「三浦さんは、宗教と文学をどのようにお考えですか」
「あなたはキリストを信ずるといいながら、小説を書いていらっしゃる。何の痛みも矛盾《むじゆん》もお感じになりませんか」
物を書くようになって、わたしはたびたびこんな質問を受けるようになった。はじめのうちはキョトンとしたものだが、この頃はハッキリ答える。
「わたしにとって、信仰は絶対のものです。書くことはやめても、信ずることはやめるわけにいかないのです。ですから、キリストを信じながら小説を書いていて、一向に良心の呵責《かしやく》も矛盾も感じません」と。
宗教と文学が一つの平面上におかれるもの、あるいは矛盾対立するものであれば、わたしはその間に立って悩むことになるのであろう。また、小説を書くことが、罪だというのなら、うしろめたくもなるのだろうが、わたしは自分の小説が、いかに拙《つたな》くても、それで罪を犯しているとは考えたことがない。
人間は確かに、罪の塊のようなものである。その罪の塊のような人間を描くとなると、きれいごとばかり並べられないのは当然である。現実に、感動的な、美しい事実もわたしたち人間の中にはあるのだが、そればかりを追求してはいられない。人間の醜さも描かねばならない。ということになると、ある人は、その醜さを見て人生に幻滅し、絶望するかも知れない。ある女性は卑劣な男性の行為におどろき、結婚を諦《あきら》めるかも知れない。あるいは、わたしの小説を見て、姦通を真似《まね》るかも知れない。わたしは決して、性的欲望をあおる小説を書こうとは思わないし、書いてもいないつもりだが、考えてみると、わたしの知らないところで、いろんな影響を及ぼしているであろうことは想像できる。
「その悪影響ですよ。それが全くないとはいえないでしょう。そこに小説の持つ罪作りな面があるではないですか」
人はあるいはそういうかも知れない。が、そうまでいわれるとすれば、もはや生きていること自体が申しわけのないことであって、太宰治のせりふではないが、
「生きていてすみません」
と、誰しもこの世をおさらばするより仕方がないではないか。
確かに、ぎりぎり詮《せん》じつめていけば、人間は、たとえ小説を書かなくても、申し訳のない存在である。時には、それぐらい徹底して、人間がどうしようもない存在であることを、認めてかかるのも大切だ。
が、そうした人間であるからこそ、神は救いの手をさしのべてくださったのだ。人間の抜き難い罪のゆえにこそ、キリストがその責をかぶってくださったのだ。
それは、聖書が明確に示しているところである。
聖書は世界最大の文学とよくいわれるが、正にそのとおり、実によく人間を描いている。特に、その醜悪・罪悪を抉《えぐ》り出してやまない。しかし、ただに抉り出すだけではなく、聖書はその救いの道を明らかに証明しているのである。
わたしはこのキリストの救いを、十三年の闘病生活において知らされた。そして、これこそが、人間を真に生かす道、真に幸いにする道、即ち福音であることを知った。わたしはこの福音を伝えずにはいられない。従ってわたしは、直接であれ、間接であれ、このキリストの福音を伝えようとして書いているのである。たとえ文学的には、どうであれ、この信仰の土台に立って書いているのである。
こうした態度が、文学的に問題視されることは知っている。主人持ちの文学、護教文学といった批判である。確かに、一つの信条を小説の中に主張するというようなことは、文学的には具合のわるいことなのであろう。だがわたしは、文学的にどうであれ、この姿勢を変えるわけにいかないのだ。
「一歩でも人を動かすものこそ真の文学」とか。所詮わたしは半歩も人を動かせない。が、わたしの書くものを通して、一人でもキリストに向いてくださる方がいるなら、わたしはもはやいうことはない。