数日前の夜、東京のある出版社の方から電話があった。重役陣の一人で、ふだんはめったに電話をいただいたことがない。何事かと思ったら、
「今日は零下二十九度だそうですね。いかがお暮らしかと……」
という温かい見舞いの電話であった。
そのあと、もう一件、同じような電話がきた。零下二十九度という寒さは、温暖の地に住む人には、たぶん想像もできない寒さであろう。
わたしの住む旭川の郊外は、気象台発表の温度より二—三度は低い。だからその日は、三十度以下に下がったことになる。秘書の家でも、洗たく機のホースに残っていた水が凍って、それを解かすのが、今日の大仕事だといっていた。去年までは、そんな話は聞かなかったから、今年の寒さが異常なことは間違いない。
しかし、旭川に生まれ、旭川に育った多くの人は、この何十年ぶりという寒さも、じつは、以前ほどこたえないのではないだろうか。というのは、現代の家屋は、耐寒性が進歩しているからだ。壁の間や、屋根裏には断熱材がはいっており、窓はすべて二重窓だ。そのうえ、夜通し同じ温度を保てる石油ストーブや、家によっては、全館暖房もある。まきストーブや石炭ストーブの時代とは違うのである。
一重窓の家に住んでいたころの寒さを、わたしはいまもありありと思い出す。眠っているうちに、寒さがしんしんと額《ひたい》に感じられる。目を覚ますと、はたしてふとんのえりが、自分の息でガバガバに凍りつき、壁には全面、五ミリほどの霜がついたものだ。
とてもその場で着替えられたものではない。まくら元の服や下着をかかえて、ストーブのある茶の間に走る。そのわずか数秒を走る間にも、無数の針が全身に刺さるような感じだった。
いってみれば、家中すべて冷凍庫のようなものだからつけ物は凍る、モチは凍る、洗たく物は凍る、ビン類は割れる、万年筆は割れる、という仕末であった。なにしろ、何もかも凍るのだ。デレッキ(火かき棒)から、ポンプの柄まで凍った。金物が冷え切ると、氷よりも冷たい。うっかり素手でつかもうものなら、手にねばりつく。あわてて離そうとして、皮膚がはがれそうになったことが幾度かあった。
一重窓の家に住んでいたころの寒さを、わたしはいまもありありと思い出す。眠っているうちに、寒さがしんしんと額《ひたい》に感じられる。目を覚ますと、はたしてふとんのえりが、自分の息でガバガバに凍りつき、壁には全面、五ミリほどの霜がついたものだ。
とてもその場で着替えられたものではない。まくら元の服や下着をかかえて、ストーブのある茶の間に走る。そのわずか数秒を走る間にも、無数の針が全身に刺さるような感じだった。
いってみれば、家中すべて冷凍庫のようなものだからつけ物は凍る、モチは凍る、洗たく物は凍る、ビン類は割れる、万年筆は割れる、という仕末であった。なにしろ、何もかも凍るのだ。デレッキ(火かき棒)から、ポンプの柄まで凍った。金物が冷え切ると、氷よりも冷たい。うっかり素手でつかもうものなら、手にねばりつく。あわてて離そうとして、皮膚がはがれそうになったことが幾度かあった。
便所がまた滅法寒かった。寒風が下から吹き上げて、股《また》のあたりの感覚がなくなる。よくもまあ、あんな寒いところに、五分も十分もかがんでいたものだと思うのだが、この便所に思い出がある。
女学校時代のこと、姉が友人から借りたジイドの『狭き門』を持ってはいったわたしは、それをうっかり便槽《べんそう》に落としてしまった。「さあ、大変っ!」、とばかり、便槽をのぞき込むと、ウンチの盛りあがった上に、その『狭き門』は引っかかっていた。冬の間は、ウンチが凍りつくのでくみ取りはこない。したがって、太い鍾乳《しようにゆう》石を逆さにしたような黄色い柱が立つのである。ときどきこの柱を鉄棒で突き崩すのが一仕事であった(こんな便所はいまもまだかなりある)。
わたしは恐る恐る手を伸ばして、その本を拾い上げた。拾ってわたしはほっとした。本には一点のしみもついていなかった。幸い用を足す前に落としたので、難を免れたのである。
寒さを知らない地方の人には、ウソのような話だが、聖書に手を置いて誓っていい。ほんとうの話である。
わたしは、こうした寒さの中で、小学四年生から女学校を卒業するまで毎朝、牛乳配達をした。外に出たとたん、鼻毛がねばつき、まつ毛がねばつく。前髪も眉毛《まゆげ》も、老婆のように自分の息で白くなったものだ。
これらのことを思い出すと、毎朝、寒い早朝に起き出して、ストーブを焚《た》きつけなければならなかった母の苦労はどんなであったろうかと思う。
むろん、今は耐寒建築になったとはいえ、零下二十度は、むかしと同じ零下二十度である。寒いことは寒い。うっかりすると、水道が凍結するから、忘れずに水道を落とし[#「水道を落とし」に傍点]て寝なければならない。現代でも、ストーブのない部屋は、けっこう零下十度や十五度には容易に下がるのである。
だから、主婦たちは、野菜を凍らせないために、常時、プラス五度の冷蔵庫を大いに利用することになる。つまり、冷蔵庫の方が暖かいのだ。むろん、室《むろ》も広く利用されてはいるが。
女学校時代のこと、姉が友人から借りたジイドの『狭き門』を持ってはいったわたしは、それをうっかり便槽《べんそう》に落としてしまった。「さあ、大変っ!」、とばかり、便槽をのぞき込むと、ウンチの盛りあがった上に、その『狭き門』は引っかかっていた。冬の間は、ウンチが凍りつくのでくみ取りはこない。したがって、太い鍾乳《しようにゆう》石を逆さにしたような黄色い柱が立つのである。ときどきこの柱を鉄棒で突き崩すのが一仕事であった(こんな便所はいまもまだかなりある)。
わたしは恐る恐る手を伸ばして、その本を拾い上げた。拾ってわたしはほっとした。本には一点のしみもついていなかった。幸い用を足す前に落としたので、難を免れたのである。
寒さを知らない地方の人には、ウソのような話だが、聖書に手を置いて誓っていい。ほんとうの話である。
わたしは、こうした寒さの中で、小学四年生から女学校を卒業するまで毎朝、牛乳配達をした。外に出たとたん、鼻毛がねばつき、まつ毛がねばつく。前髪も眉毛《まゆげ》も、老婆のように自分の息で白くなったものだ。
これらのことを思い出すと、毎朝、寒い早朝に起き出して、ストーブを焚《た》きつけなければならなかった母の苦労はどんなであったろうかと思う。
むろん、今は耐寒建築になったとはいえ、零下二十度は、むかしと同じ零下二十度である。寒いことは寒い。うっかりすると、水道が凍結するから、忘れずに水道を落とし[#「水道を落とし」に傍点]て寝なければならない。現代でも、ストーブのない部屋は、けっこう零下十度や十五度には容易に下がるのである。
だから、主婦たちは、野菜を凍らせないために、常時、プラス五度の冷蔵庫を大いに利用することになる。つまり、冷蔵庫の方が暖かいのだ。むろん、室《むろ》も広く利用されてはいるが。
しかし、いかに寒くても、北国の人たちはそれなりに生活を楽しんでいる。スキーもする。スケートもする。雪まつりもある。決して寒さに押しひしがれてはいない。寒さに打ち勝つことを楽しむ根性もあるのである。
とはいえ、ことしのような寒さは、ありがたいことではない。弱い病人もいる。老人もいる。そして、むかしながらの家に住んでいる人もまだまだいるのである。そのうえ、オイルは高くなっても安くなることはないのだから。
とにかく、北海道の冬は厳しいのである。
とはいえ、ことしのような寒さは、ありがたいことではない。弱い病人もいる。老人もいる。そして、むかしながらの家に住んでいる人もまだまだいるのである。そのうえ、オイルは高くなっても安くなることはないのだから。
とにかく、北海道の冬は厳しいのである。