私が朝日新聞の一千万円懸賞小説募集の社告を見たのは、昭和三十八年|元旦《がんたん》の夜だった。その社告は、私にとっては、自分に全く縁のないものに思われた。
賞金が一千万円という巨額なものであったばかりではない。その応募資格が、既成の作家も対象となっていたからである。その上、小説の枚数も、およそ一千枚でなければならないという。その時まで、小説というものを書いたことのない私が、無縁に思ったのも無理はない。
ところがその夜、私は床の中で考えた。もし私が仮に新聞小説を書くとしたら、どのようなストーリーを考えるのであろうか。そして一夜のうちに出来たのが、あの「氷点」の荒筋であった。
明くる日私は、三浦に、こんなストーリーが出来たが、応募してもいいか、と尋ねてみた。三浦は、
「書いてもいいが、祈りなさい」
と答えてくれた。私は今でもその時のことを思うのだが、もしあの時三浦が、
「小説を書く? まあそんな無駄《むだ》なことはやめておくんだな」
と、頭から嘲《あざけ》ったとしたら、私は果たして「氷点」を書いたであろうか。それまで一度も小説を書いたことのない私なのだ。何の自信もあるわけではない。「否」といわれるか、「応」といわれるかで、吾々の人生は、かなりちがったものになるのではないだろうか。
三浦が、英会話を学びはじめたのは、四十も過ぎてからである。三浦は全くのABCから、独学しはじめた。リンガフォンのレコードを買いこんだり、NHKの基礎英語、続基礎英語を学んだりしはじめた。ところがある人に、
「四十過ぎの語学はものにならないそうだ」
と言われた。この言葉に三浦は、少なからずたじろいだようである。幸いにして意志が強く、既に学びはじめて二、三年も経《た》っていたから、三浦はそのたじろぎを超えて進むことができた。その後、八十の老人が、NHKの通信講座で優秀な成績を上げているから、あなたも頑張《がんば》るようにと言われたり、外人の宣教師から、発音が非常にいいとほめられたりしたことが、実に大きな励みとなって、今も学びつづけている。
人間という者は、実に弱い存在である。駄目な人間だとか、お前には才がないと言われると、自分でもそのとおりだと思いこみやすい。また、ひとことでもほめられると、今までは、自分はつまらぬ人間だと思っていた者が、急にめきめきと力を発揮したりする。それは誰《だれ》でも経験することで、担任教師が変わって急に成長したり、反対に駄目になったりする例があるようなものだ。
私はここで、一冊の歌集を思い出す。
世のためとなりて死にたし死刑囚の眼はもらい手もなきかも知れぬ
許されて働くしぐさを夢うちにありありとみてわれは生きたし
許されて働くしぐさを夢うちにありありとみてわれは生きたし
この歌が示すとおり、作者は今は亡き死刑囚である。島秋人と号した。彼は獄窓にあって、ある日、自分の一生を順々に思い出してみた。どんなうれしいことがあったか。人にほめられたことがあったか。彼はそのことを思い出そうとした。だが、幾度くり返し思っても、ほめられた思い出は一度もなかったという。が、何度目かに、彼は只《ただ》一度だけ、図工科の教師にほめられたことがあったのを思い出した。それは、
「お前の絵は下手だが、構図はクラスで一番よい」
という言葉であった。
このことを思い出した時、彼は獄中からその先生に手紙を送った。こうして、師弟の間に手紙が交わされ、それが歌人窪田空穂との出会いにもつながった。彼はどの教師にも、劣等生として、何の価値もないもののように扱われたが、その劣等生であるはずの彼が、以上のように獄中にあって、多くの優れた短歌作品を生み出すことになったのである。
私たちは、人を傷つける言葉を、平気で口から出す。その人が持っている才能や、よさを引き出す配慮には、全く欠けた言葉を平気で出す。それは、夫と妻の関係であっても、親と子の関係であっても、兄弟の関係であっても、師弟の関係であっても、友人の関係であっても、しばしば犯す過ちである。
人間は、前にも述べたが小さく弱い存在なのだ。名前を覚えられていたというだけで、生きる意欲が湧《わ》いたり、駄目な奴《やつ》といわれただけで、死にたくなったりするものなのだ。私たちは心して、人に勇気を与え、喜びを与える、つまりその人のよさを引き出す言葉を出すべきであると思う。
〈必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい〉と聖書にもある。
「お前の絵は下手だが、構図はクラスで一番よい」
という言葉であった。
このことを思い出した時、彼は獄中からその先生に手紙を送った。こうして、師弟の間に手紙が交わされ、それが歌人窪田空穂との出会いにもつながった。彼はどの教師にも、劣等生として、何の価値もないもののように扱われたが、その劣等生であるはずの彼が、以上のように獄中にあって、多くの優れた短歌作品を生み出すことになったのである。
私たちは、人を傷つける言葉を、平気で口から出す。その人が持っている才能や、よさを引き出す配慮には、全く欠けた言葉を平気で出す。それは、夫と妻の関係であっても、親と子の関係であっても、兄弟の関係であっても、師弟の関係であっても、友人の関係であっても、しばしば犯す過ちである。
人間は、前にも述べたが小さく弱い存在なのだ。名前を覚えられていたというだけで、生きる意欲が湧《わ》いたり、駄目な奴《やつ》といわれただけで、死にたくなったりするものなのだ。私たちは心して、人に勇気を与え、喜びを与える、つまりその人のよさを引き出す言葉を出すべきであると思う。
〈必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい〉と聖書にもある。