もう四十年も前になる。石川達三氏の「結婚の生態」という本が、ベストセラーになった。女学校を出たか出ないかの齢《とし》だった私も、それを早速読んだものだ。その中で、確か、夫が妻に将棋を教えている場面があったと記憶している。
それを読んだ時、私は、将来自分もこんな結婚生活をしたいと思った。正直のところ、昭和十年代のその当時、私の周囲を見まわして、共に将棋を楽しんでいる夫婦などは、先《ま》ず見当たらなかった。
私は十三年もの長い療養生活をしたこともあって、結婚したのは、その本を読んでから二十年も経《た》った後のことであった。結婚する時、「結婚の生態」の中の将棋のことはすっかり忘れていた。私がねがっている家庭は、共にキリストを信じ、祈り、聖書を読み、そして伝道する家庭であった。将棋好きの三浦が、将棋盤を持っていたが、私は将棋には何の魅力も感じていなかった。共に神を信じていることで、十分な対話をかわすことができたからでもある。
それが、結婚十七年を経て、ひょんなことから、将棋を教えてもらうようになった。私はどちらかというと、非常に行動的な人間で、思索型の人間ではない。若い頃、小学校の教師をしていたが、学年主任の佐藤利明という先輩から、
「あんたは頭が良いというより、直感力がすぐれている、といったほうがいいですね」
と、いわれたことがある。実はその直感力も怪しいものだが、とにかく無考えに行動する。
「走り出してから考える」と、フランス人を評する言葉があるが、走り終えても考えないのが私である。その私が将棋を習って、はじめて考えることを知った。一手指すのに十分も考える。三浦が時々、
「よく考えるなあ。初心者はとてもそんなに考えられないものなんだ」
と、呆《あき》れたり感心したりするほど、よく長考するのである。長考するといっても「休むに似たり」の考えであろうが、とにかく私としては新しい経験であった。平生の行動はもちろん、小説を書く時でさえ、
(右にしようか、左にしようか)
と、迷うことはほとんどない。すぐにすべてが決まってしまうのである。千枚の小説「氷点」も、一晩でおおよそのストーリーができたほどの、まことに単純な人間なのだ。
ところが将棋は実に、複雑である。次の最もよい手はどれかと考えはじめると、私のような者にも実にたくさんの手が浮かんでくる。あまりにも幾通りもあり、なかなか納得できる一手をみつけることができない。だからまた考える、ということで長く迷うのだ。
ところで三浦は、一応段持ちなので、局面を初めに戻《もど》して、いろいろ批評してくれる。その際、
「これも一局の将棋だ」
という言葉を、たびたび使う。この言葉は、必ずこう指さなければならないということはそうない、という意味だそうだ。
考えてみると、日常生活にもこの言葉は、非常に必要に思われる。私たち人間は、ともすれば自分の「好み」いや「習慣」「思想」を絶対視して、人の失敗やあり方を許せないものだ。あるいは嘲笑《ちようしよう》したくなることもある。それは、夫婦や家族間においても、往々に起きてくるものだ。そのような時、
「それも一局の将棋ねえ」
と、柔軟に相手を受け入れることができたなら、もっと世の中平和になるのではないか。ぎすぎすしないですむのではないか。人生には、絶対にこうでなければならぬということは、そう多くはない筈《はず》である。指す手は幾通りもあるものなのだ。そのことを私は、この頃将棋から学んだのである。