詩人尾崎道子さんの経営する民芸店で、いろはがるたを買った。その時尾崎さんは、
「いろはがるたにも、関東と関西があるんですってね」
といったので、私は帰宅するなり、百科事典をひらいてみた。なるほど、いろはがるたには、江戸と大阪と京都の三種があった。たとえば、「い」は、「犬も歩けば棒にあたる」が江戸で、「一を聞いて十を知る」が大阪、「一寸先はやみ」が京都であった。「ろ」は、「論より証拠」が江戸で、「六十の三つ児」が大阪、「論語読みの論語知らず」が京都という具合だ。
私たち北海道の者は「犬棒かるた」で遊んだわけだから、即《すなわ》ち江戸のかるたである。大阪や京都で、別のかるたで遊んでいる子供たちがいるとは知らず、「犬棒かるた」だけが「いろはがるた」と思って育ったわけだ。
それはともかく、子供のない私が「いろはがるた」を買ってきたのは、遠い幼い日への郷愁である。三浦と私は、いろは四十八文字のかるたの言葉を、どのくらい覚えているか、記憶くらべをしてみた。
「『に』は何だったっけ?」
「憎まれ子世にはばかるさ」
「じゃ、『ぬ』は?」
「ぬ? ええと……」
思い出そうとするが、二人ともわからない。忘れてしまっている。「いろはがるた」も忘れる齢《とし》かと思った途端に思い出して、ぽんと膝《ひざ》を打ち、
「ぬす人のひるねよ」
と、ほっとする。そしてそのあとに、
「では、その言葉はどんな意味だったのだろう」
と、二人はまた考えっこをした。
「花より団子」や「骨折り損のくたびれもうけ」などの意は、子供の時からわかっていたが、「へをひって尻《しり》つぼめ」となると、二人とも自信がない。そこで、かるたについている解説を調べてみた。すると、「しくじったあとで取りつくろうこと。後悔のはかなさをいう」
と書いてあった。何か、わかったような、わからないような感じである。「月夜に釜《かま》をぬく」も明確にはわからない。これは「『月夜に釜をぬかる』を逆転したもの。明るい月夜に、大事な炊事用具の釜を盗まれること」とあった。つまりは、まぬけということなのか。
こうしてひと時楽しんでいるうちに、「無理が通れば道理ひっこむ」の札を見た。「昔も今も同じなのねえ。無理が通って、道理がひっこめられて」「全くだなあ。これは庶民の、権力者への嘆きから生まれた言葉かも知れないね」
私たちはそんなことを話し合った。がその時私は、世にも稀《まれ》な一人の男性を思った。この人は鈴木新吉という、私たちの家を建てた棟梁《とうりよう》である。彼は戦時中召集されて北支に征《ゆ》き、トーチカ無血占領の功で金鵄《きんし》勲章をもらったほどの勇士である。が、只《ただ》の勇士ではない。真の勇士なのだ。
というのは、彼はキリスト信者で、およそ人を恐れたことがないのである。例えば、当時少佐であった上官を、荒縄《あらなわ》でしばって、バケツの水を頭からかぶせたという武勇伝を持っている。その少佐は酒癖の悪い男で、ある夜酒に酔って歩哨《ほしよう》に絡《から》み、
「敵がこうきたら、どうするか」
などとくだを巻いて困らせた。見かねた彼は、まだ上等兵ではあったが、歩哨の持っていた銃剣を取るやいなや、
「敵が来た時は、こうするんであります!」
と、鋭く銃剣を少佐の胸に突きつけた。それでも尚《なお》絡んでやまない少佐に腹を立てた彼は、荒縄でしばり、水をぶっかけたというわけである。
翌日彼は少佐の部屋に呼ばれた。反逆罪のかどで、重営倉か下手をすれば銃殺刑になるのではないかと騒ぐ部下たちを尻目に、彼は堂々と少佐の部屋に行った。彼は陸軍刑法に、
「戦地において歩哨の勤務を妨害したる者は死刑に処す」
とある以上、自分の処置は理の当然であると信じていたのである。しかし当時の軍隊は、星一つ違えば絶対服従、無理難題の通る世界であった。上官への反抗は、即《すなわ》ち天皇への反逆として扱われる時代であった。こともあろうに、上等兵|如《ごと》きが少佐に縄をかけ、水をかけて、おだやかにすむ筈《はず》はない。部下が心配したのも無理がなかった。だが、彼を迎えた少佐は、彼を見るなりいった。
「やあ鈴木上等兵、すまんかった。よく水をかけてくれた。俺《おれ》は感謝する。実は俺は酒癖が悪くて以前にも大失敗をしたことがあってなあ」
なんと少佐は彼に礼をいったのである。彼の気魄《きはく》が上官の無理をひっこめたのであった。彼にはこのようなエピソードが実に多い。彼のかるたには、「無理が通れば道理ひっこむ」の語はなかったのであろう。