残ったものは持って帰る[#「残ったものは持って帰る」はゴシック体]
「このフライには、かなり野菜がつきますが、やはり野菜サラダも別に召し上がりますか」
行き届いたウエイトレスになると、客の注文にひとことアドバイスしてくれる。が、こういうお嬢さんはそうそうはいない。
「なあんだ、フライにこんなに野菜がつくのか。それならサラダは注文するんじゃなかった。ひとことそうといってくれればねえ」
出て来た皿《さら》を見て、わたしたちは往々こんなぼやきをする。食事の注文は、あらかじめよくよく注意しなければならない。特に、自分の腹とよく相談しなければならない。わたしなど無計画な性格なので、三浦によく注意される。で、いつもこんな反省をするわけである。
但しわたしは、注文して食べ残したものは、ほとんど折り箱に入れてもらって、わが家に持って帰ることにしている。鍋物《なべもの》などは仕方がないが、折り箱に入れることのできるものは、すべてそうしている。これはもう、ずいぶん前からのことだ。
だが、こんなことをするのを、非常にみみっちく感ずる人が、世の中には意外と多い。戦中戦後の、あの食糧の乏しい時代を知らない若い人たちならともかく、戦前派、戦中派といわれる人にも、意外と多いのは、どうしたことだろう。
五、六年前、本州からのお客さんに、街に出て食事をさしあげたことがあった。その方は、何でも召し上がるということだったが、食が細いのか、かなり料理を残された。わたしは例によって、折り箱に入れてくれるように、係のおねえさんに頼んだ。ところが、おねえさんが引きさがると、その方がさもおどろいたようにいった。
「三浦さん、お家に持って帰られるんですか。つましいですねえ」
わたしもおどろいて、なるほど、これを吝《けち》とみる人もいるのかと思った。
あとでわたしは、客に対して失礼だったかなと思ってみた。が、どう考えても、これは失礼ということとはちがう。たとえ万一失礼であったとしても、食べ物を無駄《むだ》にすることのほうが、作った人に対してもっと失礼なことではないか。いや、それよりも、つくられた料理を捨てることは、これはもう許されないことではないかと思う。自分がもし、心をこめてつくったものを、捨てられたらどう思うか。持って帰ってくれたらどう思うか。立場を変えて考えてみたら、すぐわかることだ。
と思って、その後も同じように持って帰ることをしていたのだが、最近身内の者からもたしなめられてしまった。
「綾ちゃん、やめなよ。残り物を持って帰るなんて、恥ずかしいよ。三浦綾子って、吝な奴《やつ》だなあってことになるよ」
というのである。
「そんなこと誰《だれ》も思いやしないわよ。あんた知らないの。持って帰ったら、コックさんに感謝されるのよ」
わたしはいったが、
「そりゃあ、まあそうかも知れないけど、あまりいいカッコじゃないよなあ」
と彼はいう。どうやら、食べ物の無駄より、カッコのほうを考えているらしい。
それはともかく、持って帰ってコックさんに感謝されることは、わたしだけの想像ではない。
ある時、すし屋の主人から直接聞いたことなのだ。
「この頃は、もったいないことをする人が多くなりましたねえ。お客さんの中には、注文しておいて、箸《はし》もつけないで帰る方がありますがねえ。どうなっちゃってるんでしょう。ああいうのは一番いやですねえ。どこが悪かったのか、何が気に入らなかったのか、さっぱりわからない。あれは気になりますねえ。ええ、そりゃもう、残った料理を持って帰ってくださるお客さんには、感謝しますよ。ありがたいですよ。お家に持って帰ってまで食べてくださると思えば、作った甲斐《かい》もあるというものですよ」
そのご主人はこうもいった。
行き届いたウエイトレスになると、客の注文にひとことアドバイスしてくれる。が、こういうお嬢さんはそうそうはいない。
「なあんだ、フライにこんなに野菜がつくのか。それならサラダは注文するんじゃなかった。ひとことそうといってくれればねえ」
出て来た皿《さら》を見て、わたしたちは往々こんなぼやきをする。食事の注文は、あらかじめよくよく注意しなければならない。特に、自分の腹とよく相談しなければならない。わたしなど無計画な性格なので、三浦によく注意される。で、いつもこんな反省をするわけである。
但しわたしは、注文して食べ残したものは、ほとんど折り箱に入れてもらって、わが家に持って帰ることにしている。鍋物《なべもの》などは仕方がないが、折り箱に入れることのできるものは、すべてそうしている。これはもう、ずいぶん前からのことだ。
だが、こんなことをするのを、非常にみみっちく感ずる人が、世の中には意外と多い。戦中戦後の、あの食糧の乏しい時代を知らない若い人たちならともかく、戦前派、戦中派といわれる人にも、意外と多いのは、どうしたことだろう。
五、六年前、本州からのお客さんに、街に出て食事をさしあげたことがあった。その方は、何でも召し上がるということだったが、食が細いのか、かなり料理を残された。わたしは例によって、折り箱に入れてくれるように、係のおねえさんに頼んだ。ところが、おねえさんが引きさがると、その方がさもおどろいたようにいった。
「三浦さん、お家に持って帰られるんですか。つましいですねえ」
わたしもおどろいて、なるほど、これを吝《けち》とみる人もいるのかと思った。
あとでわたしは、客に対して失礼だったかなと思ってみた。が、どう考えても、これは失礼ということとはちがう。たとえ万一失礼であったとしても、食べ物を無駄《むだ》にすることのほうが、作った人に対してもっと失礼なことではないか。いや、それよりも、つくられた料理を捨てることは、これはもう許されないことではないかと思う。自分がもし、心をこめてつくったものを、捨てられたらどう思うか。持って帰ってくれたらどう思うか。立場を変えて考えてみたら、すぐわかることだ。
と思って、その後も同じように持って帰ることをしていたのだが、最近身内の者からもたしなめられてしまった。
「綾ちゃん、やめなよ。残り物を持って帰るなんて、恥ずかしいよ。三浦綾子って、吝な奴《やつ》だなあってことになるよ」
というのである。
「そんなこと誰《だれ》も思いやしないわよ。あんた知らないの。持って帰ったら、コックさんに感謝されるのよ」
わたしはいったが、
「そりゃあ、まあそうかも知れないけど、あまりいいカッコじゃないよなあ」
と彼はいう。どうやら、食べ物の無駄より、カッコのほうを考えているらしい。
それはともかく、持って帰ってコックさんに感謝されることは、わたしだけの想像ではない。
ある時、すし屋の主人から直接聞いたことなのだ。
「この頃は、もったいないことをする人が多くなりましたねえ。お客さんの中には、注文しておいて、箸《はし》もつけないで帰る方がありますがねえ。どうなっちゃってるんでしょう。ああいうのは一番いやですねえ。どこが悪かったのか、何が気に入らなかったのか、さっぱりわからない。あれは気になりますねえ。ええ、そりゃもう、残った料理を持って帰ってくださるお客さんには、感謝しますよ。ありがたいですよ。お家に持って帰ってまで食べてくださると思えば、作った甲斐《かい》もあるというものですよ」
そのご主人はこうもいった。