「この頃の宴会もひどいですねえ。もう少し会費を安くして、全部食べるようにすればいいんですよ。そう思いませんか。婚礼でも何でも、無理してみえをはることはないんですよね。一回の宴会が終わるたびに、ドラム缶に半分は残飯が出るといいますからねえ、大きな会場だと、一日に三本も出るそうですよ。こんなことをしていて、どうなるんでしょう」
まだ三十代の方である。わたしは、わが意を得たというより、恥ずかしい思いさえした。
全くの話、宴会場の料理の捨て方はひどい。一つの会が終わって、客が立ち上がるか上がらぬうちに、大勢のボーイやウエイトレスがポリバケツを持ってきて、余った料理をみるみるほうりこむ。まだ手のついていない料理も、立派な果物も、一様にポリバケツにぶちこまれるのだ。宴会では、全部折り箱に入れてくれともいえず、いたたまれぬ思いになるのだが、誰も何とも思わないらしい。
大体あの皿盛りにも問題がある。自分の好きなだけ、小皿にとって食べれば、無駄にならないわけだが、残りを片っぱしから捨てるのだから、かえって逆だ。やはり初めから折り詰にして、銘々持たせて帰したほうがよい。などといえば、
「野暮なことをいってもらっては困る。二次会にも行かなければならない。二次会に行くのに、折り詰をぶらさげてなど行けますか。カッコがわるい」
あるいはこんなことを人はいうかも知れない。しかし、カッコのよさなど二の次でいいのではないか。どんなカッコでもいいと思えばいいし、わるいと思えばわるい。
ひところ、男性たちの間に大きな封筒を抱えて歩くことがはやった。あれもひとつのカッコのよさだったのだろうが、封筒よりは折り詰のほうがはるかに価はある。中身は命の糧《かて》なのだ。堂々と二次会にでも三次会にでも持って歩くといい。堂々としていると、わるいカッコもよくなるのではないかと思うがいかがであろう。
とにかく、問題は食べ物を無駄にしないことだ。先日、東京の知人から来た手紙に、
「アメリカ人一人の食事で、インド人五十人が飢えから逃れることができ、日本人一人の食事で、二十五人のインド人の食事をまかなうことができる、といわれています。
お互いこの実態をよく考えてみましょう」
と書かれてあった。
世界のどこかでは、今日も何千何万の人が食に飢えているという。これは決して人ごとではない。
日本人は忘れやすい民族というが、曾《かつ》ての戦争の苦しみと、食に飢えた日のことだけは決して忘れてはならない。消費が美徳だとか、使い捨てがよいことだとか、商業主義に踊らされて、無駄使いが身についてしまったわたしたちだが、ここらで切り替えなければ、再び、食うに食べ物がなく、泣かざるを得ない破目になるのは必然である。いつの時代でも、食べ物を無駄にしていいことはないのだ。
まだ三十代の方である。わたしは、わが意を得たというより、恥ずかしい思いさえした。
全くの話、宴会場の料理の捨て方はひどい。一つの会が終わって、客が立ち上がるか上がらぬうちに、大勢のボーイやウエイトレスがポリバケツを持ってきて、余った料理をみるみるほうりこむ。まだ手のついていない料理も、立派な果物も、一様にポリバケツにぶちこまれるのだ。宴会では、全部折り箱に入れてくれともいえず、いたたまれぬ思いになるのだが、誰も何とも思わないらしい。
大体あの皿盛りにも問題がある。自分の好きなだけ、小皿にとって食べれば、無駄にならないわけだが、残りを片っぱしから捨てるのだから、かえって逆だ。やはり初めから折り詰にして、銘々持たせて帰したほうがよい。などといえば、
「野暮なことをいってもらっては困る。二次会にも行かなければならない。二次会に行くのに、折り詰をぶらさげてなど行けますか。カッコがわるい」
あるいはこんなことを人はいうかも知れない。しかし、カッコのよさなど二の次でいいのではないか。どんなカッコでもいいと思えばいいし、わるいと思えばわるい。
ひところ、男性たちの間に大きな封筒を抱えて歩くことがはやった。あれもひとつのカッコのよさだったのだろうが、封筒よりは折り詰のほうがはるかに価はある。中身は命の糧《かて》なのだ。堂々と二次会にでも三次会にでも持って歩くといい。堂々としていると、わるいカッコもよくなるのではないかと思うがいかがであろう。
とにかく、問題は食べ物を無駄にしないことだ。先日、東京の知人から来た手紙に、
「アメリカ人一人の食事で、インド人五十人が飢えから逃れることができ、日本人一人の食事で、二十五人のインド人の食事をまかなうことができる、といわれています。
お互いこの実態をよく考えてみましょう」
と書かれてあった。
世界のどこかでは、今日も何千何万の人が食に飢えているという。これは決して人ごとではない。
日本人は忘れやすい民族というが、曾《かつ》ての戦争の苦しみと、食に飢えた日のことだけは決して忘れてはならない。消費が美徳だとか、使い捨てがよいことだとか、商業主義に踊らされて、無駄使いが身についてしまったわたしたちだが、ここらで切り替えなければ、再び、食うに食べ物がなく、泣かざるを得ない破目になるのは必然である。いつの時代でも、食べ物を無駄にしていいことはないのだ。