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孤独のとなり68

时间: 2020-02-24    进入日语论坛
核心提示:何かが欠けていることしの三月、旭川で映画のロケーションがあった。松竹の中村登氏が監督で、出演は俳優座の人たちである。わた
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何かが欠けている

ことしの三月、旭川で映画のロケーションがあった。松竹の中村登氏が監督で、出演は俳優座の人たちである。わたしの小説「塩狩峠」の映画化なので、旭川に住むわたしは、三浦と共に幾度もロケーションを見学した。
三月十六、七日の旭川は、零下二十度というきびしい寒波に見舞われた。東京では、もうオーバーも要らないほどの陽気という。東京から来た人々は、どんなに寒かったことであろう。
刺すような川風の吹きこむ空家で、二時間も三時間も同じセリフを同じ姿勢でくり返したり、六、七時間も戸外で何十回となく同じ演技をくり返す俳優たち、そしてそれをくり返させる演出の人たちの、あまりにも真剣な姿に、わたしたちは強く心打たれた。
何十回やり直しさせられても、俳優たちは只《ただ》の一度も、ちらりともいやな表情を見せない。しかも、別段彼らの演技が不出来だからやり直しさせられるとは限らない。通行人の歩き方、陽《ひ》の照り具合、照明の加減、雪の降り方、さまざまな条件がぴたりと一つにならねば、何度でもやり直しである。
やり直しをさせられる人も、させる人も、それは大変な忍耐である。旭川生まれのわたしががっちりオーバーを着、背中に懐炉を入れてさえ、しんしんと骨身に応《こた》える寒さである。一時間只見ているだけでも苦行であるのに、延々と演技はくり返されて行く。しかも、役によってはオーバーも着てはいない。
わたしはそのプロ魂に感動して、秘書とおてつだいの姪《めい》をも見学させた。彼女たちも寒い中に立って、俳優たちの真剣さに心打たれて帰ってきた。
そして、わたしたちは語り合った。一体、わたしたち家庭の主婦たちに、あのようなきびしさがあるだろうかと。
わたしたち家庭にあるものは、たとえ、まずい料理をつくっても、掃除の仕方が悪くても、夫や家人から、やり直せなどといわれることは、めったにない。せいぜい、
「何だ、この味は」
とか、
「もっと家の中をきれいにできないのか」
というぐらいの小言であろう。
このぐらいの小言でも、むっとふくれてみたり、言い返したりしがちなのが、わたしたち家庭にある者の、いつわらざる姿ではないだろうか。職場でなら、責任を感じて平あやまりにあやまるべきところを、ふくれてすましているのである。
考えてみると、ずい分自分を甘やかしているものだと思う。無論、家庭は職場ではないし、妻、または母であることはいわゆる職業ではない。が、家事が自分の持ち場であるならば、やはり責任感は持つべきではないか。映画の人たちの態度を見て、わたしは自分を省みた。
責任感というものは、サラリーをもらっているか、いないかで生ずるものではない。責任感というのは、その人の誠意の問題である。妻たる者が、文句をいわれて、ともすればふくれたくなるのは、やはり誠意に欠けていることから生ずることではないか。それは事の理非以前の問題である。
「あのロケの人たちの十分の一でも、自分にきびしくありたいわね」
わたしは秘書たちと、そんな言葉を只くり返したことであった。
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