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海嶺07

时间: 2020-02-28    进入日语论坛
核心提示:良参寺     三 音吉は、妹さとが船主樋口源六の家から帰るのを待ちかねて外に出た。赤い夕日に映えて、海は今、紫、浅黄《
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良参寺
     三
 音吉は、妹さとが船主樋口源六の家から帰るのを待ちかねて外に出た。
赤い夕日に映えて、海は今、紫、浅黄《あさぎ》、赤、緑と、幾層にも染め分けられている。音吉は目を細めてその海を見た。波打ち際に、金色の光が荒く乱れて散っている。今、夕日は鈴鹿《すずか》山脈に静かに落ちて行くところだった。真っ赤な櫛《くし》のように見えていた夕日が、次第に一の字になり、遂に光の破片となって山にかくれた。
日が沈むと、海は一様に紫に変わりはじめた。
「兄《あに》さー!」
と呼ぶ、さとの声がした。ふりむくと、小さなさとが向こうから走って来る。
「おさとーっ」
音吉も呼んだ。
「兄さ、これ、鰈《かれい》もろうて来たでえ」
さとは叫びながら畠《はたけ》の中の小道を走って来る。さとは、船主の家から、一日の子守を終えて帰る時、干魚や若布《わかめ》などを時折《ときおり》もらって帰る。それがさとの子守の報酬《ほうしゆう》なのだ。いや、報酬は船主の家で食べる朝飯と昼飯が正当な報酬だった。さとは朝、母に起こされると、眠い目をこすりこすり井戸端《いどばた》で顔を洗って、すぐ船主樋口の家に飛んで行くのだ。それだけで音吉の家では口べらしになる。その上、時折今日のように土産《みやげ》がある。
音吉は、さとの小さな手から五枚の干鰈を受け取って胸が痛んだ。さとが休む間もなく子守をしていることを思うと、時折息ぬきに寺子屋に行ったり、遊んだりする自分が、情けうすい人間に思われるのだ。
「うまそうだな、さと」
うれしそうにさとの差し出した干鰈《ほしがれい》の匂いを嗅《か》ぎながら、音吉が言う。さとはにっこりうなずいて、音吉より先に家の中に駈《か》けこむ。
「母《かか》さま、父《と》っさま」
一日見ることのできなかった親の顔を、さとは一刻も早く見たいのだ。
「おう、おおきにおおきに」
布団の上に坐《すわ》っていた武右衛門が、首だけを向けた。
厨《くりや》にいた母の美乃が駈けよって、さとのかぼそい肩を抱きしめた。
「母さま」
さとは甘えて半泣きの声を出す。一日を他人に取り囲まれて過ごした幼いさとは、何となく泣きたくなるのだ。
「母さま、さとが鰈もらってきたでよ」
音吉が突っ立ったまま、干鰈を高くかざしてみせた。
「それはそれは、いつもありがたいことやのう」
武右衛門が両手を合わせた。美乃も、
「ほんにありがたいことじゃ。さとがよく働くからじゃ」
と、さとの頭をなで、
「すぐに焼いて、いただくかのう」
と腰を上げる。音吉が、
「いや、俺が焼くで、母さませんでええ」
と、土間に降り、かまどの下から燠《おき》を七輪に手早く移した。
食事の終わる頃《ころ》には、さとはもう、傍《かたわ》らの美乃によりかかって、眠りこけていた。いつもこうだ。七つのさとの体には、赤子の守りは応《こた》えるのだ。だが、さとよりもっと年下で、子守に出ている者もいる。音吉はそう思いながら、さとの柔らかな体をそっと抱き上げて、横にしてやる。行灯《あんどん》の光に、さとの丸い顔が愛らしい。襖《ふすま》をあけ放した奥の間に、蚊遣《かや》りの煙がなびいていく。
美乃が後片づけをしたところに、戸口で声がした。
「今晩は、武右衛門さん。体の具合はどうかね」
さとの雇い主の船主樋口源六が、恰幅《かつぷく》のいい姿を現した。源六は吉治郎の乗っている宝順丸の船主で、琴の祖父である。琴の父重右衛門は、宝順丸の船頭として、一年のうち九か月は海にいた。
「おう、これはこれは親方さま」
寝たばかりの武右衛門が、両手を突っぱって起き上がろうとした。
「いやいや、そのままで」
源六は柔和《にゆうわ》に両手をふってみせる。その手の甲に茶色の汚点が幾つか浮いている。
「ほんにいつも、吉治郎やさとが……今日もええ鰈《かれい》を頂戴《ちようだい》して」
半身を起こして、武右衛門が実直に頭を下げた。
「いや、なんのなんの。船主と水主《かこ》とは親子の間だでな。これはまんじゅうじゃ」
源六は下げていた風呂敷包みを美乃のほうに差し出した。
(まんじゅう!?)
たちまち生唾《なまつば》が音吉の口の中にひろがった。まんじゅうなど、めったに食うことがない。良参寺で、檀家《だんか》の法要に偶然出くわした時など、和尚《おしよう》からわけてもらえるぐらいのものだ。友だちの久吉は不思議に法要のある日を嗅《か》ぎつけて、寺の掃除《そうじ》などに駈《か》けつけると聞いた。が、音吉にはそんな嗅覚《きゆうかく》はない。とにかくまんじゅうは、大変な馳走《ちそう》なのだ。
「これはこれは、ありがたいことで」
ひれ伏すように美乃が受け取ると、源六が言った。
「いやいや心ばかりじゃ。ところでお前さんとこの音吉は、大変な利口者《りこうもの》じゃとのう」
唾をのみこんでいた音吉は、自分の名が出てびくりとした。
「お琴が言っていたで。三十人もの寺子屋の中で、一休《いつきゆう》和尚の歌を覚えていたのは、音吉一人だったとな」
音吉はうつむいた。
「はあ、一休さんの?」
武右衛門は何のことかわからない。
「どんな歌だったかな、音吉」
源六が音吉に声をかけた。
「はい、あの……生まるれば死ぬるなりけりおしなべて釈迦《しやか》も達磨《だるま》も猫も杓子《しやくし》も」
「なるほどなるほど、いかにも一休和尚の詠みそうな歌じゃ。お釈迦さまや、達磨大師も、吾々《われわれ》猫や杓子も、生まれた以上、みんな死んで行く者だでなあ」
源六はうなずきながら歌を味わっていたが、
「それにしてもじゃ。この歌をまちがいなく覚えていたのは、この音吉一人じゃったそうだで、お琴がえらい感心しておったわ」
琴が感心していたと聞いて、音吉はうれしかった。が、なぜか、琴の顔が浮かばずに、いきなり岩松の顔が目に浮かんだ。
「ところで、今日は折り入って頼みがあって来たでのう、武右衛門さん」
「は、頼みと申されますと?」
武右衛門は床の上に起き上がった。
「いや、そのままそのまま」
と、両手でおさえるようにして源六は言い、おもむろに腰の煙管《きせる》を抜いて、煙草を詰めた。
「話と言うのはじゃな、実はこの音吉を、うちの使い走りに、しばらく貸してもらえんかと思ってのう」
「え? この音吉を?」
「実はの、長助が昨日の朝から、急にいのうなってな」
「急に? と申しますと……」
「御蔭参《おかげまい》りじゃ、お蔭参り」
源六が苦笑した。
「ははあ、御蔭参り、つまり脱《ぬ》け参りということで」
音吉も御蔭参りのことは聞いていた。何でも、六十年毎に御蔭参りが流行するという。今年はその御蔭参りの年で正月早々伊勢神宮の札《ふだ》が、日本中に、天から降ったという噂《うわさ》が立った。御蔭参りの年にはこのお札が降るらしい。
音吉は、お札が降ったと幾度か聞くうちに、自分もこの目で見たような錯覚をおぼえた。空からお札が風にのって、あっちの山の上、こっちの軒の下、そっちの浜べに降ってきたのを本当に見たような気がするから不思議だ。
このお札の噂が立つと、どこの土地からも、伊勢神宮に五人、十人、二十人、あるいは四十人と、一団になって参詣が始まる。御蔭参りの特徴は、誰にも断らずに、いつ何時飛び出してもいいということだ。金を一文持たなくても、握り飯一つ持たなくても、この参詣人たちを泊める善根宿《ぜんこんやど》や、接待所が道中に出来る。食べ物も銭も、駕籠《かご》も馬も、風呂もみんな必要に応じて与えられる。しかも主人や親や、夫や妻や舅《しゆうと》に断りなく飛び出しても、誰も咎《とが》めることはできない。万一それを拒む者がいれば、たちまち神罰が下ると、人々は信じていたからだ。
「なるほど、長助が御蔭参りに脱け出しましたか」
「仕方がないことでのう。事はお伊勢さまのことだで、誰も反対もできん」
「それにしても、一言の相談もなく……」
武右衛門は納得のいかない顔になる。
「おもしろいことがはやるもんだ。とにかく御蔭参《おかげまい》りの年にお伊勢さまに参れば、特別のご利益《りやく》がたんとあると言うでのう」
船主の源六は、御蔭参りはこんなものだと、最初から諦《あきら》め切った顔をしている。
「しかし旦那《だんな》、長助はいつもおとなしく、大きな声一つ立てん子なのになあ」
「それだで、武右衛門さん。御蔭参りに出て行く奴《やつ》は、ふだん虫も殺さぬ顔をした奴が多いそうだでのう。それと、ふだんから遊び好きの奴よのう」
「なるほどなるほど」
武右衛門がうなずく。常々上の者に頭の上がらぬ者ほど、御蔭参りに一時の自由を得たいと思うのであろう。
「長助はの、従弟の久吉と、野間から船に乗って行ったらしいのじゃ」
「久吉が?」
音吉が驚きの声を上げた。つい二、三日前、良参寺でかくれんぼをした久吉は、御蔭参りのことは、おくびにも出さなかった。
「おう、お前と仲よしの久吉じゃ。あの久吉が長助を誘ったんじゃなかろうかとわしは思うがのう」
「久吉がのう」
音吉は、久吉が御蔭参りに飛び出した気持ちがわかるような気がした。久吉の父親は、短気で、口より先に拳骨《げんこつ》が飛んでくるような男だ。母親は明るい女で、久吉はその母親に似たらしいが、それでもふだん父の鉄拳の下にあるのはつらかったのかも知れない。
「という訳《わけ》だで、長助の帰って来るまででも、住みこんでもらえんかのう」
「こんな子供でも、役に立てば……」
武右衛門はかしこまって、布団の上に両手をついた。
「そうか。貸してくれるか。それはありがたい」
と、源六は煙草を深く吸いこんで、満足そうに音吉を見、「とにかく今年の春には、僅《わず》かひと月の間に、二百万以上の人間が、お伊勢さんに参ったというでな」
話がまた御蔭参《おかげまい》りに戻《もど》った。
「ほほう! 二百万人!」
武右衛門が首を小きざみにふるわせた。
「二百万人ねえ」
美乃も驚いて言う。音吉には、二百万がどれほどの数か見当もつかない。この小野浦の戸数は、二百何十軒とか聞いている。その家を一軒一軒数えて歩くさえ、大変なことだ。
「たったひと月の間にじゃ。一日に分けても大変な数だで。それが、幟《のぼり》を打ち立てたり、まんどうを掲げて、『お蔭でさ、するりとな、脱《ぬ》けたとさ』とうたいながら、踊り歩くそうじゃ」
源六は踊る手ぶりをしてみせた。
「へえー、大変な騒ぎでござりますなあ」
「うん、大変なことよのう。それだけの人間に、只《ただ》で飯を食わせるだけでも、容易なことではない」
「ほんとにねえ」
美乃もうなずく。音吉は、久吉が大勢の大人たちの中に入って、
「お蔭でさ、するりとな、脱けたとさ」
と、人一倍大きな声で、ひょうきんに踊って歩く姿が目に浮かんだ。音吉も、そんな仲間の中に入って、知らぬ他国を旅してみたい気がしないではない。だが、さとでさえ子守をして働かなければならないわが家を思うと、如何《いか》にご利益《りやく》のある御蔭参《おかげまい》りとはいえ、気儘《きまま》に飛び出すわけにはいかないことだった。
「武右衛門さん、御蔭参りに事よせてのう、河内では大勢で物持ちの家に押しかけ、土足で部屋に上がって踊ったそうじゃ。そしてのう、酒や肴《さかな》を出させたり、年貢《ねんぐ》減らしを頼んだり、借金棒引きまで交渉したそうじゃ」
「へえー、大勢の力というものは、恐ろしいものでござりますのう」
「日頃《ひごろ》の不平不満が、どっと一度に出て来るんじゃろうのう。上に立つ者も考えねばあかん」
「ほんとでござりますのう」
「何でも、男が女のかっこうしたり、女が男の姿をしたり、踊り狂っているそうだで」
「まあ! 女が男の姿して?」
美乃が呆《あき》れた。
「そうだとさ、お美乃さん。奇妙な世の中じゃ。今年は熱田にも、お伊勢さんの宮魂《みやだま》が、ぱあっと光って飛んで来たそうじゃ。それで熱田神宮にも御蔭参りが押しよせて大騒ぎと聞いたわ」
熱田がどんな所か、伊勢がどんな所か、音吉にはわからない。だが見知らぬ地の話を聞くことは、何か胸のとどろく思いがする。武右衛門と共に源六の話に聞きほれている音吉に、源六が言った。
「では、音吉、行こうか」
「えっ? 今晩から!? 親方さま」
「明日の朝が早いでなあ」
ゆったりと笑って、源六が立ち上がった。
「はい、それでは……」
音吉も立ち上がった。が心の中で、父の看病を母が一人でするのかと、気の毒な気がした。すぐ目と鼻の先に行くというのに、音吉はうしろ髪をひかれる思いで家を出た。
その夜、音吉はなかなか寝つけなかった。音吉の与えられた寝部屋は、塀《へい》を入ってすぐ横の使用人部屋であった。作男《さくおとこ》や下男が四人程同じ部屋にいた。男臭い部屋だった。音吉は、垢染《あかじ》みたせんべい布団の中に、じっと目をあけていた。この布団に寝ていた長助は音吉より三つ年上の十五歳である。長助は今頃《いまごろ》、どこかの宿で、久吉とどんな夢を見ていることだろう。
(長助は帰ってくるだろうか)
帰って来なければ、自分はいつまでもこの家に住みこまなければならない。先程源六が言った。
「朝起きたら、先ず水|汲《く》みじゃ。いいな。夜明けと共に起きるんだぞ」
夏の夜明けは早い。早く眠らねばと思うのだが、どうも寝つけない。
「何だ、音、眠れんのか」
傍《かたわ》らにいた若い男が言った。藤造という男だ。
「うん」
「長助が帰って来たら、長助に恨みごとを言ってやるといい。あいつおとなしい顔してるに、一人で脱《ぬ》け参りしおって」
藤造が闇《やみ》の中で、ぶつぶつ言った。と、その向こうの男が、
「俺も今夜は、眠られんわ。何やむずむずしてのう」
と、むっくり起き上がった。そして、ぷいと外へ出て行った。厠《かわや》にでも立ったのかと思ったが、男はなかなか戻《もど》らない。しばらく音吉は、男がどうしたのかと気になった。
「あの人、どうしたんかな」
「ああ、奴《やつこ》さんか。奴さんは夜這《よば》いに行ったんやろう」
藤造はこともなげに笑った。
「夜這い?」
夜這いのことは、子供の音吉も聞いている。だが聞いているだけで、本当に夜這いに行くのを見たことはない。
「音、夜這いって何か知っとるか」
「……ようわからん」
音吉は正直に答えた。
「まあ、知らんでもええわな。しかしな、ここのお嬢に目をつけている男もいるでな。お前、妙な男が入って来たら、騒ぎ立てなあならんで」
最初の夜から、音吉はずっしりと重荷を負わされた心地だった。
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