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孤独のとなり58

时间: 2020-02-24    进入日语论坛
核心提示:はじめての南瓜《かぼちや》いま、わが家の庭では、コスモスが花盛りである。この家を建てたのは一昨年だった。どうせ、忙しくて
(单词翻译:双击或拖选)
はじめての南瓜《かぼちや》

いま、わが家の庭では、コスモスが花盛りである。この家を建てたのは一昨年だった。どうせ、忙しくて庭の手入れなどできはしないから、雑草園にしようと、はじめから覚悟を決めていた。それでもご近所からいただいた桜やいちょう、うつぎ、ライラック、しゃくなげ、萩《はぎ》などで、どうにか庭らしい体裁をととのえたつもりだった。
 三浦が、コスモスの花は強いから、手入れが悪くても咲くだろうといい、去年種をまいた。なるほどコスモスの花は強い。今年は何と、塀《へい》の外の砂利の上にまで花を咲かせた。
コスモスは年々増えるらしく、まるで誰《だれ》かが、やけのやんぱちで種をぶちまいたように、乱雑に咲き、中には地に叩《たた》きつけられたように打ち伏しながら咲いている。小さな松や楓《かえで》など、あわれにもコスモスの下にかくれてしまった。一見、なよなよと見えるコスモスが、こんなに傍若無人な花だとは思いもよらなかった。
しかも、このコスモスは花期が長い。秋桜と呼ばれるこの花は、去年も今年も立秋より十日も早く咲いた。暑い盛りに、おずおずと開いた花を見た時、いち早くしのびよる秋の気配に、うらさびしさを感じさせられたのだが、あまりに花期が長い。「散ってこそ花」などという言葉は、春の桜には通用しても、秋桜なるコスモスには通用しない。
 この花の咲くしばらく前、わが家の庭の片隅《かたすみ》に青々とした蕗《ふき》が出た。茎もみずみずとして青く、わたしはおいしい蕗が食べられると喜んで、三浦に笑われた。それは、蕗ではなく、南瓜の葉だったのである。
去年、庭の土を肥やすために、厨芥《ちゆうかい》を庭に埋めたことがあった。その中にあった南瓜の種が、今年芽を出したのであろう。
この南瓜はコスモスよりもたくましかった。みるみるうちに四方八方に蔓《つる》をのばし、葉を広げ、いちょうや百合《ゆり》にからまり、コスモスと同様、塀の外にまで這《は》い出した。正に暴君か侵略者のようである。だが、朝々目のさめるような黄色い花を見るのは、楽しかった。
やがて南瓜は実を結んだ。メロンほどに大きくなった南瓜をはじめて見出した時、わたしは声を上げて喜んだ。それからはしばしば庭に降りて南瓜をなでた。僅《わず》か三つだが、わが庭で南瓜を収穫するのは、わたしにとって生まれてはじめてのことである。
わたしは先ずその一つを煮て食べた。いわゆるべちゃ南瓜で、おいしくはなかった。しかし、放っておいたのに、ひとりでわが家の庭に実を結んでくれたと思えば、何かいじらしくて、深い愛着を感じないではいられなかった。
途端にわたしは、はっと心の目が開いたような気がした。清少納言は、
「秋は夕暮、夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころに行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛び急ぐさへあはれなり」
その他、雁《がん》のつらなり、日没後の風の音、虫の音などを秋の印象として記している。清少納言ならぬわたしにしても、紅葉の美しさ、風の冷たさ、時雨《しぐれ》の音、落ち葉を踏む音などに、秋のあわれを感じ、人生の秋を連想させられてきた。
 わたしは、南瓜の葉も、蕗の葉も見分け得ぬ街中の育ちである。庭らしい庭もない家に育ち、「実る」草木も野菜も知らなかった。こんなわたしにとって、秋は、
月みれば千々《ちぢ》に物こそ悲しけれ我身ひとつの秋にはあらねど
さびしさに宿を立出《たちい》で眺《なが》むればいづくも同じ秋の夕暮
の古歌のとおり、淋《さび》しいもの、はかないものとのみ思われた。
が、わたしは、たった三つではあっても、南瓜の結実をわが庭に見て、はじめて秋に対して抱いていた偏見を知った。偏見というのは大げさかも知れないが、知らず知らずに感じ方が片よっていたことにちがいはない。秋はたしかに淋しさを感じさせる季節ではあろう。しかし、秋を淋しいとのみ感じるのは、種まかぬ者の感慨ではないだろうか。
種をまき、草を除き、作物を育てる人々にとっては、秋は一年中で最も楽しみの季節なのだ。無論、報いられぬ悲嘆や苦しみを味わうこともあろうが、それだけにまた、秋は単なる感傷の時ではないといえるだろう。
こんな単純な、わかりきったことさえ、わたしはこの年になってはじめて知った。秋を受け身にしか眺めていない人と、秋に積極的に参加する人とのちがいを知った。
自分にとって淋しい秋は、万人にも淋しいと思うことの誤り。こんなことが、人生にはほかにもまだまだたくさんあるような気がしてならない。
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