一
文政《ぶんせい》十三年(一八三〇)陰暦《いんれき》六月——。
天候不順の年にしては、珍しく暑い日だ。すぐ近くの裏山から、蝉《せみ》の声が間断《かんだん》なく聞こえてくる。煎《い》りつけるような激しさだ。
「暑うのうてくれて、ありがたいのう」
眠っていると思っていた父の武右衛門が、音吉のほうに顔を向けた。庇《ひさし》の深い家の中はややうす暗い。武右衛門はまだ四十二だというのに、二年前から神経痛でほとんど床についている。
「うん、夏はやはり暑いのがええなあ」
十二歳の音吉は、部屋の真ん中にある箱火鉢《はこひばち》の傍《かたわ》らに、膝小僧《ひざこぞう》を抱いて、煎《せん》じ薬の煮えるのをじっとみつめていた。武右衛門に似て、眉《まゆ》の秀《ひい》でた賢そうな顔だ。昨年、文政十二年は、江戸に大火があったと聞いたが全国的に大豊作の年であった。だが今年は、春先から天候が不順で、梅雨《つゆ》があけても、ともすると冷たい雨が降り勝ちだ。それが、武右衛門の神経痛にもひびく。
部屋の中には、煎じ薬の匂いが一杯に漂っている。まだ遊びたい盛りの音吉が、一日に三度、父のためにこの煎《せん》じ薬を煎じて飲ませる。僅《わず》かばかりの炭火で、結構薬を煎じることができた。
時折《ときおり》、潮風が磯《いそ》の匂いを運んで来て、家の中を吹きぬける。小さな窓から、そして戸口から風は涼を運んで来た。
「父《と》っさまぁ、今、薬を持ってくで……」
音吉は縁《ふち》の欠けた湯呑《ゆの》み茶碗《ぢやわん》に、土瓶《どびん》の煎じ薬を注いだ。静かな部屋の中に、薬を注ぐ音が思いがけなく大きくひびいた。
武右衛門の傍《そば》に薬を持って行くと、武右衛門はせんべい布団に横になったまま、
「おおきに」
と、低い声で言った。そして、ほおっと太いため息をついた。飲んだところで、もう自分の病はなおるまいと、諦《あきら》めた表情になっている。音吉は素早くその父の気持ちを察して言った。
「父っさまぁ。必ず元気になるでな」
「そうかのう」
武右衛門は、煎じ薬の湯気をみつめていた目を音吉に移した。音吉をいつくしむまなざしだ。
武右衛門は、千石船《せんごくぶね》の水主《かこ》であった。十八の年から二年前まで、数え切れぬほど船に乗った。大坂に江戸にと、幾度航海をしたことか。
武右衛門の住む小野浦は、伊勢湾に面した知多半島にあった。知多半島は、人の足の膝《ひざ》から下を横から見たような形をしている。膝裏のあたりに名古屋があり、ふくらはぎの細くなるあたりに、陶器《とうき》で名高い常滑《とこなめ》がある。小野浦は、ちょうどその踵《かかと》のあたりにあった。爪先《つまさき》に師崎《もろざき》があり、その師崎港に千石船が常時何|隻《せき》も集結していた。武右衛門たち小野浦の水主たちは、四里の山道を歩いてこの師崎に出、春の初航海にのぞんだ。そして半年船に乗り、伊吹《いぶき》おろしが冷たくなる頃に、師崎から陸路を通って小野浦に帰る。だが、一航海|毎《ごと》にも小野浦に帰る。その時は千石船《せんごくぶね》を小野浦の沖に碇泊《ていはく》させ、そこから伝馬船《てんません》に乗って妻子に会いに来たものだ。
その一航海の度《たび》に帰って来る武右衛門を、吉治郎、音吉、さとの三人兄弟は、首を長くして待っていたものだ。江戸や伊豆や、大坂の土産《みやげ》が珍しかったからだ。
その武右衛門が倒れて、今は十六歳の吉治郎が、武右衛門の乗っていた宝順丸に乗っている。働き者の母の美乃は、家の周囲にある僅《わず》かばかりの畠《はたけ》に、里芋《さといも》、胡麻《ごま》、麦、冬瓜《とうがん》などを作っている。今日も美乃は畠の草取りに出ていた。
海に向かった窓から、ひときわ強い風が入った。僅か三部屋の小さな家の中を、磯臭《いそくさ》い風が吹き過ぎると、音吉は窓に寄って海を見た。かっと照りつける日ざしが目を射た。
音吉の家は、丘のような低い山を背に、海から二、三丁離れた所に建っていた。窓から浜の松林が色濃く見え、その松の木立越しに、伊勢湾の海がぎらぎらと午後の日を返し、海の向こうに鈴鹿山脈が見えた。
浜べで遊ぶ子供たちの声が、風に乗って聞こえて来る。音吉も泳ぎたかった。が、音吉にはまだまだ仕事がある。井戸の水を汲《く》み上げねばならぬ。父の寝巻きを洗わねばならぬ。昼飯の後始末もせねばならぬ。
「音吉」
ようやく煎《せん》じ薬を飲んだ武右衛門が重い口をひらいた。口を利くのさえ大儀なのだ。
「父《と》っさま、しょんべんか」
音吉が察する。
「うん、すまねえの」
「ううん、何でもないで」
音吉は窓から離れて、武右衛門の傍《かたわ》らに行った。武右衛門は音吉の小さな肩につかまって、よろよろと立ち上がった。その父の背に手をまわして、音吉はそろそろと歩く。この時が、音吉の一番うれしい時なのだ。とにかく父が起き上がることができる。そしてよろけながらも、土間の隅の厠《かわや》まで行くことができる。そう思うと肩にかかる父のその重みさえ、音吉にはうれしいのだ。
小野浦の人々は、音吉の父を「正直者の武右衛門」と呼ぶ。戸数二百六、七十の小野浦には、武右衛門という者が他にもいた。その武右衛門は街の中で風呂屋をしていた。小野浦には二軒の風呂屋があって、武右衛門は大きなほうの風呂屋を持っていた。街の者は、この武右衛門を「風呂屋の武右衛門」と呼び、音吉の父をわざわざ「正直者の武右衛門」と呼んだ。
船乗りに荷抜きはつきものだった。千|石《ごく》の米を積むと、そのどの俵からも、いくらかずつ米を抜いた。荷上げの際、抜き打ちに量目の検査がある。どの俵を役人が検査するか、予《あらかじ》め知ることはできない。だから水主《かこ》たちの主《おも》だった者は、褌《ふんどし》の中に、一俵から抜いた分を隠しておく。
「量目あらためーっ!」
突如《とつじよ》声がかかると、その俵は口をあけて一粒残らず吐き出さなければならない。その時何げない顔をして、立ち合いの水主は褌の米を巧みにその中に落とすのだ。たいていの場合、この操作を船頭がした。だが万一に備えて、何人かの水主たちは褌に米を隠し持っていた。だが武右衛門は、決してそれをしなかった。油を積んだ時は、油を抜いた。塩を積んだ時は塩を抜いた。が、武右衛門だけは、仲間に笑われようと、船頭にいやみを言われようと、それに与《くみ》したことはない。一事が万事で、武右衛門は嘘《うそ》ひとつ言えない正直者であった。
しかし、兄の吉治郎は、父が「正直者の武右衛門」と言われることを嫌《きら》った。
「正直者と言われるのはな、馬鹿者と言われるのと、同じことだで、音吉」
吉治郎は蔭《かげ》でよくぼやく。誰に似たのか吉治郎は、まだ十六歳なのに、船荷をくすねることがうまかった。他の水主たちは、船頭と共に一味になってくすねたが、吉治郎はそのくすねた品物を、更に自分一人でごまかすのである。だがそれに気づいている者はまだいなかった。
「さすがは正直者の武右衛門さんの息子、くるくるとよく働きなさる」
人々はそう言ってほめていた。だが、音吉は更にほめられ者だった。音吉にはまさしく武右衛門の正直がそっくり伝わってい、その上母に似て、よく働き、親切者であった。
今、武右衛門の全身の重みに耐えながら、音吉は父の歩き方が、少しよくなったように思った。
「父《と》っさま、やっぱり少しよくのうてきとるわ。足つきがいつもよりしっかりしとるで」
「そうかも知れん」
武右衛門の声も少し明るい。
武右衛門の尿《いばり》する音が、長く長くつづく。恐らく、我慢するにいいだけ我慢していたのだろう。
(わしに遠慮して)
音吉は父の尿の音を聞きながら、そんな父親を哀れに思った。
武右衛門を床に臥させ、煎《せん》じ薬の茶碗《ちやわん》を片づけて、音吉は庭の井戸に水を汲《く》みに行った。母の美乃が汗を拭《ふ》き拭き、畠《はたけ》の草を取っている。そのつぎはぎの野良着《のらぎ》は、音吉がもの心ついてから、ずっと同じものであった。
「母《かか》さま、ひと休みせんか」
「ああ、もうひと息だで……」
美乃は草を取る手を休めず、日焼けした顔を音吉に向けた。
「母さま、水を飲みとうないか」
音吉は釣瓶《つるべ》の綱を手ぐりながら言う。
「いらんわ。水を飲むと汗になるばかりだでな」
深い井戸に、音吉の姿が映っていた。釣瓶が水に落ち、ぱちゃんと音がはね返って来た。釣瓶に水を一杯|汲《く》みこんで、音吉は重い綱を手ぐり上げる。汲み上げた水を手桶《ておけ》に注ぎ、音吉は土間の水瓶《みずがめ》に運んで行く。幾度手桶を運んだことだろう。幾度運んでも、音吉は水一滴こぼしはしない。いつか父の武右衛門が言った。
「船乗りはのう、水が命だでの。陸《おか》にいて水を粗末にする者は、きっとその報いを受けるで」
その言葉を、子供心に、音吉は心にとめて聞いた。それまでは、水瓶に水を移すまでに、足も裾《すそ》もよく水でぬらしたものだ。音吉もやがて、兄につづいて水主《かこ》になるつもりであったのである。
天候不順の年にしては、珍しく暑い日だ。すぐ近くの裏山から、蝉《せみ》の声が間断《かんだん》なく聞こえてくる。煎《い》りつけるような激しさだ。
「暑うのうてくれて、ありがたいのう」
眠っていると思っていた父の武右衛門が、音吉のほうに顔を向けた。庇《ひさし》の深い家の中はややうす暗い。武右衛門はまだ四十二だというのに、二年前から神経痛でほとんど床についている。
「うん、夏はやはり暑いのがええなあ」
十二歳の音吉は、部屋の真ん中にある箱火鉢《はこひばち》の傍《かたわ》らに、膝小僧《ひざこぞう》を抱いて、煎《せん》じ薬の煮えるのをじっとみつめていた。武右衛門に似て、眉《まゆ》の秀《ひい》でた賢そうな顔だ。昨年、文政十二年は、江戸に大火があったと聞いたが全国的に大豊作の年であった。だが今年は、春先から天候が不順で、梅雨《つゆ》があけても、ともすると冷たい雨が降り勝ちだ。それが、武右衛門の神経痛にもひびく。
部屋の中には、煎じ薬の匂いが一杯に漂っている。まだ遊びたい盛りの音吉が、一日に三度、父のためにこの煎《せん》じ薬を煎じて飲ませる。僅《わず》かばかりの炭火で、結構薬を煎じることができた。
時折《ときおり》、潮風が磯《いそ》の匂いを運んで来て、家の中を吹きぬける。小さな窓から、そして戸口から風は涼を運んで来た。
「父《と》っさまぁ、今、薬を持ってくで……」
音吉は縁《ふち》の欠けた湯呑《ゆの》み茶碗《ぢやわん》に、土瓶《どびん》の煎じ薬を注いだ。静かな部屋の中に、薬を注ぐ音が思いがけなく大きくひびいた。
武右衛門の傍《そば》に薬を持って行くと、武右衛門はせんべい布団に横になったまま、
「おおきに」
と、低い声で言った。そして、ほおっと太いため息をついた。飲んだところで、もう自分の病はなおるまいと、諦《あきら》めた表情になっている。音吉は素早くその父の気持ちを察して言った。
「父っさまぁ。必ず元気になるでな」
「そうかのう」
武右衛門は、煎じ薬の湯気をみつめていた目を音吉に移した。音吉をいつくしむまなざしだ。
武右衛門は、千石船《せんごくぶね》の水主《かこ》であった。十八の年から二年前まで、数え切れぬほど船に乗った。大坂に江戸にと、幾度航海をしたことか。
武右衛門の住む小野浦は、伊勢湾に面した知多半島にあった。知多半島は、人の足の膝《ひざ》から下を横から見たような形をしている。膝裏のあたりに名古屋があり、ふくらはぎの細くなるあたりに、陶器《とうき》で名高い常滑《とこなめ》がある。小野浦は、ちょうどその踵《かかと》のあたりにあった。爪先《つまさき》に師崎《もろざき》があり、その師崎港に千石船が常時何|隻《せき》も集結していた。武右衛門たち小野浦の水主たちは、四里の山道を歩いてこの師崎に出、春の初航海にのぞんだ。そして半年船に乗り、伊吹《いぶき》おろしが冷たくなる頃に、師崎から陸路を通って小野浦に帰る。だが、一航海|毎《ごと》にも小野浦に帰る。その時は千石船《せんごくぶね》を小野浦の沖に碇泊《ていはく》させ、そこから伝馬船《てんません》に乗って妻子に会いに来たものだ。
その一航海の度《たび》に帰って来る武右衛門を、吉治郎、音吉、さとの三人兄弟は、首を長くして待っていたものだ。江戸や伊豆や、大坂の土産《みやげ》が珍しかったからだ。
その武右衛門が倒れて、今は十六歳の吉治郎が、武右衛門の乗っていた宝順丸に乗っている。働き者の母の美乃は、家の周囲にある僅《わず》かばかりの畠《はたけ》に、里芋《さといも》、胡麻《ごま》、麦、冬瓜《とうがん》などを作っている。今日も美乃は畠の草取りに出ていた。
海に向かった窓から、ひときわ強い風が入った。僅か三部屋の小さな家の中を、磯臭《いそくさ》い風が吹き過ぎると、音吉は窓に寄って海を見た。かっと照りつける日ざしが目を射た。
音吉の家は、丘のような低い山を背に、海から二、三丁離れた所に建っていた。窓から浜の松林が色濃く見え、その松の木立越しに、伊勢湾の海がぎらぎらと午後の日を返し、海の向こうに鈴鹿山脈が見えた。
浜べで遊ぶ子供たちの声が、風に乗って聞こえて来る。音吉も泳ぎたかった。が、音吉にはまだまだ仕事がある。井戸の水を汲《く》み上げねばならぬ。父の寝巻きを洗わねばならぬ。昼飯の後始末もせねばならぬ。
「音吉」
ようやく煎《せん》じ薬を飲んだ武右衛門が重い口をひらいた。口を利くのさえ大儀なのだ。
「父《と》っさま、しょんべんか」
音吉が察する。
「うん、すまねえの」
「ううん、何でもないで」
音吉は窓から離れて、武右衛門の傍《かたわ》らに行った。武右衛門は音吉の小さな肩につかまって、よろよろと立ち上がった。その父の背に手をまわして、音吉はそろそろと歩く。この時が、音吉の一番うれしい時なのだ。とにかく父が起き上がることができる。そしてよろけながらも、土間の隅の厠《かわや》まで行くことができる。そう思うと肩にかかる父のその重みさえ、音吉にはうれしいのだ。
小野浦の人々は、音吉の父を「正直者の武右衛門」と呼ぶ。戸数二百六、七十の小野浦には、武右衛門という者が他にもいた。その武右衛門は街の中で風呂屋をしていた。小野浦には二軒の風呂屋があって、武右衛門は大きなほうの風呂屋を持っていた。街の者は、この武右衛門を「風呂屋の武右衛門」と呼び、音吉の父をわざわざ「正直者の武右衛門」と呼んだ。
船乗りに荷抜きはつきものだった。千|石《ごく》の米を積むと、そのどの俵からも、いくらかずつ米を抜いた。荷上げの際、抜き打ちに量目の検査がある。どの俵を役人が検査するか、予《あらかじ》め知ることはできない。だから水主《かこ》たちの主《おも》だった者は、褌《ふんどし》の中に、一俵から抜いた分を隠しておく。
「量目あらためーっ!」
突如《とつじよ》声がかかると、その俵は口をあけて一粒残らず吐き出さなければならない。その時何げない顔をして、立ち合いの水主は褌の米を巧みにその中に落とすのだ。たいていの場合、この操作を船頭がした。だが万一に備えて、何人かの水主たちは褌に米を隠し持っていた。だが武右衛門は、決してそれをしなかった。油を積んだ時は、油を抜いた。塩を積んだ時は塩を抜いた。が、武右衛門だけは、仲間に笑われようと、船頭にいやみを言われようと、それに与《くみ》したことはない。一事が万事で、武右衛門は嘘《うそ》ひとつ言えない正直者であった。
しかし、兄の吉治郎は、父が「正直者の武右衛門」と言われることを嫌《きら》った。
「正直者と言われるのはな、馬鹿者と言われるのと、同じことだで、音吉」
吉治郎は蔭《かげ》でよくぼやく。誰に似たのか吉治郎は、まだ十六歳なのに、船荷をくすねることがうまかった。他の水主たちは、船頭と共に一味になってくすねたが、吉治郎はそのくすねた品物を、更に自分一人でごまかすのである。だがそれに気づいている者はまだいなかった。
「さすがは正直者の武右衛門さんの息子、くるくるとよく働きなさる」
人々はそう言ってほめていた。だが、音吉は更にほめられ者だった。音吉にはまさしく武右衛門の正直がそっくり伝わってい、その上母に似て、よく働き、親切者であった。
今、武右衛門の全身の重みに耐えながら、音吉は父の歩き方が、少しよくなったように思った。
「父《と》っさま、やっぱり少しよくのうてきとるわ。足つきがいつもよりしっかりしとるで」
「そうかも知れん」
武右衛門の声も少し明るい。
武右衛門の尿《いばり》する音が、長く長くつづく。恐らく、我慢するにいいだけ我慢していたのだろう。
(わしに遠慮して)
音吉は父の尿の音を聞きながら、そんな父親を哀れに思った。
武右衛門を床に臥させ、煎《せん》じ薬の茶碗《ちやわん》を片づけて、音吉は庭の井戸に水を汲《く》みに行った。母の美乃が汗を拭《ふ》き拭き、畠《はたけ》の草を取っている。そのつぎはぎの野良着《のらぎ》は、音吉がもの心ついてから、ずっと同じものであった。
「母《かか》さま、ひと休みせんか」
「ああ、もうひと息だで……」
美乃は草を取る手を休めず、日焼けした顔を音吉に向けた。
「母さま、水を飲みとうないか」
音吉は釣瓶《つるべ》の綱を手ぐりながら言う。
「いらんわ。水を飲むと汗になるばかりだでな」
深い井戸に、音吉の姿が映っていた。釣瓶が水に落ち、ぱちゃんと音がはね返って来た。釣瓶に水を一杯|汲《く》みこんで、音吉は重い綱を手ぐり上げる。汲み上げた水を手桶《ておけ》に注ぎ、音吉は土間の水瓶《みずがめ》に運んで行く。幾度手桶を運んだことだろう。幾度運んでも、音吉は水一滴こぼしはしない。いつか父の武右衛門が言った。
「船乗りはのう、水が命だでの。陸《おか》にいて水を粗末にする者は、きっとその報いを受けるで」
その言葉を、子供心に、音吉は心にとめて聞いた。それまでは、水瓶に水を移すまでに、足も裾《すそ》もよく水でぬらしたものだ。音吉もやがて、兄につづいて水主《かこ》になるつもりであったのである。