この間テレビで、チンパンジーの生態を見た。そしてチンパンジーの世界のおきてを知った。
塀の外からバナナの房が吊りおろされると、それを一匹のチンパンジーが素早く手に取って胸に抱えた。私は、他のチンパンジーたちが、そのバナナを目がけて飛びつくのかと見ていたが、驚いたことに、どのチンパンジーも、只じっと、その食べる様子を眺めているだけだった。体だけはすりよせんばかりに近づいても、決して手を出そうとしない。ボスでさえ、その一本をも奪わない。まだほんの小さな子供が欲しがることはあっても、それは例外であって、みんな只じっとみつめている。これが、チンパンジーの世界の第一のおきてだそうだ。他人の、いや他の者が手をつけた食糧は侵さない。それが実によく守られている。日本猿はそうはいかないそうだ。たちまちボスが取り上げたり、奪い合いが展開されるそうだ。
私はチンパンジーの行儀のよさに目を見張った。本能のままに生きていると思っていたチンパンジーにも、意志的な抑制があった。知的な判断があった。食糧は、命の糧である。その命の糧を奪わぬということは、これこそ命を尊重するということだ。人間の世界でいえば、基本的人権を尊重するということでもあろうか。
しかし人間の世界を顧みると、泥棒がいる。詐欺がいる。悪知恵や暴力をもって、他人の持っている物を奪うことの何と多いことか。何だか私は、恥ずかしいような気がした。
更に驚いたのは、チンパンジーのボスのあり方だった。テレビを見ている途中に電話が来たため、なぜそうなったかはわからなかったが、一匹のチンパンジーだけが仲間に入る術を知らず、仲間外れになっていた。だが、ボスだけは、そのチンパンジーのところに行って、時々慰めるのである。一匹、ぽつんとしているチンパンジーを心にかけるということは、これまた私には大きな驚きであった。
人間の世界を見ると、ボスという存在はどうも高圧的で、自分は労せずして利を得ようとしているように見えてならない。あるいは武力をもって脅し、庶民である私たち弱い者を、いじめようとしているように見えてならない。だがチンパンジーのボスは、そうではなかった。大変な人格者(いや猿格者か)なのだ。
仲間に喧嘩が起きると、飛んでいって仲裁に入るのはボスである。どっちかにつくということはない。右をなだめ、左をなだめる。その態度におおらかさがあった。
そしてまた、こんな場面もあった。一つの部屋に、新入りが二匹入って来た。ボスから見ると、体は三分の一もない。大きなボスを見て、この新入りたちは「キイキイ」言って、恐れ逃げまわる。その新入りを安心させようとして、ボスはいろいろ手を尽くすのだが、新入りは泣き叫ぶばかりだ。
と、突然ボスは、両手を床につけ、這いつくばってしまった。解説によると、これは自分を小さく見せて相手に恐れを取り除かせるためなのだそうだ。それはまるで、人間が平あやまりにあやまっている姿のようであった。すると次第に、新入りたちはボスに馴れ、叫ぶことをしなくなった。その新入りたちの歩みに合わせてボスも歩く。ボスは決して、自分のペースに相手を合わさせようとはしない。実に忍耐強く、下手《したて》に下手に出て、馴れさせようとするのである。
(これだけの忍耐、これだけの意志、これだけの判断、一体どこから与えられたものだろう)
私は驚嘆せざるを得なかった。
昼間は、広い自然の中で遊んでいたチンパンジーたちが、夜は宿舎に入って寝る。それにも順序があった。一番先に入るのはボスではなかった。子持ちの雌猿であり、子供たちであった。それらが入るまで、ボスはじっと見守っている。このことにも私は深い感動を覚えた。いや、感動したのは、これにとどまらない。
みんなが遊んでいる広場の塀の上から、ライオンの毛皮が吊りおろされた。生きているようなライオンの顔に、たちまちチンパンジーたちは恐怖におののいて、大騒ぎとなった。その時である。一本の針金のような細いものを手に取って、ボスが只ひとり、勇敢にもその毛皮に近づいて行ったのだ。
見ながら私は思わずうなった。これこそが、真の意味のボスだと思った。弱い者をいたわり、決して弱い者いじめをせず、外敵には自分の危険を忘れて、たった一人で立ち向う。これほどのボスは、現代の人間の世界にはいないと思った。そして考えこんでしまった。本当は、神は人間にも、このボスのように、やさしく勇敢な性質を与えてくれていたにちがいない。それを、いつ、どこで、人間は失ってしまったのだろう。私はひょいと、「有事立法」を思って、ぞっとした。