二
「父《と》っさまー、千石船《せんごくぶね》だあっ!」
水を汲み終わって、窓べでひと息つこうとした音吉が、海を指さした。松の木立越しに、大きな帆を上げた千石船が見えたのだ。
「何!? 船が戻《もど》うたか」
武右衛門が枕《まくら》から首をもたげた。小野浦の沖に泊まれば、小野浦の船なのだ。小野浦には数多くの船主や船頭がおり、千石船が二、三十|隻《せき》もあった。
長男の吉治郎は、千石船に乗って江戸に行った。大坂から米を積んで行った筈《はず》だ。そしてその船がそろそろ帰る筈だった。
「うん、きっと兄《あに》さの船だ」
音吉の声が弾む。
「父っさま。船さ行ってもええか」
音吉の声がうわずる。しっかり者といってもまだ十二歳だ。音吉は今しも浜のほうに上がった子供たちの歓声を聞いて、じっとしていられない。
「ああ行ってもええ」
武右衛門は目をつむった。武右衛門は、自分が船に乗っていた時のことを思い出す。往《い》きには米や油を積んで、荷は満載《まんさい》だが、帰りは空船だ。その船に船主や船頭が、自分の才覚で帰り荷を積む。船底が軽くては航海が危険でもあるからだ。天城《あまぎ》のけやきや女竹、そして伊豆石を積んで武右衛門たちもよく帰って来たものだ。そして小野浦の沖に碇《いかり》をおろし、艀《はしけ》で荷を運んだものだ。しばらくぶりに妻子たちに会える喜びで、重い石も重くはなかった。その石や材木が、船主や船頭を富ませ、自分たち水主《かこ》の生活といよいよ隔たったものにすることさえ、誰も思う者はない。初めから、船頭や船主は土蔵を幾つも持ち、塀《へい》に囲まれた家屋敷に住む者と思って怪しまなかった。船頭が富んでも、水主には関わりのないことだった。只《ただ》、一航海終われば、何がしかの金とささやかな土産《みやげ》を妻子に持って帰ることができる。
(うれしかったものだ)
煤《すす》けた天井を見上げる武右衛門の目尻に涙がたまった。
家を飛び出した音吉は、真っすぐに浜に向かおうとして、仲良しの久吉《きゆうきち》のことを思った。久吉の家は八幡神社の西手にあって、音吉の家から四|丁程《ちようほど》の所にある。つまり音吉の家は、久吉の家とは反対に神社の東にあった。
暑い日ざしの中を音吉は走る。胡麻畠《ごまばたけ》の傍《そば》を通り、里芋《さといも》畠の傍《かたわ》らを駈《か》けぬける。駈ける音吉の影も短く地に走る。
千石船《せんごくぶね》が沖に泊まると、音吉たち子供らは、いつも千石船に泳いで行くのだ。真っ白い米の飯を食わせてくれるからだ。塩をつけた大きな握り飯が目に浮かぶ。生唾《なまつば》が出る。ふだんは粟《あわ》か麦飯しか食っていないのだ。
畠を駈けぬけた所に、船主樋口源六の白壁の土蔵が並んでいた。その土蔵と土蔵の間に、妹さとのうたう声がした。音吉ははっと立ちどまった。さとはまだ七歳だが、樋口の家の子守に雇われていた。この暑いさ中、さとは小さな体に、赤ん坊をくくりつけられ、歌をうたっていた。
「ねんねよう、おころりよう」
ふとった赤ん坊が、肩からずりさがり、さとのふくらはぎのあたりまで足が来ている。さとは並外れて小さいのだ。音吉は、
「さと」
と呼んだ。さとも千石船につれて行ってやりたかった。さとはふり返って、
「兄さ」
と、うれしそうに笑った。のぞいた八重歯が愛らしい。
(千石船さ、握り飯食いに行くべ)
と、言いたい言葉を呑《の》みこんで、音吉はふり切るように走り去った。さとは、日の暮れるまで、赤ん坊の守《も》りをしなければならない。千石船が来たと告げるわけにはいかないのだ。
と、どれほども走らぬうちに、向こうから走って来る久吉の姿があった。
「千石船が来たぞっ!」
二人は鳥居の前で同時に叫んだ。久吉もまた、音吉に千石船が来たと告げに出て来たのだ。二人は顔を見合わせて笑った。そして笑いながら走った。道べの浜木綿《はまゆう》の白い花が風にゆれていた。
「千石船が来たぞっ!」
叫ぶ音吉に、
「しっ! 黙っとれ」
走りながら久吉が言う。
「何で黙っておらんならん?」
「だって、わしらの食いぶちが少なくなるやないか」
久吉が口を尖《とが》らせる。構わずに音吉が叫ぶ。
「千石船が来たぞうっ!」
「それはうそだでーっ」
久吉が叫ぶ。そして二人はげらげらと笑った。
暑い日中、ひっそりとしていた家並みのあちこちから子供たちが走り出す。二人、三人、五人と、走る数が増える。松並木を横ぎると、白い砂浜が西に大きく湾曲してひろがっていた。砂が足の裏に焼けつくようだ。女の子たちも素っ裸になって海に飛びこむ。その中に、船主樋口源六の孫娘|琴《こと》と、久吉の妹品がいた。
音吉は、琴がその紺の浴衣《ゆかた》のひもを手早くほどき、浅黒い引きしまった体をあらわにするまでの一瞬を、目の端に見た。不意に音吉の胸が鳴った。琴の胸が、小さくふくらんでいるのを見たからだ。
音吉は幼い時から今まで、琴の全裸を見ている。このあたりの子供たちは、一糸まとわず海に入るからだ。が、今まで、琴の胸は決してふくらんではいなかった。
(いつのまに……)
少しの間、ぼんやりと突っ立っていた音吉を、琴がふり返ってにっこりと笑った。音吉は不意に、自分が素裸であることが、なぜか恥ずかしく思われた。音吉はあわてて海の中に飛びこんだ。琴も品も、音吉につづいて泳ぎ出す。
左手に磯《いそ》があった。その磯を避けて、荷を積んだ艀《はしけ》が近づいて来た。
「見たか、音吉」
久吉が泳ぎながら言った。
「見たかって、何や?」
「お琴の胸や」
「…………」
「おれ、見たわ。お琴の奴《やつ》、色気《いろけ》づいたで」
久吉は音吉より一つ年上だ。音吉は知らぬ顔をして抜き手を切った。
千石船《せんごくぶね》の開《かい》の口《くち》へ、子供たちが次々と縄梯子《なわばしご》を伝って上って行く。水主《かこ》の一人が手を伸べて引き入れてくれる。音吉は、他の子供が上りきるのを見てから、最後に上った。
賑《にぎ》やかに子供たちが握り飯を食べ終わった頃《ころ》、のっそりと水主部屋に入って来た若い男があった。
「小うるせえ餓鬼《がき》どもだ」
男は口をへの字に曲げた。赤銅《しやくどう》色の半裸が逞《たくま》しい。押し黙った子供たちを男はじろりと見廻《みまわ》し、傍《かたわ》らにいた琴の乳房をむずとつかんだ。音吉がはっと息を飲んだ時、男はもう琴から離れていた。
「しょんべんくせえや」
笑った男の片頬《かたほお》に凄味《すごみ》があった。これがはじめて音吉の見た、熱田在の岩松であった。
水を汲み終わって、窓べでひと息つこうとした音吉が、海を指さした。松の木立越しに、大きな帆を上げた千石船が見えたのだ。
「何!? 船が戻《もど》うたか」
武右衛門が枕《まくら》から首をもたげた。小野浦の沖に泊まれば、小野浦の船なのだ。小野浦には数多くの船主や船頭がおり、千石船が二、三十|隻《せき》もあった。
長男の吉治郎は、千石船に乗って江戸に行った。大坂から米を積んで行った筈《はず》だ。そしてその船がそろそろ帰る筈だった。
「うん、きっと兄《あに》さの船だ」
音吉の声が弾む。
「父っさま。船さ行ってもええか」
音吉の声がうわずる。しっかり者といってもまだ十二歳だ。音吉は今しも浜のほうに上がった子供たちの歓声を聞いて、じっとしていられない。
「ああ行ってもええ」
武右衛門は目をつむった。武右衛門は、自分が船に乗っていた時のことを思い出す。往《い》きには米や油を積んで、荷は満載《まんさい》だが、帰りは空船だ。その船に船主や船頭が、自分の才覚で帰り荷を積む。船底が軽くては航海が危険でもあるからだ。天城《あまぎ》のけやきや女竹、そして伊豆石を積んで武右衛門たちもよく帰って来たものだ。そして小野浦の沖に碇《いかり》をおろし、艀《はしけ》で荷を運んだものだ。しばらくぶりに妻子たちに会える喜びで、重い石も重くはなかった。その石や材木が、船主や船頭を富ませ、自分たち水主《かこ》の生活といよいよ隔たったものにすることさえ、誰も思う者はない。初めから、船頭や船主は土蔵を幾つも持ち、塀《へい》に囲まれた家屋敷に住む者と思って怪しまなかった。船頭が富んでも、水主には関わりのないことだった。只《ただ》、一航海終われば、何がしかの金とささやかな土産《みやげ》を妻子に持って帰ることができる。
(うれしかったものだ)
煤《すす》けた天井を見上げる武右衛門の目尻に涙がたまった。
家を飛び出した音吉は、真っすぐに浜に向かおうとして、仲良しの久吉《きゆうきち》のことを思った。久吉の家は八幡神社の西手にあって、音吉の家から四|丁程《ちようほど》の所にある。つまり音吉の家は、久吉の家とは反対に神社の東にあった。
暑い日ざしの中を音吉は走る。胡麻畠《ごまばたけ》の傍《そば》を通り、里芋《さといも》畠の傍《かたわ》らを駈《か》けぬける。駈ける音吉の影も短く地に走る。
千石船《せんごくぶね》が沖に泊まると、音吉たち子供らは、いつも千石船に泳いで行くのだ。真っ白い米の飯を食わせてくれるからだ。塩をつけた大きな握り飯が目に浮かぶ。生唾《なまつば》が出る。ふだんは粟《あわ》か麦飯しか食っていないのだ。
畠を駈けぬけた所に、船主樋口源六の白壁の土蔵が並んでいた。その土蔵と土蔵の間に、妹さとのうたう声がした。音吉ははっと立ちどまった。さとはまだ七歳だが、樋口の家の子守に雇われていた。この暑いさ中、さとは小さな体に、赤ん坊をくくりつけられ、歌をうたっていた。
「ねんねよう、おころりよう」
ふとった赤ん坊が、肩からずりさがり、さとのふくらはぎのあたりまで足が来ている。さとは並外れて小さいのだ。音吉は、
「さと」
と呼んだ。さとも千石船につれて行ってやりたかった。さとはふり返って、
「兄さ」
と、うれしそうに笑った。のぞいた八重歯が愛らしい。
(千石船さ、握り飯食いに行くべ)
と、言いたい言葉を呑《の》みこんで、音吉はふり切るように走り去った。さとは、日の暮れるまで、赤ん坊の守《も》りをしなければならない。千石船が来たと告げるわけにはいかないのだ。
と、どれほども走らぬうちに、向こうから走って来る久吉の姿があった。
「千石船が来たぞっ!」
二人は鳥居の前で同時に叫んだ。久吉もまた、音吉に千石船が来たと告げに出て来たのだ。二人は顔を見合わせて笑った。そして笑いながら走った。道べの浜木綿《はまゆう》の白い花が風にゆれていた。
「千石船が来たぞっ!」
叫ぶ音吉に、
「しっ! 黙っとれ」
走りながら久吉が言う。
「何で黙っておらんならん?」
「だって、わしらの食いぶちが少なくなるやないか」
久吉が口を尖《とが》らせる。構わずに音吉が叫ぶ。
「千石船が来たぞうっ!」
「それはうそだでーっ」
久吉が叫ぶ。そして二人はげらげらと笑った。
暑い日中、ひっそりとしていた家並みのあちこちから子供たちが走り出す。二人、三人、五人と、走る数が増える。松並木を横ぎると、白い砂浜が西に大きく湾曲してひろがっていた。砂が足の裏に焼けつくようだ。女の子たちも素っ裸になって海に飛びこむ。その中に、船主樋口源六の孫娘|琴《こと》と、久吉の妹品がいた。
音吉は、琴がその紺の浴衣《ゆかた》のひもを手早くほどき、浅黒い引きしまった体をあらわにするまでの一瞬を、目の端に見た。不意に音吉の胸が鳴った。琴の胸が、小さくふくらんでいるのを見たからだ。
音吉は幼い時から今まで、琴の全裸を見ている。このあたりの子供たちは、一糸まとわず海に入るからだ。が、今まで、琴の胸は決してふくらんではいなかった。
(いつのまに……)
少しの間、ぼんやりと突っ立っていた音吉を、琴がふり返ってにっこりと笑った。音吉は不意に、自分が素裸であることが、なぜか恥ずかしく思われた。音吉はあわてて海の中に飛びこんだ。琴も品も、音吉につづいて泳ぎ出す。
左手に磯《いそ》があった。その磯を避けて、荷を積んだ艀《はしけ》が近づいて来た。
「見たか、音吉」
久吉が泳ぎながら言った。
「見たかって、何や?」
「お琴の胸や」
「…………」
「おれ、見たわ。お琴の奴《やつ》、色気《いろけ》づいたで」
久吉は音吉より一つ年上だ。音吉は知らぬ顔をして抜き手を切った。
千石船《せんごくぶね》の開《かい》の口《くち》へ、子供たちが次々と縄梯子《なわばしご》を伝って上って行く。水主《かこ》の一人が手を伸べて引き入れてくれる。音吉は、他の子供が上りきるのを見てから、最後に上った。
賑《にぎ》やかに子供たちが握り飯を食べ終わった頃《ころ》、のっそりと水主部屋に入って来た若い男があった。
「小うるせえ餓鬼《がき》どもだ」
男は口をへの字に曲げた。赤銅《しやくどう》色の半裸が逞《たくま》しい。押し黙った子供たちを男はじろりと見廻《みまわ》し、傍《かたわ》らにいた琴の乳房をむずとつかんだ。音吉がはっと息を飲んだ時、男はもう琴から離れていた。
「しょんべんくせえや」
笑った男の片頬《かたほお》に凄味《すごみ》があった。これがはじめて音吉の見た、熱田在の岩松であった。