三
思いがけぬ所で岩松を見た久吉は、驚いた。久吉が岩松を見たのは、千石船《せんごくぶね》に米の飯を食べに行った時だ。岩松は、裸の子供たちをじろりと見、
「小うるせえ餓鬼共《がきども》だ」
と、子供たちを恐れさせたのだ。そして、琴のふくらみかけた乳房をむんずとつかみ、久吉たちを仰天《ぎようてん》させたのだ。あの後、久吉は岩松に会ってはいない。いやな男だと思っていたのに、久吉の胸に懐かしいような思いが湧《わ》いた。
久吉にとって、熱田は遠い他国であった。どっちを向いても、見知らぬ人間ばかりであった。従兄《いとこ》の長助に誘われて、喜んで伊勢参りに出て来たのだが、その長助に、久吉は置き去りにされてしまったのだ。
昨夜、熱田の善根宿《ぜんこんやど》に、金のない長助と久吉は泊まった。その宿で、長助がこう切り出した。
「久吉、お前、江戸に行く気はないか」
「え、江戸?」
突然のことに久吉は、驚いて頓狂《とんきよう》な声を上げた。ちょうど夕食を終わったばかりで、相客の男は、手枕《てまくら》でごろりと寝ころんでいた。長助は言った。
「うん、江戸だ」
長助は真剣なまなざしだった。
「江戸いうたらお前、えらい遠い所やで」
久吉には、江戸が熱田の西か東か、見当もつかない。只《ただ》、公方《くぼう》さまのいる大きな町だと聞いているだけだ。
「遠くったって、地つづきだで、歩いて行きゃあ、いつかは着くわ」
「何でお前、そんなに江戸に行ってみたい思うのや」
「うん。お前は子供でまだわからんのや。俺な、船主の親方の所に住みこんで三年、来る日も来る日も、まじめに働いた。しかしな、給金は年に一両にもならんのやで」
「…………」
久吉は、熱田名産の大きな団扇《うちわ》を手に取り、蚊《か》を追い払いながら、一両という金は大した金ではないかと思ってみる。
久吉には、金の価《あたい》がよくわからない。千石船《せんごくぶね》の船頭は、年に三両もらうという。多くても五両だと聞く。舵《かじ》取りが二両か三両で、水主《かこ》たちは一両の給金とか。飯炊《めした》きの炊《かしき》は、僅《わず》かに二分だ。むろん、一航海ごとに歩合給はあるから、一年の収入はそう少なくない。とは言っても、命をかけての水主の賃金と同じ一両であれば、ずいぶんといい待遇《たいぐう》ではないかと、子供の久吉は思う。第一、一両の小判など、久吉は手に持ったことがない。
「俺は蔭《かげ》日向《ひなた》なく働く男だ。だがな、この頃《ごろ》働くのがいやになったわ。いくら骨身削って働いたところでな、ちゃらんぽらん働いている奴《やつ》と、同じ給金だでな。親方んところに、このあと十年働いてみても、よめをもらえる見込みもないわ」
「よめ?」
自分より僅《わず》か二つ年上の長助が嫁のことを言い出したので、久吉はぽかんとした。
「久吉、俺は江戸へ行く。お前だって、漁師で一生暮らすよりは、花のお江戸で、大店《おおだな》にでも住みこんだらどうだ。年季《ねんき》があけたら、のれんを分けてもらえるでえ」
「いやだ。俺は小野浦が好きじゃ。この熱田まで来ただけでも、俺は何やら淋《さび》しゅうなった。俺は父《と》っさま母《かか》さまのいる小野浦がええ」
「父っさま母さまでなくて、久吉お前は、お琴のいる小野浦がいいんじゃろう」
長助はにやりと笑った。久吉は大きくうなずいて、
「ああ、俺はお琴が好きじゃ。あのにこっと笑った顔は、えも言われぬほど好きじゃ。長助は、あんなかわいいお琴のいる家から、何で逃げ出したいんや」
久吉は真顔《まがお》だった。
「お前は餓鬼《がき》だでな、何も知らん。江戸に行けば、お琴のような娘は、掃き捨てるほどおるわ」
「長助、お前、お琴に惚《ほ》れんかったのか」
「惚れたって、どうなるものでもない。お琴は俺たち風情《ふぜい》の嫁になる筈《はず》はないでな」
「嫁にせんでも、惚れたらいいでないか。惚れるというのは、いい気持ちのものだで。俺はお琴に惚れとる。お琴のちょっぴりふくれた胸を、俺は毎晩目に浮かべて寝る。それだけで、もう楽しいわ」
「一人前の口を利く奴《やつ》だ。思うだけでええなら、江戸に行ってもできる。な、江戸に行こう、江戸に」
長助は熱心だった。
「江戸なんて、いやだ。俺は総領だ。うちの跡取りだで、親ば捨てて行く訳《わけ》にはいかん」
久吉は、持っていた大《おお》団扇《うちわ》をばたばたとふった。と、こっちに背を向けて手枕《てまくら》をしていた男が、むっくりと起き上がって言った。
「おい、お若えの、お前さんほんとに江戸に行くつもりかね」
目尻の下がった、四十過ぎのやさしそうな男の笑顔に、長助はこっくりとうなずいた。
「そいつはいい了見《りようけん》だ。で、お前さんの親御さんは?」
男は一見《いつけん》町人風だが、商人とも見えない。
「はい。親は二人共、早くに死にました」
「なるほどなるほど。それじゃ、ますます江戸に行ったほうがいい。江戸はいい所だ」
「あのう、あんたさんは江戸のお方で?」
「ああ、江戸で生まれて、江戸で育った生粋《きつすい》の江戸っ子よ。江戸という所はな、〈鐘《かね》一つ売れぬ日はなし江戸の春〉ってな。大変な大きな町さ」
「かね一つ……?」
久吉が首をひねった。
「おお、そうよ。お寺のあの、ゴーンと鳴らす吊《つ》り鐘じゃ。あんなでっかい鐘が、売れねえ日はねえという江戸だからな。住むんならお江戸よ。人間と生まれて、何も片《かた》田舎《いなか》に埋もれて暮らすことはない。働き次第で誰でも大金持ちになれるのが江戸だ。辛抱《しんぼう》のし甲斐《がい》のある所よ」
「そうですか! 誰でも、働き次第で、分限者《ぶげんしや》になれますか」
長助が目を輝かした。
「なれるとも、なれるとも。そんな人間ばかりの集まりだ。金さえ持ちゃあ、いい女は寄ってくる。江戸には吉原《よしわら》ってえ、いい所があってな。大名にさえなかなか頭をふらぬ、そりゃあ天女《てんによ》のようなおいらんがいる。しかし金さえ持ちゃあ、そのおいらんを落籍《ひか》すこともできるんだ。住むんならお江戸よ。公方《くぼう》さまのお膝《ひざ》もとよ」
男は浅草の見世物小屋の賑《にぎ》わいや、両国の花火や、歌舞伎《かぶき》役者の話、相撲《すもう》取りのことなど、おもしろおかしく語って聞かせた。久吉も一旦《いつたん》は、江戸に行ってみたいと心が動いたほどだった。そしてとうとう、長助はその男と、今朝朝食を食べるや否や、江戸に向かって発《た》って行ってしまったのだ。
久吉は泣きたい思いで船着き場に行ってみたが、今日小野浦に行く船はない。根がのんきな久吉も、急に淋《さび》しくなって、熱田の町をあっちへぶらぶら、こっちへぶらぶら歩きまわって、今、截断橋の上に来たところだった。そして、精進川に身をすすぐ旅人たちを、欄干《らんかん》にもたれて、ぼんやり眺《なが》めていたところだった。
精進川は、川底の石が一つ一つ数えられるほどの澄んだ水で、ここに身を清めて、熱田に詣《もう》でる旅人たちも多かった。それを眺めるともなく眺めていて、久吉は半分泣きたい思いになっていた。
その久吉の目に、截断橋のたもとにいた岩松が目に入ったのだ。
「あっ! あれは?」
誰一人見知らぬ土地にいて、好きも嫌《きら》いもなかった。いや、たとえ鬼であっても、見知った顔は懐かしかった。小野浦の樋口源六の持ち船、宝順丸に乗っていた岩松は、久吉にとっては親しい小野浦の人間の一人に思われた。久吉は吾を忘れて、岩松のほうに駈《か》け出した。
と、一人の若者の肱《ひじ》に久吉は突き当たった。
「この野郎!」
遊び人ふうの男が、そのまま走りぬけようとする久吉の肩を、ぐいっと引き戻《もど》した。大きな力であった。それを岩松がじっとみつめていた。
「小うるせえ餓鬼共《がきども》だ」
と、子供たちを恐れさせたのだ。そして、琴のふくらみかけた乳房をむんずとつかみ、久吉たちを仰天《ぎようてん》させたのだ。あの後、久吉は岩松に会ってはいない。いやな男だと思っていたのに、久吉の胸に懐かしいような思いが湧《わ》いた。
久吉にとって、熱田は遠い他国であった。どっちを向いても、見知らぬ人間ばかりであった。従兄《いとこ》の長助に誘われて、喜んで伊勢参りに出て来たのだが、その長助に、久吉は置き去りにされてしまったのだ。
昨夜、熱田の善根宿《ぜんこんやど》に、金のない長助と久吉は泊まった。その宿で、長助がこう切り出した。
「久吉、お前、江戸に行く気はないか」
「え、江戸?」
突然のことに久吉は、驚いて頓狂《とんきよう》な声を上げた。ちょうど夕食を終わったばかりで、相客の男は、手枕《てまくら》でごろりと寝ころんでいた。長助は言った。
「うん、江戸だ」
長助は真剣なまなざしだった。
「江戸いうたらお前、えらい遠い所やで」
久吉には、江戸が熱田の西か東か、見当もつかない。只《ただ》、公方《くぼう》さまのいる大きな町だと聞いているだけだ。
「遠くったって、地つづきだで、歩いて行きゃあ、いつかは着くわ」
「何でお前、そんなに江戸に行ってみたい思うのや」
「うん。お前は子供でまだわからんのや。俺な、船主の親方の所に住みこんで三年、来る日も来る日も、まじめに働いた。しかしな、給金は年に一両にもならんのやで」
「…………」
久吉は、熱田名産の大きな団扇《うちわ》を手に取り、蚊《か》を追い払いながら、一両という金は大した金ではないかと思ってみる。
久吉には、金の価《あたい》がよくわからない。千石船《せんごくぶね》の船頭は、年に三両もらうという。多くても五両だと聞く。舵《かじ》取りが二両か三両で、水主《かこ》たちは一両の給金とか。飯炊《めした》きの炊《かしき》は、僅《わず》かに二分だ。むろん、一航海ごとに歩合給はあるから、一年の収入はそう少なくない。とは言っても、命をかけての水主の賃金と同じ一両であれば、ずいぶんといい待遇《たいぐう》ではないかと、子供の久吉は思う。第一、一両の小判など、久吉は手に持ったことがない。
「俺は蔭《かげ》日向《ひなた》なく働く男だ。だがな、この頃《ごろ》働くのがいやになったわ。いくら骨身削って働いたところでな、ちゃらんぽらん働いている奴《やつ》と、同じ給金だでな。親方んところに、このあと十年働いてみても、よめをもらえる見込みもないわ」
「よめ?」
自分より僅《わず》か二つ年上の長助が嫁のことを言い出したので、久吉はぽかんとした。
「久吉、俺は江戸へ行く。お前だって、漁師で一生暮らすよりは、花のお江戸で、大店《おおだな》にでも住みこんだらどうだ。年季《ねんき》があけたら、のれんを分けてもらえるでえ」
「いやだ。俺は小野浦が好きじゃ。この熱田まで来ただけでも、俺は何やら淋《さび》しゅうなった。俺は父《と》っさま母《かか》さまのいる小野浦がええ」
「父っさま母さまでなくて、久吉お前は、お琴のいる小野浦がいいんじゃろう」
長助はにやりと笑った。久吉は大きくうなずいて、
「ああ、俺はお琴が好きじゃ。あのにこっと笑った顔は、えも言われぬほど好きじゃ。長助は、あんなかわいいお琴のいる家から、何で逃げ出したいんや」
久吉は真顔《まがお》だった。
「お前は餓鬼《がき》だでな、何も知らん。江戸に行けば、お琴のような娘は、掃き捨てるほどおるわ」
「長助、お前、お琴に惚《ほ》れんかったのか」
「惚れたって、どうなるものでもない。お琴は俺たち風情《ふぜい》の嫁になる筈《はず》はないでな」
「嫁にせんでも、惚れたらいいでないか。惚れるというのは、いい気持ちのものだで。俺はお琴に惚れとる。お琴のちょっぴりふくれた胸を、俺は毎晩目に浮かべて寝る。それだけで、もう楽しいわ」
「一人前の口を利く奴《やつ》だ。思うだけでええなら、江戸に行ってもできる。な、江戸に行こう、江戸に」
長助は熱心だった。
「江戸なんて、いやだ。俺は総領だ。うちの跡取りだで、親ば捨てて行く訳《わけ》にはいかん」
久吉は、持っていた大《おお》団扇《うちわ》をばたばたとふった。と、こっちに背を向けて手枕《てまくら》をしていた男が、むっくりと起き上がって言った。
「おい、お若えの、お前さんほんとに江戸に行くつもりかね」
目尻の下がった、四十過ぎのやさしそうな男の笑顔に、長助はこっくりとうなずいた。
「そいつはいい了見《りようけん》だ。で、お前さんの親御さんは?」
男は一見《いつけん》町人風だが、商人とも見えない。
「はい。親は二人共、早くに死にました」
「なるほどなるほど。それじゃ、ますます江戸に行ったほうがいい。江戸はいい所だ」
「あのう、あんたさんは江戸のお方で?」
「ああ、江戸で生まれて、江戸で育った生粋《きつすい》の江戸っ子よ。江戸という所はな、〈鐘《かね》一つ売れぬ日はなし江戸の春〉ってな。大変な大きな町さ」
「かね一つ……?」
久吉が首をひねった。
「おお、そうよ。お寺のあの、ゴーンと鳴らす吊《つ》り鐘じゃ。あんなでっかい鐘が、売れねえ日はねえという江戸だからな。住むんならお江戸よ。人間と生まれて、何も片《かた》田舎《いなか》に埋もれて暮らすことはない。働き次第で誰でも大金持ちになれるのが江戸だ。辛抱《しんぼう》のし甲斐《がい》のある所よ」
「そうですか! 誰でも、働き次第で、分限者《ぶげんしや》になれますか」
長助が目を輝かした。
「なれるとも、なれるとも。そんな人間ばかりの集まりだ。金さえ持ちゃあ、いい女は寄ってくる。江戸には吉原《よしわら》ってえ、いい所があってな。大名にさえなかなか頭をふらぬ、そりゃあ天女《てんによ》のようなおいらんがいる。しかし金さえ持ちゃあ、そのおいらんを落籍《ひか》すこともできるんだ。住むんならお江戸よ。公方《くぼう》さまのお膝《ひざ》もとよ」
男は浅草の見世物小屋の賑《にぎ》わいや、両国の花火や、歌舞伎《かぶき》役者の話、相撲《すもう》取りのことなど、おもしろおかしく語って聞かせた。久吉も一旦《いつたん》は、江戸に行ってみたいと心が動いたほどだった。そしてとうとう、長助はその男と、今朝朝食を食べるや否や、江戸に向かって発《た》って行ってしまったのだ。
久吉は泣きたい思いで船着き場に行ってみたが、今日小野浦に行く船はない。根がのんきな久吉も、急に淋《さび》しくなって、熱田の町をあっちへぶらぶら、こっちへぶらぶら歩きまわって、今、截断橋の上に来たところだった。そして、精進川に身をすすぐ旅人たちを、欄干《らんかん》にもたれて、ぼんやり眺《なが》めていたところだった。
精進川は、川底の石が一つ一つ数えられるほどの澄んだ水で、ここに身を清めて、熱田に詣《もう》でる旅人たちも多かった。それを眺めるともなく眺めていて、久吉は半分泣きたい思いになっていた。
その久吉の目に、截断橋のたもとにいた岩松が目に入ったのだ。
「あっ! あれは?」
誰一人見知らぬ土地にいて、好きも嫌《きら》いもなかった。いや、たとえ鬼であっても、見知った顔は懐かしかった。小野浦の樋口源六の持ち船、宝順丸に乗っていた岩松は、久吉にとっては親しい小野浦の人間の一人に思われた。久吉は吾を忘れて、岩松のほうに駈《か》け出した。
と、一人の若者の肱《ひじ》に久吉は突き当たった。
「この野郎!」
遊び人ふうの男が、そのまま走りぬけようとする久吉の肩を、ぐいっと引き戻《もど》した。大きな力であった。それを岩松がじっとみつめていた。