、金には金の個性がある。一歩ずつしか前に進むことのできない歩が、敵陣に入りこむや否や、一躍金の能力に昇格できる意外性もある。しかも、時には、敵陣に入りながら、あえて昇格しないでいるほうがいい場合もあるというのだから、おもしろい。
更におもしろいのは、個々の駒に能力差があり、しかもそれぞれに必ず泣き所があることだ。
「へぼ将棋、王より飛車をかわいがり」
の川柳が生まれるほど、駒の中で飛車が最も強大である。だから、へぼな者ほど飛車を大事にする。が、飛車さえ持てばそれでいいかというと、そうはいかない。飛車角金銀桂香と、山のように持ちながら、最低の「歩」が一つないばかりに、負けてしまうこともあるそうだ。大体将棋というものは、大駒ばかり大事にしていては駄目《だめ》で、お互いの駒の欠陥をカバーし合うこと、特に「歩」という弱い駒を大事にすることが肝要なのだそうだが、つくづく人間社会のあるべき姿を思わせられるというものではないか。
まだ将棋をはじめて一年そこそこの私だから、おもしろいといっても、たかが知れているだろうが、将棋のおもしろみには底の知れない深さがある。哲学や人生訓の一杯つまっているおもしろさである。
こんなおもしろい遊びを、なぜ私たち女性は小さい時からして来なかったのか。男の子たちが将棋をしているそばで、ただおしゃべりしていたことが、残念に思われる。
いや、将棋だけではない。今でこそ茶道は女性の趣味のように思われているけれども、利休の時代から明治の頃まで、茶は男の世界のものであった。封建的な日本においては、男の世界と女の世界を、趣味や娯楽の面でも、余りに画然と区別、いや差別していたようである。
「知らしむべからず、依らしむべし」の封建律が、知らず知らず男性の女性に対する態度をも歪《ゆが》めてきたように思うのだが、まだまだ改めなければならないものが、日本には多いのではないだろうか。
「へぼ将棋、王より飛車をかわいがり」
の川柳が生まれるほど、駒の中で飛車が最も強大である。だから、へぼな者ほど飛車を大事にする。が、飛車さえ持てばそれでいいかというと、そうはいかない。飛車角金銀桂香と、山のように持ちながら、最低の「歩」が一つないばかりに、負けてしまうこともあるそうだ。大体将棋というものは、大駒ばかり大事にしていては駄目《だめ》で、お互いの駒の欠陥をカバーし合うこと、特に「歩」という弱い駒を大事にすることが肝要なのだそうだが、つくづく人間社会のあるべき姿を思わせられるというものではないか。
まだ将棋をはじめて一年そこそこの私だから、おもしろいといっても、たかが知れているだろうが、将棋のおもしろみには底の知れない深さがある。哲学や人生訓の一杯つまっているおもしろさである。
こんなおもしろい遊びを、なぜ私たち女性は小さい時からして来なかったのか。男の子たちが将棋をしているそばで、ただおしゃべりしていたことが、残念に思われる。
いや、将棋だけではない。今でこそ茶道は女性の趣味のように思われているけれども、利休の時代から明治の頃まで、茶は男の世界のものであった。封建的な日本においては、男の世界と女の世界を、趣味や娯楽の面でも、余りに画然と区別、いや差別していたようである。
「知らしむべからず、依らしむべし」の封建律が、知らず知らず男性の女性に対する態度をも歪《ゆが》めてきたように思うのだが、まだまだ改めなければならないものが、日本には多いのではないだろうか。