昨年の秋であった。その日も沢山《たくさん》の読者の手紙がわたしの手許《てもと》にとどいた。その中に、新日本窒素に勤める夫を持つ主婦からの便りをいただいた。
それは、わたしの著書「この土の器をも」の一つの個所を読んで、不満をぶっつけてきたのだった。
わたしが雑貨商をしていた時、パンを買いに来た客が腹痛を起こした。わたしは、もしや、わが家のパンが原因ではないかと夜も眠れぬほど心配した。
また、真夏に仕入れたばかりの豆腐がふっと臭《にお》い、買って行った客の家まで駈《か》けて行った。既にその客は何も気づかずに食べたあとだった。
その家には、やっと歩き出した赤ん坊もいて、もし、その豆腐のために下痢でもしたら一大事と、その日一日、その客の家を何度ものぞきに行った。
もし、万一豆腐がもとで中毒したり死んだりすることがあったら、わたしは恐らく、店をたたみ、家を売り、あらゆる算段をして、お詫《わ》びせずにはいられなかったろう。
これが、われわれ庶民の生活感覚ではないか。水俣《みなまた》病など、明らかに工場の廃水が原因とわかっているのに、企業家は傲然《ごうぜん》たる態度で遺族や患者を見おろしている。
廃液が無害なものなら、廃液の中で魚を飼い、経営者はそれを食べてみるがいい。わたしは水俣病の記事を読むたびに、多くの命を奪い、一生を苦しめ、狂わせた企業に限りない憤りを感ずる。仕事が小さかろうが、大きかろうが、人間の命を第一に考えなければ、ついには呪《のろ》われた企業となり果てるにちがいない。
以上のようなことを、わたしは書いた。これは、わたしだけが言っていることではない。一般庶民が感じていることを、わたしも又言ったに過ぎないのだ。こんな当然のことに対して、文句が来るとは、わたしは夢にも思わなかった。
その手紙の中には、
「会社はこれまでたびたび謝罪もし、補償にも真剣に考えて来たが、患者の要求額が途方もない高額で……」
「マスコミはとにかく加害者をやっつければ、大衆に受けがいいので……」
「あなた自身、工場で生産される便利な物を全く使わず、自動車も無用とのみ日頃お思いなら傍観者の様な、被害者一方の様な発言で『自分だけは手を汚していない』という態度が出来るでしょう」
「クリスチャンは公害に対する考え一つにしても謙虚さがない」
「私はたまたま公害企業の従業員の妻ですが、あなたがそうでないのはあなたの努力の結果でしょうか」
「相手をこらしめ、補償金をとって救われ爽快《そうかい》になれるのなら、何と単純な人の世でしょう」
わたしは、いま、ここにこう紹介しながら、人間は何と自分本位の立場でしか、ものを言えないものかと、つくづくと感じた。
一人の人間の命は、どんなに尊いことか、この人は一体わかっているのだろうか。人間の命を本当に尊いと知っているならば、患者の要求額が途方もない[#「途方もない」に傍点]などとは、決して言えないのではないか。
交通事故で車にはねられて死ねば、一千万とか、飛行機事故が一千五百万とか、社会的な人間の命の価がほぼ定められているこの世では、「途方もない要求額」という言葉も、ついうっかりと出るのだろう。が、人間の命はいかなる金額に換算しても、「途方もない」ということは決してないのだということを、先ず、わたしたち一人一人が知っていなければならないのだ。
これがしっかりわかっていれば、
「相手をこらしめ、補償金をとって救われ爽快になれる」
などという、あまりにも馬鹿げた言葉は出て来ない筈《はず》だ。
この主婦は、自分が新日本窒素の従業員の妻として、社会から白眼視される苦しさをつぶさに味わっているといっている。彼女の苦しみは、あくまで、白眼視される会社側に身を置いての発言であって、水俣病患者の身にはなっていない。
もし、自分が水俣病にかかり、又は家族がかかって、死んでいたとしたら、あるいは一生を水俣病で苦しみ生きねばならぬとしたら、こんな言葉を、かりそめにも吐くことができるだろうか。
補償金をとって救われ、爽快になれるかどうか、考えてみるがいい。冗談じゃない。金はあくまで補償費であって、救済になんかなるものか。爽快などになるものか。金を一億|貰《もら》おうと、十億貰おうと、日々苦しみつつ生きる、その苦しさは消えることはないのだ。
そのただ一度限りの人生は、もはや絶対取り返しがつかないのだ。ある人は一生結婚もできず、ある人は職にもつけず、ただもがき苦しむだけの一生なのだ。そのことへの痛みが、この主婦には一体どこにあるのだろう。
また、この主婦は、お前も工場で生産される便利なものも使っているじゃないか。使っていて、何で自分だけは手を汚していないと言えるのかと開き直っている。
冗談じゃない。新日本窒素の生産品をつかっている者には、水俣病の責任もあるのだと、彼女はいっているのだろうか。問題のすりかえ、責任の転嫁《てんか》もよいところである。
この間朝日新聞の天声人語で、英国のサリドマイド剤をつくって売っていた会社が世論の袋叩《ふくろだた》きにあっている記事を見た。ジョニウォーカーなどウイスキーも作っている大企業である。
英国は日本とちがって、世論は大企業に「爆発的な激しさ」で、スーパー、ホテル、小売店まで不買運動を起こしているという。大株主もまた「実業家であると同時に、まず人間であるべきだ」と、社長の不誠意を詰《なじ》ったと天声人語氏は言う。
日本の一株株主を追い散らす、あの株主総会と較《くら》べて、何というちがいか。
わたしが言いたいのは、わが夫であれ、わが党であれ、わが会社であれ、わがことであれ悪いことは悪いとして、反省する姿勢を持たぬ限り、解決はないということである。
この主婦は「お互いに許し合え」と書いて来ているが、あやまりもしないものを、神さえ許しては下さらない。神の正と義は、そんないい加減な甘やかしではない。
外国には、工場の廃液を飲める程に浄化しているところもあるというのに、そうしたことの出来ぬ自分の会社の在り方に、なぜ激しい抗議を、先ず従業員がなさないのか。
もっとも、わたしに抗議して来た主婦のような考えは、かの会社に他に一人もいないというのであれば誠に幸いな話ではあるが。