昔、修身の教科書に、
「キグチコヘイハ、シンデモラッパヲハナシマセンデシタ」
と書いてあった。進軍ラッパを、死んでも離さぬほど任務に忠実であり、忠君愛国の精神を全うした兵隊のことを教えたのだ。
このデンを借りてわが夫を表現すると、
「ミウラミツヨハ、シンデモツマノカラダカラ、テヲハナシマセンデシタ」
ということになる。「ミウラミツヨ」は「三浦光世」で三浦の名前である。女とよくまちがわれるが、レッキとした男性である。
彼は実によく、わたしの体にさわってくれる。というと、聞こえがわるいが、実は体に手を当ててくれるのだ。汽車の中でも、家の中でも、人の前でも、歩いていても、実によくわたしの体——肩や背中や腰に手を当ててくれる。
礼拝中のわたしたちを見て、
「教会に来てまで、仲のよいところを見せつけなくてもいいでしょう」
とある方は苦情をいった。またある方は、
「どうも、あの連中の前にいると、目のやり場に困る」
とおっしゃったとか。
わたしたち夫婦はよく仲がいいといわれる。が、仲がよくて手を当てたり、当てられたりしているのではない。もっとも仲がよくなければ、手を当てるどころか、遠く離れて歩くかも知れないから、仲のよい証拠でもあるのだろう。だが、別にいい年をしてべたべたしているのでは決してない。
実は、手を当てると体にいいと聞いてから、三浦がいつもそうしてくれるのである。この頃は、健康法の本がぞくぞくと出ている。その中には「掌療法」なる本もあるので、ご承知の方も多いことだろうが、物理的に確かに体にいいのである。物理的にとあえていったのは、この手当療法を専売特許のようにしている新興宗教もあるからだ。確かに聖書にも手を当てて病人をいやした記事は多くある。が、別に宗教と結びつけなくてもいい。物理的にいいことは確かなのである。
いつか、旅行先でわたしたち夫婦は少年科学館に入った。
「このハンドルを握ってごらんなさい」
とある掲示板に従って、わたしは恐る恐るハンドルを握ってみた。すると、ガラスの向こうに吊《つ》るされた裸電灯がパッとついた。また、ハンドルを握っただけで、中の人形が動き出す装置もあった。
これには説明があって、人体には静電気があり、それが放電されて電流が通じ、電灯がついたり、人形が動くということであった。
短波療法や放射線療法なども、同じような理屈なのだろう。考えてみると、人間痛い所に手を当てない者はいない。腹が痛めば腹に、歯が痛めば歯に、誰《だれ》しも自然に手がいく。これは無意識のうちに、自分自身患部を保護回復しようとしているのである。わたしは時々、自分にも人にもためしてみるのだが、手を当てると当てないでは、確かに痛みがちがう。わたしは一度、三浦に三時間腹部に手を当ててもらい、長い間の鈍痛がなおったことがあった。
作家の田宮虎彦氏は、小さい時に頭蓋骨《ずがいこつ》を砕き、医師に見離されたが、ある人が何時間も頭に手を当ててなおしてくれたことを書いておられた。
もとより人間のすることにオールマイティはない。しかし、案外簡単なことで、体の痛みがやわらげられることだってあるのではないか。いや、簡単といっても、永遠の昔からの真理である場合もあるだろう。現代のわたしたちは、加工しないものは価値のないように錯覚しがちだが、水でも空気でも、みんなふしぎなものばかりである。
それはともかく、この手当はマッサージより無理がない場合もあるし、医師がくるまでの応急処置として用いてもいい。で、わたしたちは、この手当の効用を、よく人様におすすめもし、いささか目ざわりでも、手を当てたり当てられたりしているのである。