書道という字を見ただけで、わたしは何か妙な心地になる。それはたとえば、気持ちの合わない友だちにでも会ったような心地である。もしわたしをいじめた人間がいたとして、その人に会ったような気持ちといったら、適切かも知れない。
わたしが初めて墨をすり、筆なるものを持ったのは、小学二年生の時であったろうか。「ノメクタ」という字を書かされたことを覚えている。その時の自分の字を、わたしは今でも覚えている。細いひょろひょろとした字であった。が、それを書くのにわたしは精一杯だった。
筆というものを、わたしはどのように使ったらいいのか、全く見当もつかなかった。初めてスキーに乗った時のような、自信のない、ひどく不安定な気持ちだった。
その時、机間巡視をして来た教師がわたしの書いた半紙を、さっと取りあげるや否や、
「これが堀田さんの字ですか」
と、わたしを叱《しか》った。そしてわたしと並んでいる海野セツという友だちの字をほめた。
それ以来わたしは、自分は字が下手なのだと、あきらめてしまった。それでも小学校の時は、通知|箋《せん》では甲をもらった。ところが女学校に入ると、習字は必ず乙であった。四年間一度も甲をもらわずに、わたしは女学校を卒業した。
わたしはその四年間、書道を無視することによって、乙をもらう敗北感を弱めていた。いや、無視というより、
「習字なんて」
と軽蔑《けいべつ》していたのかも知れない。
女学校を卒業したわたしは、検定試験を受けて教師になった。当時小学校では、一年生から習字があった。習字の下手なわたしに受け持たれた子供たちは、他のクラスとくらべて、やはり下手であった。というのは、わたしが単に下手なだけではなく、まことに申し訳ない話だが、わたしは筆の運び方を教える術さえ知らなかったからだ。
「起筆」も「終筆」も何も知らない。とにかくわたしの書き方は、筆を斜めに打ちこみ、打ちこんだ筆をそのまま素直に運ばずに、ひとひねりして横に運ぶので、必ず起筆がこぶになる。が、こぶになるのがおかしいとも思わなかった。
ところが、習字に堪能《たんのう》な教師が、わたしの生徒たちの習字を見て、「どうして先生の生徒たちは、みんなこぶをつくるのでしょう」
といった。そこではじめてわたしは、そのこぶが悪いことに気づいた。
わたしが筆の運びを正確に知ったのは、何と、教師をしてから三年も経《た》ってからであった。同じ学年を受け持つ同僚の、習字の研究授業を見て、はじめてわかったのである。「一」という字を書くには、筆を置いた角度のまま、筆を横にひけばよいのだということを知って、わたしは驚いた。どうしてそんなこともわからなかったのか。いま考えても、生徒たちに申し訳ない。つまりは、生まれて初めて書いた習字を、みんなの前で笑われたのが、わたしの出発であったからかも知れない。わたしには生来負けん気というものがないので、駄目《だめ》だといわれれば、そうかと諦《あきら》めてしまうところがある。奮起しなかったわたしの罪である。
教師をやめて、わたしと習字は縁がなくなった。一生筆を持たなくてもすむと思った。ところがである。結婚後わたしは小説「氷点」を書き、人様から色紙《しきし》を求められるようになった。まさか、こんな伏兵がいるとは知らず、わたしは小説書きになった。
色紙を書くことは苦痛だった。なぜ小説家が色紙を書かねばならないのか。そう思ったが、断わりかねては筆を取る。何しろ女学校で一度も甲をもらったことがない。これこそ本当に恥をかくというものである。
で、わたしは、自分の字は下手だが、言葉だけはよい言葉を書きたいと、聖書の言葉を選んで書くことにした。
「なくてならぬものは唯ひとつ」
「与うるは受くるより幸なり」
「愛は忍ぶ」
などなどである。やがて、書いているうちに、三浦がほめてくれるようになった。三浦は書道の心得がある。かな文字でも、草書でも、わたしから見ればまことに鮮やかに書く三浦が、
「綾子の字をみていると、書道をするのがいやになる」
といってくれるのだ。また書道の先生も、
「あんたの書は、うまく書こうとしないところがよい」
とほめてくれた。
という訳で、この頃わたしは、下手は下手なりの字というものがあるのだと、安心して色紙を書いている。