近頃出版した三浦とわたしの合同歌集を繰りながら、北国の秋らしい歌はないかと探してみた。
秋の陽の満ちて砂白き浜べなり家々は大根を干し烏賊《いか》を干す 光世
早目にストーブをつけよと言はれて共に診断を受けて帰り来つ 光世
萩群るる彼方《かなた》に牛は移り行き夕陽の丘に二人のみなりき 綾子
と拾ってきて、次の歌にぶつかった。
雪虫の舞ふ松林出で来れば胡桃林《くるみばやし》の急に明るし 光世
わたしはこれを見て、
「雪虫の舞う頃だから晩秋の歌ね」
と三浦にいった。三浦は、
「晩秋? それは秋のさかりの歌じゃないか」
とおどろいたようにいう。
「あら、どうして? 雪虫が飛ぶのは晩秋じゃない?」
こちらもおどろく。雪虫というのは、地方によって呼び名がちがうらしく、綿虫と呼ぶところもあるようだ。この乳白色の羽虫が漂うように飛びはじめると、一週間か十日後には必ず初雪が降る。初雪の前ぶれのようなので雪虫と呼ぶのだろうか。それとも雪に似ているので雪虫と呼ぶのだろうか。わたしは小説「氷点」にも雪虫を次のように書いている。
「雪虫の舞う頃だから晩秋の歌ね」
と三浦にいった。三浦は、
「晩秋? それは秋のさかりの歌じゃないか」
とおどろいたようにいう。
「あら、どうして? 雪虫が飛ぶのは晩秋じゃない?」
こちらもおどろく。雪虫というのは、地方によって呼び名がちがうらしく、綿虫と呼ぶところもあるようだ。この乳白色の羽虫が漂うように飛びはじめると、一週間か十日後には必ず初雪が降る。初雪の前ぶれのようなので雪虫と呼ぶのだろうか。それとも雪に似ているので雪虫と呼ぶのだろうか。わたしは小説「氷点」にも雪虫を次のように書いている。
雪虫が飛ぶようになった。(中略)北国では、雪の降る前になるときまって、乳色の小さな羽虫が飛ぶ。飛ぶというよりも、むしろ漂うような、はかなげな風情があって、人には寒さを迎える前のきびしい構えが、ふっと崩されたような優しい心持になるのであった。もう、少しの暖かさもなくなった晩秋の夕光の中を、啓造は病院の帰りに、街に向ってうつむきながら歩いていた。(中略)
雪虫がひたと吸いよせられるように、啓造の合オーバーについた。うすいかすかな羽が透いて、合オーバーの茶がうつった。啓造は雪虫をソッとつまんだ。しかし雪虫は他愛なくペタペタと死んだ。それは一片の雪が、指に触れてとけるような、あわあわしさであった。
雪虫がひたと吸いよせられるように、啓造の合オーバーについた。うすいかすかな羽が透いて、合オーバーの茶がうつった。啓造は雪虫をソッとつまんだ。しかし雪虫は他愛なくペタペタと死んだ。それは一片の雪が、指に触れてとけるような、あわあわしさであった。
わたしは、この中にも晩秋と書いている。初雪が近いのだから、晩秋だとわたしは思いこんでいる。ところが三浦はいう。
「雪虫の飛ぶ頃は、こちらの紅葉の真盛りじゃないか。紅葉の盛りは秋の盛りだろう」
わたしの目に、燃えるような紅葉と、燦然《さんぜん》と輝くような黄葉の山野が目に浮かんだ。まさしく、秋爛漫? の姿である。
しかし、とわたしは思う。雪虫が漂う頃のあの朝夕の冷気は晩秋ではないか。しかも雪虫が来れば、すぐに初雪なのだ。
「でもね、初雪が降れば、もう初冬だもの、そうしたら、雪虫の頃は晩秋よ」
「そんな雑駁《ざつぱく》な感覚でものを書かれたら困るんだなあ」
三浦は苦笑する。彼はつまりこういうのである。
紅葉もたけなわの、即ち秋の真盛りの十月十五日頃の夕べに、雪虫が飛ぶ。そして、確かにそれが前ぶれのように幾日かして初雪が降る。初雪が、ある年は真っ白に幾センチかつもり、ある年は、紅葉の上にうっすらと降り、ある年は、地におちて、すぐにとけるほどにちらほらと降る。
しかし、いずれも程なく消えて、再び小春|日和《びより》のあたたかい日が幾日かつづくのだ。初雪と共に紅葉もほとんど散る年もあるが、雪のあと、しばらくなお鮮やかな紅葉が、徐々に徐々に色あせてゆく年もある。
初雪がきたからといって、この北国ではもう冬だと思ってはならない。なおあたたかい秋の日和がつづき、初雪の降ったことも忘れた頃にまた雪が降り、そして解け、十二月に入ってもなお暖かい年だってあるではないかと、こう三浦はいうのである。
言われてみれば、確かにその通りなのだ。北国の秋は、紅葉の真盛りに初雪もちらつく。それは、真夏の日盛りの七月の末に秋桜と呼ばれるコスモスが咲き、ふっと忍びよる秋の気配を感ずるのに似ているのだ。
雪は冬に降るものという固定観念によって、秋の盛りにちらつく初雪に、もう冬かと驚かされるのだ。こうして季節感覚が、わたしのように鈍《なま》るのであろう。
北国の秋は、つまり雪も降る秋なのだ。北国に生まれ、育ち、住んで五十年、ようやくそのことに気づいたのは恥ずかしいことだが、微妙に移ってゆく季節の移り変わりを思うと、雪は冬のものと決めてかかる固定観念に似た過ちが、まだまだわたしたち人間社会の生活にもありはしないかと、ふと立ち止まる思いなのである。
「雪虫の飛ぶ頃は、こちらの紅葉の真盛りじゃないか。紅葉の盛りは秋の盛りだろう」
わたしの目に、燃えるような紅葉と、燦然《さんぜん》と輝くような黄葉の山野が目に浮かんだ。まさしく、秋爛漫? の姿である。
しかし、とわたしは思う。雪虫が漂う頃のあの朝夕の冷気は晩秋ではないか。しかも雪虫が来れば、すぐに初雪なのだ。
「でもね、初雪が降れば、もう初冬だもの、そうしたら、雪虫の頃は晩秋よ」
「そんな雑駁《ざつぱく》な感覚でものを書かれたら困るんだなあ」
三浦は苦笑する。彼はつまりこういうのである。
紅葉もたけなわの、即ち秋の真盛りの十月十五日頃の夕べに、雪虫が飛ぶ。そして、確かにそれが前ぶれのように幾日かして初雪が降る。初雪が、ある年は真っ白に幾センチかつもり、ある年は、紅葉の上にうっすらと降り、ある年は、地におちて、すぐにとけるほどにちらほらと降る。
しかし、いずれも程なく消えて、再び小春|日和《びより》のあたたかい日が幾日かつづくのだ。初雪と共に紅葉もほとんど散る年もあるが、雪のあと、しばらくなお鮮やかな紅葉が、徐々に徐々に色あせてゆく年もある。
初雪がきたからといって、この北国ではもう冬だと思ってはならない。なおあたたかい秋の日和がつづき、初雪の降ったことも忘れた頃にまた雪が降り、そして解け、十二月に入ってもなお暖かい年だってあるではないかと、こう三浦はいうのである。
言われてみれば、確かにその通りなのだ。北国の秋は、紅葉の真盛りに初雪もちらつく。それは、真夏の日盛りの七月の末に秋桜と呼ばれるコスモスが咲き、ふっと忍びよる秋の気配を感ずるのに似ているのだ。
雪は冬に降るものという固定観念によって、秋の盛りにちらつく初雪に、もう冬かと驚かされるのだ。こうして季節感覚が、わたしのように鈍《なま》るのであろう。
北国の秋は、つまり雪も降る秋なのだ。北国に生まれ、育ち、住んで五十年、ようやくそのことに気づいたのは恥ずかしいことだが、微妙に移ってゆく季節の移り変わりを思うと、雪は冬のものと決めてかかる固定観念に似た過ちが、まだまだわたしたち人間社会の生活にもありはしないかと、ふと立ち止まる思いなのである。